凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも信長が桶狭間の奇襲に失敗していたら

2006年07月21日 | 歴史「if」
 戦国時代というものは理解しにくい。
 室町幕府の権威が崩れ、乱世の中で、力の強いものが土地を切り取り、武勇をもって実力で領国を増やしていく形態で、その中から出てきた戦国大名と呼ばれる有力な武将が、いずれ天下を統一しようと凌ぎを削っていた状況であるのならば話は早い。かつてはそのように理解されていた。
 しかしながら、現在では、有力戦国大名が全て最終的に天下統一を目指していた、との考えは定説ではなくなっている。皆少しでも領土を多くしようと争いを続けたが、最終的に天下を全て我が物にするという発想を持つには至っていなかったのではないか、というのが通説となっている。
 その発想を持ちえたのは天下でただ一人、天才・織田信長だけであった。

 信長が「天下統一」を意識しだしたのはいつであるかはわからない。ただ、信長も18歳で家督を継いだ時点では、まだ尾張一国も手中に収めてはいない。若い頃から小競り合いを繰り返し精力的に国内平定作業を続けた。そうしてようやく尾張一国内で最大勢力を得た頃、尾張の東、駿河に本拠を置く今川義元が、突然大軍を率いて尾張を襲った。
 義元の目的はなんであったのかははっきりとはわからない。上洛のための大軍であったという見方が大勢であるが、それも否定する意見もある。ともあれ、今川軍は西上し、尾張の織田を踏み潰すであろうことは間違いなかった。織田信長最大の危機である。兵力は今川軍が2万5千とも3万とも言われている。織田軍はせいぜい3000。どう考えても勝ち目のない戦争で、信長は一発逆転の奇襲を打ち今川軍を壊滅させる。「桶狭間の戦い」である。

 この戦いは、巷間言われているように「窮鼠猫を噛む」式の偶発的なものだけではない。諜報戦であり、信長が「ここでしか勝てない」というギリギリの部分でピンポイントを突いたものであって、信長が勝つにはそれなりの裏づけもある。しかし、信長が勝ったのは必然、とまでは言えないだろう。やはり天佑というものもあった。様々な偶然も折り重なって、兵力1/10の織田軍が勝てたのだ。
 信長は、戦力の差からまともにぶつかっても勝てないことはよく承知しており、狙うなら国境で、戦力が細長く伸びざるを得ない場所しかないと考えていた。それが桶狭間であり、斥候を放ち諜報活動を徹底させた。そして今川先鋒軍(これは後の徳川家康軍だった)が織田の砦である鷲津、丸根城を落とすも捨て置いた。この先鋒軍の制圧によって本隊が動き、義元が行軍を始めた。それのみを信長は狙い、間道を伝い一気に本陣を突く作戦に出たのだ。
 しかしそれだけでは大軍には勝てない。ひとつは本隊が、松平(徳川)軍の先勝によって緩んでいたこと。そして、織田が圧倒的な戦力不足であることは承知しており、攻めて来る可能性を低く見ていたこと(こういう場合は籠城が常套手段である)がある。ゆえに、今川軍は信長がピンポイントと狙った桶狭間(田楽狭間とも)に着いたときには、昼食を摂っていたとも言われる。前祝で酒も振舞われていたとも。完全な油断。そしてこの状況を信長が諜報作戦で知りえていたことがある。
 戦法は、とにかく大将の首だけを狙う。あとは切り捨てである。これもスピードアップに貢献している。
 そして、風雨に乗じることが出来たこともある。折からの集中豪雨で、織田軍の接近に気がつかなかった、またこの雨のため連絡が途絶え、伸びている軍勢を立て直すことが出来なかったこともある。これらは「天佑」の部類だろう。そうして信長は義元を討ち、戦いに勝利を収める。

