夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

桜下美人図 伝島成園筆

2015-04-23 00:02:58 | 掛け軸
窮地に陥った時にこそチームワークの建て直しが急務なことは企業であれ、スポーツ競技であれ同じことのように思います。

窮地の状態で難点ばかり指摘してる経営者やチーム監督ではたとえその場を乗り越えられても決して根本原因の解決にならず終わります。エリートの方にはどうもこのタイプが多いようです。組織のモチベーションをあげるにはどうしたらいいかということに関してはどうも苦労人が向いているようです。

さて本日は桜吹雪ということで桜にちなんだ作品を投稿します。

桜下美人図 島成園筆
絹本着色軸装 軸先陶製 合箱入
全体サイズ:縦1980*横540 画サイズ:縦1230*横420



京都の上村松園東京の池田蕉園とともに「三都三園」と並び称されるというのは何度もこのブログに登場しています。



美人画にはあまり興味のない当方の蒐集ですが、ついつい手の出るのは悪い癖 真贋どうのこうのより画家の来歴に興味があり購入した作品です。



骨董というものは作品を所蔵せず、美術館で見たもの、画集から見た作品からでは来歴などの知識も身につかないものです。これは誠に歯がゆいのですが、身銭を切ってものを買わないと身につかないようです。たとえ廉価でもいいから身銭で購入することです。骨董は「買う、売る、休むべし(勉強する)」を絶えず行なわないといけないもののようです。

小生のようにお金と時間をかけないゴルフと同じで上達しないらしい。



本作品の面白いには着物の描き方・・、孔雀の羽。



どうもだいぶ「やけやシミ」があって表具を染み抜き後に改装したようです。



エキゾチックな描写ですが、無論本物とは思っていません。



桜吹雪・・・・



やっぱり小生は美人より息子のほうがいい・・・。「美人は三日で飽きる」というのは本当の話、繰り返すようですが人を幸せにする相は美人にはない

人は誰しも内面が大切で、美人であることはかえってマイナスに作用するようです。また美人画を蒐集する人に変人が多いのも事実・・。

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島成園:(しま せいえん)1892年(明治25年)2月18日(もしくは13日)~1970年3月5日)。大正~昭和初期の女性日本画家。大阪府堺市生まれ。本名・諏訪(結婚後は森本)成榮。北野恒富・野田九浦に師事。妖艶な美人画を能くし、上村松園池田蕉園と並び、三園と称された。帝展・文展に入選。昭和45年(1970)歿、79才。



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島成園の略歴は下記のとおりです。

「なんでも鑑定団」にも出品されていましたので、ご存知の方は多いと思います。



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補足
1892年(明治25年)2月18日(もしくは13日)、大阪府堺市熊野町で島栄吉・千賀夫妻の長女として生まれる。戸籍上では母の実家・諏訪家の養女とされたため、結婚までの本名は諏訪成榮。父は襖などに絵を描く画工、兄の市次郎(1885–1968)も引札や団扇などに絵を描く画工を生業とするかたわら、浅田一舟に師事し、御風(または一翠)と号して日本画家としても活動した。

幼少時は母・千賀の実家である、遊郭街のなかにある茶屋で頻繁に日常を過ごす。堺市・宿院尋常小学校を経て、1904年(明治37年)に堺女子高等小学校を卒業。この翌年に一家で大阪市南区鍛治屋町に転居したが、ここもまた大阪の「ミナミ」に近い場所であり、花柳界の習俗に親しんで育つ。

15歳ごろから父や兄の仕事に興味を示し、見よう見まねで絵を独習、ほどなく「大阪絵画春秋展」に小野小町を描いた絵を出品。その一方で北野恒富野田九浦らにも私淑して日本画の基礎を学ぶ。私的な友人としての彼らから指導、助言を受けた以外、正式には誰にも師事していない。



いくつかの図案競技会に作品を出品したのち、1912年(大正元年)の第12回巽画会展に「見真似」が、同年10月の第6回文部省美術展覧会(文展)では「宗右エ門町の夕」がそれぞれ入選、弱冠20歳で中央画壇へのデビューを果たす

東京、京都が中心とされていた当時の日本画壇において、大阪からの年若い女性画家の出現は画期的なこととして迎えられ、京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに「三都三園」と並び称される。



また各方面から多くの制作依頼が寄せられたほか、入門志望の若い女性たちが多数自宅を訪れた。翌1913年(大正2年)にも「祭りのよそおい」で文展に入選し、朝香宮允子内親王、賀陽宮大妃殿下(具体的に誰を指すかは不明)といった皇族からも制作依頼が寄せられたりしたほか、1915年(大正4年)の第13回三越絵画展覧会では、作品が横山大観、竹内栖鳳、北野恒富ら有名画家のそれとともに展示され、さらに同年の第10回文展では「稽古のひま」が兄・御風の「村のわらべ」とともに入選。高い社会的知名度を得る。