 それにしても、よく勝てたものだと思う。何かひとつ歯車が狂っただけでも勝てなかっただろう。信長はこれ以降、一切奇襲攻撃などはやらなかった。自分でも「運半分」だと承知していたからだろう。
 つまり、この戦いは負けていた可能性の方が高いのだ。もしも今川軍が桶狭間で休止していなかったら。行軍が早かったら。また、集中豪雨がなかったとしたら。
 信長は善戦空しく蹴散らされていただろう。戦死していた可能性も高い。信長はどんなことがあっても逃げ延びる男だが、この場合は危ない。よしんば逃げ延びたとしても、尾張は今川のものとなり信長は落ち武者になるしか道はなかっただろう。天下などゆめまぼろしである。

 もしも信長が今川に敗れていたら。これは日本史最大の「if」であるかもしれない。その後の日本史の流れが全く読めないからである。
 まず尾張は今川のものとなり、織田家はなくなる。信長の天下への芽は途絶える。これは間違いない。
 そして、仮に今川義元の行軍が上洛目的だったとしよう。上洛して、没落した足利将軍家を再興し、自らは幕府の執権となって天下に号令する。そういう筋書きだったというのが定説である。そうすれば、まず今川軍の当面の敵は美濃の斉藤である。
 これも踏み潰していこうとするだろう。戦力差がある。美濃も攻略して一気に京へ攻め上るか。
 しかし、世の中は下克上である。今川と言えども一気に京へは到達出来ないのではないか。周りは敵だらけである。信長の時は、美濃平定のあと本拠を岐阜に移し、そこで兵力を蓄え(兵農分離もある)、京へ上った。しかし、浅井、朝倉には苦しめられることとなる。そして、信長がこういうことが出来たのも「清洲同盟」があったればこそである。家康という愚直なまでの誠実さを持った武将(当時は家康はタヌキではなかった)が後顧の憂いを無くしてくれたから出来た進軍であるということも見逃せない。果たして今川は? 後ろには「善徳寺同盟」の北条氏康、武田信玄がいる。これらは家康ほど人がよくない。兵站が伸びた今川軍をだまって見ているだろうか。そうは思えない。お尻に火がつくことも十分可能性としてある。
 仮に信玄は謙信との喧嘩が忙しく、また北条も関東経営でとても同盟破棄には至らなかったとしても、駿河から美濃、近江までは距離が長すぎる。領地経営をしっかりしていかないと、例えば三河一向一揆などはこの時期に起こっている。真ん中で分断されないとも限らない。東海道をしっかり平定しないと、ただ京に大軍を率いて上っただけでは天下に号令など出来ない。しかしそういう領地経営を行っていると、義元は何歳になってしまうのだろうか。

 仮に、そういうものをすっ飛ばして上洛し、大軍をもって松永弾正を蹴散らし、足利将軍を奉じて天下に号令したとしよう。しかし、その後室町幕府を再興し自らが執権となって、かつての義満、義教の時代のように中央集権的政府が運営できるのかどうか、と言えば疑問も残る。確かに今川家は血筋もよく、執権足りうる家柄ではある。しかし世の中は下克上、家柄や権威などすっ飛んでいる。当時は軍事力が全てだ。そうすると、今川にそこまでの力があるのかどうか。東海道を蹴散らして進んできただけであれば。仮に、仮に御威光で、駿河・遠江・三河の他、尾張・美濃・南近江と全ての豪族が今川に忠誠を誓い、一大勢力となっていたらそれは別だが、そこまでは御威光だけでは無理だろう。領国経営をしないとダメ。しかし力がないと、松永弾正はまた噛み付くわ、朝倉も六角も、みんな反抗するだろう。本拠地の後ろには北条、武田。とても京都を維持出来ない。また義元も若くはないのだ。跡継ぎは氏真だが、彼は巷間言われるほど愚鈍ではなかったにせよ、乱世の執権には荷が重い。そうしてまた天下は乱れ、群雄割拠の時代へ逆戻り、ということになる可能性がもっとも高い。
 武田信玄が出てくる、ということを言う人は多いだろう。歴史ファンに信玄待望論は多い。しかし、信玄が京に上ろうという発想を得たのは信長の成功を見て後だ。当時は天下取りの考えはない。しかし仮に、今川の状況を見て、「ワシなら」と出馬する可能性もあるにはある。だが、信玄とて寿命があるのだ。やはりこれは信長のような若者でないと難しいことなのだ。一代で成し遂げないと難しい。勝頼がいるにはいるが、難しいだろう。
 この他、今川が一時的にでも天下に号令すれば、野心を持つ武将は確かにいる。上杉や毛利はそこまで考えないかもしれないが島津、長曾我部は考えるかもしれない。しかし彼らは京に遠い。やはり第二世代が覇権を担うことになるのではないか。
 天下取りを狙った若者として、第二世代の代表格としてこのあと伊達政宗が出てくる。彼の発想、そして実力は唯一信長的とも言える。しかし、政宗も信長に影響されていることは否めない。それはともかく、京ではなく関東進出で力を蓄えていずれ天下を狙う、ということは絶対にないとは言えない。しかし可能性は薄いだろう。東北からではなかなか中原を制することは難しいのではないか。立地条件も重要だ。

 したがって、天下の行方は全く読めない。このあとどんな天才が出てくるかなどわからないからだ。秀吉はどうなっているかわからないし、家康は今川配下に居るとしても成り上がってはこれまい。信長の存在がいかに大きかったかがわかる。
 極端な話、天下統一はなされない可能性だってあるやもしれない。たった一人の天才が時流に押されて出てこない限りは、九州は島津、中国は毛利、四国は長曾我部、東海は今川、関東は北条と、それぞれで独立して力を蓄え、睨み合ったまま最終的に日本は、統一政権を持たないままいくつかの公国に分断してしまうかもしれない。そして独自の領国経営をしながらそのまま何百年か過ぎる。
 そして黒船がやってくる。統一国家を持たない日本という島は、列強の草刈場になってしまうだろう。考えるだけでイヤになってしまうな。

 信長という天才を僕はどうしても人間として好きにはなれないが、彼の存在というのは相当に大きかったと思う。公国分断化は極論でありそうはならなかったとは思うが、現在の日本の基盤を築いた功労者であるのは間違いないと思う。また、いいときに斃れたとも思う。そのままずっと長生きすれば、もしも本能寺で信長が斃れていなかったらで書いたように海外進出、そして日本転覆の可能性もあった。歴史というのは不思議なもので、うまく役割を配していると本当に思う。


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4 コメント

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織田信長 (jasmintea)
2006-07-22 21:45:58
私は信長って格別好き!とか思い入れが深いわけではないのですが彼は桶狭間で負けることはあり得ないと思っています。

(って、これじゃ話がつながりませんね

あれは計算された奇襲攻撃で奇策ではないですものね。

本当に凛太郎さんのおっしゃる通り稀な才能と思考能力を持っていた人でその使命をまっとうしたと神様が判断したとき命を奪われた、、、なんて理論的ではありませんが。



でもそれじゃつまらないのでもし信長が桶狭間で負けていたら??と考えると!

そのまま戦国時代、群雄割拠状態が続いたんじゃないでしょうか?

義元が京にのぼっても政治力があるわけないのでブッブー

そして次代を担うべき人も信長という手本がなかったら頭角を現せない人ばかりです。

そうしたらどうなっているのかなぁ???

って、結局凛太郎さんと同じ推理しかできない…

極端に言えば信長がいなかったら龍馬もいなかったかもしれないですね…

返信する
>jasminteaさん  (凛太郎)
2006-07-23 07:32:12
いやいや、僕は桶狭間での信長の勝利は五分五分、もしくはそれ以下の確立だったと思っています(笑)。僕は針の穴ほどのifも考えますが、今回はそうじゃない。

おそらくjasminさんは、桶狭間で今川軍が昼食をとったとされる部分で、例えば鮮魚を献上したのなどは信長の作戦だったとお考えかと思います。僕はそれはどうかな、と思っています。

また、鷲尾、丸根砦の持ちこたえ方も今川軍行軍の時期を左右していると思いますしね。桶狭間に昼についてそこで休止、というのは偶発的事象が積み重なった結果だと思います。