「女四人の会」1916年(大正5年)5月、かねてから親交のあった同年代の女性日本画家木谷千種、岡本更園、松本華羊と結成した「女四人の会」の第一回展が大阪で開催され、他の三人とともに井原西鶴の『好色一代女』に取材した諸作を出品、妙齢の女性画家たちによる意欲的な展覧会として話題を呼んだが、「身分違いの恋や不倫の恋、心中、性的倒錯、犯罪など、恋愛感情に駆られての反社会的、反道徳的行動を主題とする文学作品を題材とする絵画を、若い女性画家が描き、それらを発表する展覧会を開いた。」ということが、識者には生意気な、挑発的行動と受け止められ「斬うした遊戯を嬉しんで囃し立てる大阪の好事家というのもまたつらいもの(中央美術 大正5年6月)と揶揄された。また同じ頃から北野恒富、谷崎潤一郎の弟谷崎精二、人気力士・大錦卯一郎らとの恋愛ゴシップを書き立てられるようになり、有名人としての苦悩も味わう。



また同年の第10回文展では、享保期の風俗に取材し、身分、年齢もさまざまな多くの人物を画中に描き込んだ大作「燈籠流し」を出品するものの落選の憂き目を見た。これには前年の第9回展で大量の入選者を出したことと、「美人画室」を特設するほど多くの美人画が出品されたことへの反省、反動が働いたとされ、関西出身の女性画家の作品も岡本更園のものを除いてことごとくが落選した。入選が確実視されていたこの作品が選にもれたことを、鏑木清方も惜しんで「島成園女史の作は・・・・落選すべきものとは思はれないが聞くところに依れば、色調の弱すぎた為と云ふことである。・・・・大阪の作家は・・・・一種の濁った色調を持っている・・・・『燈籠流し』も取材の非常に優れたものであつたに係らず選に入らなかったのは、此色調の為であつたらうと思ふ(中央美術 大正5年5月)」と擁護した。

大正6年に発表した「おんな(旧題:黒髪の誇り)」は、上半身をはだけ乳房もあらわな女性が、般若の描きこまれた着物をまとい、ただならぬものを感じさせる眼差しとともに髪を梳る、といった官能的ながらも不穏な印象を与える作品で、裸体画に厳しい批判がよせられていた時期であったこともあり、父の助言を容れて、当初よりも性的な印象を弱めた作品として仕上げたにもかかわらず、その年の再興第4回院展では落選した。なお完成時のこの作品には、画中の女性の足許に盥(たらい)が描き込まれており、当時の新聞に掲載された写真にもそれが見て取れるが、現在はその付近が切断されている。



その「おんな」同様、「無題」もまた、感覚的な洗練を追求するそれまでの「美人画」から一歩抜け出し、成園自身ともいわれる画中の女性の顔に痣(あざ)を描きこむことによって、その内面をも表現しようとした意欲作であるとされるが、「何故ソレに適合した画題を付けない、無題など・・・・は卑怯千万(大正日日 大正7年6月12日)」と非難され、別の展覧会では「画室の女」という題を付けて展示されたこともあったほか、作品を求婚広告として揶揄するイラストが新聞に掲載されるなど物議を醸した。1918年(大正7年)に発足し、北野恒富、金森観陽、水田竹圃らとともに、成園も会員として加わった「大阪茶話会」は、その設立の趣意に「絵画は自己の精神の内にどんなものがあるかを示すことによって、他人の精神に自己の知己を見出すもの」とうたっているが、この「無題」は、同年6月に開かれた同会の「第1回試作展」に出品されたもの。



こうした傾向は1920年(大正9年)の第2回帝国美術院展覧会(帝展)に出品して入選した「伽羅の薫」で一層深められた。成園の母がモデルをつとめたこの作品では、老齢に差し掛かった着飾った遊女を、上下に長く引き伸ばしたグロテスクな造形で描き、肉体美に執着する女性の業を表現したとされ、今日なお彼女の代表作とされる。石川宰一郎に「美に陶酔せる一種の強き情味を発揚した力作だ。閨秀画家としてあすこまで突つ込んだのは異とすべし(『新公論』大正9年11月)」と賞賛された一方で、石井柏亭には「明らかに邪道に入って居る。衣裳の赤と黒の毒々しさ。妖艶と陰惨とを兼ねたやうなものを現はさうとしたのかも知れぬが、画の表われは極めて下品な厭味なもの(『中央美術』大正9年11月)」と批判された。この作品は1934年(昭和9年)に制作された「朱羅宇」とともに成園自身によって大阪市立美術館に寄贈された。