それも全て織り込み済みだとしても、豪雨までは計算できない。あのとき天候がよければ、今川軍の連絡がもっとスムーズにいったと思うのです。

油断はしていましたよ。熱田あたりに農民に旗を立てさせてカムフラージュしていたこともあります。しかし戦力差はいかんともしがたく、ある程度天佑がないと無理だったかと。



信長がもう2度とこのような奇襲を仕掛けなかったのは桶狭間が奇跡だと知っていたからだ、というのは司馬さんですが、僕もそうじゃないかと思います。「窮鼠猫を噛む」式ではないと本文中にも書きましたが、やはり必然じゃなかったと思います♪



義元は政治力がないとは言えないとは思うのですが、厳しいですね(汗)。善徳寺同盟を主導した手腕はあると思うのですがねぇ(笑)。

僕は義元には時間がないと思っているのです。地盤固めの。



本当は、公国に分割した日本列島のことを書きたかったのです。面白いと思って(笑)。しかし4000字を超えていたので止めました(汗)。

なので、つまんない締めになっちゃったと思っています。ifを書いているのに運命論で締めちゃいけないですね。これは反省(笑)。

返信する
今川義元・・・ (戦国マニア)
2008-06-09 03:09:01
どうも今川氏の評価が低すぎます。
歴史小説での書かれ方がひどすぎますね。
ちゃんとした歴史書を読めば分かります。

織田信長てそんなに戦上手ではありませんよ。
勝率も低いし・・・
ましてや、信長が軍や内政の参考(パクリ元)にしていたのは、今川義元でした。

彼は、最初から今川家の当主という座が約束された身分ではなく、花倉の乱という骨肉の争いを制して今川家の主となっています。
隣国の北条とも戦いますが、一旦は奪われた河東郡を奪還し、東の三河にも勢力圏を広げて今川家の全盛期を築き、武田信玄も彼の生きている間は駿河には手出しをしていません。
権謀術策に優れた、当時としては屈指の名将といえます。
一部には参謀の太原雪斎の手柄とする意見もありますが、将が優れていればこそ優れた部下も集まってくるわけで、これは朝倉家がせっかく明智光秀を迎えながら見限られたり、大友家が立花宗茂を活かしきれなかったりと、将の器量によりますから、義元の器が大きいからこそ太原雪斎が従ったと考えます。
器量としては武田信玄と五分か上でしょう。
返信する
>戦国マニアさん (凛太郎)
2008-06-09 22:46:42
僕はこのシリーズでは戦国時代についてはあまり言及してはいないのですが、今記事においても今川義元の評価を低く書いているつもりはないのです。しかしそのように受け取られたならば筆が足らなかったということでしょう。ちょっと残念です。武田信玄ファンに怒られるかもしれませんけど、僕は信玄よりは上かもしれないと思っているのですが。内治も含めて、ですね。「今川仮名目録」を見れば誰しもそう思うはず。また、なんというか攪乱戦術に長けていますよね。戦闘そのものの強さよりそちらの「頭のよさ」が目に付きます。

義元が京に上り天下に号令する意思を持っていたと仮に考えて(そうではなかったのでは、という説も昨今は強いですが、元来通説とされた信長を踏み潰して天下統一を志向していた、として)、上記のコメントレスでも書いていますが、僕は義元には時間が無かったと考えているのです。この時点で40歳を過ぎていますので。それだけの理由です。
天下の行方はどうしても二代目にまで持ち越されそうで。氏真も巷間言われるほど酷くはないと思っていますが、これはわからない。
信長は戦闘ということだけを取り上げればさほどのことはない。尾張兵の弱さというものを差し引いても、ですね。信長の価値はまた別の部分にあると思っています。
なので、桶狭間はイレギュラーである、とここでも書いているのです。

歴史小説はあまり読んでいませんしTVドラマは好きではないので参考にはしにくいのですが、やはり義元は公家だと思っている人もいる。解釈というものは恐ろしいですね。鉄漿と肥満と胴長だけでそのように言われたら義元も浮かばれませんね。
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