同じ大正9年(1920年)11月には銀行員・森本豊次郎と結納を交わし、同居生活に入ったが(入籍は大正15年6月)、これが本人の十分な合意を得ないままに強行されたことであったことと、それによってもたらされた生活環境の変化は、彼女の創作にも大きな影響を及ぼしたと見え、1923年(大正12年)に開いた結婚後初となる個展で発表した新作「春怨」「女歌舞伎」「春之夜」などは「精魂の抜け足許も定かならぬ有様・・・・技巧は練達していても・・・・女史の個性は見当たらない。唯の綺麗さ、手際の良さ、職工的な熟練さが認められるのみである(大阪日日 大正12年4月10日)」とこれまでにない酷評を浴びた。また、1924年(大正13年)には、共作による新版画「新浮世絵美人合 七月 湯あがり」を発表している。しかしこうした一方では、夫・豊次郎が同年に上海に転勤し、成園自身もその後数年間にわたって同地と大阪を往復する生活のなかから、「上海にて」「上海娘」「燈籠祭の夜」などといった、中国の風俗に取材した異色作が生まれている。そして1927年(昭和2年)、第10回帝展に「囃子」が入選。これは彼女の中央の展覧会での最後の入選となった。



昭和に入って以降は、夫の度重なる転勤に同行して小樽、中国・大連、同じく芝罘、横浜、松本、岡谷と転居を繰り返し、自らの芸術の故郷と考えていた大阪から離れたことによる創作意欲の減退、同時期の体調不良などにより、作品はほとんど生み出されなくなった。

終戦後の1946年(昭和21年)、夫・豊次郎の退職に伴い大阪に戻り、城東区関目に居住、1951年(昭和26年)には帰阪後初となる個展を開催、1956年(昭和31年)まで毎年開催した後、1960年(昭和35年)には大阪女人社展に参加、それ以後は門弟・岡本成薫との二人展を1969年(昭和44年)まで毎年開催した。1970年(昭和45年)に宝塚に転居したが、その直後の同年3月5日、脳梗塞により78歳で死去した。



「宗右エ門町の夕」以降の成園の活躍は、日本画家を志す同年代の女性たちの奮起を促すところとなった。そうした中の一人・生田花朝(1889-1978)は、後年綴ったエッセイ「雪解の花」のなかで「大阪の私たち女の作家は、まづ島さんの崛起によつて立ち上つたやうなもの・・・・『宗右エ門町の夕』こそは、全く島さんの華々しい画壇への首途でありまた私たちへの発奮の先駆・・・・大阪の女流画家で、直接なり間接なりに、島さんの影のかからない人はない(大毎美術 第180号 昭和12年5月刊所収)」と回想している。

その後の文展では大正3年の第8回で岡本更園、小方華圃(1876もしくは80-1925)、翌大正9年の第9回では松本華羊、木谷(当時は吉岡)千種、第10回で再び岡本が入選を果たしたのをはじめとして、大正4年に第1回が開催された大阪美術展覧会(大展)へもすでにふれた画家たちの他、橋本成花、平山成翠、宮本成操ら多くの女性画家たちが作品を出品し、その盛況は「良家の夫人、令嬢たちが頗る熱心に出品の準備中なるは注意すべきことの一なり(大阪毎日新聞)」と特筆された。こうしたほかにも大正3年の「閨秀画会」、大正6年の「閨秀画家作品展観」などといった女性画家の作品だけを集めた展覧会も開催された。こうした流れは北野恒富によって大正3年に設立された「白耀社」や、木谷千種によって大正9年に設立された「八千草会」などといった、女性画家の育成に積極的に取り組む画塾の誕生によって、より深く根付いたものとなった。



成園の門下生にはいずれも女性の秋田成香(1900–没年不詳)、伊東成錦(1897–没年不詳)、菊池成輝(1871−1934)、高橋成薇(生年不詳–1994)、吉岡美枝(1911–1999)らがいるが、特に岡本成薫(1907–1992)は実父の死により内弟子として入門後、森本家の家事一切を受け持ったほか、成園夫妻の数度にわたる転居にも同行、家族同然に生活を共にする一方で、創作にも 取り組み、成園の死後は正式に森本家の養女に迎えられた。成薫は1977年(昭和52年)の森本豊次郎の死去後、成園の遺作85点を大阪市立美術館に寄贈。のち京都に転居し、1992年(平成4年)に没した。

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