夜噺骨董談義

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最も有名な漢詩? 獄中有感 伝西郷南洲筆

2023-02-01 00:01:00 | 掛け軸
文才を含めた当方の能力では、本ブログの記事の掲載には結構労力を要するものです。作品について文献を調べて、写真撮影をして、編集して記事を投稿するまでひと作品におおよそ半日はかかります。碌に推敲している時間もないので粗分な文章となるのは読まれる方には申し訳ないのですが、なにぶん当方のブログは資料の蓄積としての意味合いが強いのでご容赦願います。

さて本日は久方ぶりに西郷南洲らしき?書の紹介です。


本作品は真贋というよりも西郷南洲(西郷隆盛)と縁の深った桐野利秋との関連を含めた興味深い作品として紹介します。



最も有名な漢詩? 獄中有感 伝西郷南洲筆
紙本水墨軸装 軸先塗 桐野利義鑑定箱
全体サイズ:縦2175*横1075 画サイズ:縦1680*横910



この「獄中有感」という律詩は、西郷隆盛が島津久光の怒りに触れ、沖永良部島で獄中生活をしていた若き日の想いを、七言律詩の形式であらわした有名な律詩です。



この律詩の読み、訳、解釈は下記の通りです。

読み
朝蒙恩遇夕焚抗 人生浮沈似晦明 縦不回光葵向日 若無開運意推誠 
洛陽知己皆為鬼 南嶼俘囚独竊生 生死何疑天附与 願留魂魄護皇城

朝に恩遇を蒙り、夕に焚抗(ふんこう)せらる。人生の浮沈、晦明(かいめい)に似たり。
縦(たと)い光を回らさずとも、葵は日に向かう。若し開運無くとも、意は誠を推さん。
洛陽の知己、皆鬼と為る。南嶼(なんしょ)の俘囚、独り生を竊(ぬす)む。
生死何ぞ疑わん、天の附与なるを。願わくば、魂魄を留)めて皇城を護らん。

解釈
朝に厚いもてなしを受けても、夕べにひどい仕打ちを受けることもある。
人生の浮き沈みは、昼と夜の交代に似ている。
ヒマワリは太陽が照らなくても、いつも太陽の方を向いている。
もし自分の運が開けなくても、誠の心を抱き続けたい。
京都の同志たちは皆、国難に殉じている。
南の島の囚人となった私ひとりが生き恥をさらしている。
人間の生死は天から与えられたものであることは疑いない。
願うことは精魂を込めて京都を守護することだけである。

作品中の印章は下記のとおりです。
右上の引首印?は「貴天生」の白印朱長方二重印、左下には「隆盛之印」の白文朱方印と「號南洲」の朱文白方印の累印が押印されています。

  

  


下記は資料による印章です。この印類は資料としては「第五印」と分類され、明治8年5月頃以降の最晩年に押印した印章となります。落款に違和感はないようです。

*他の資料と比しても印はほんのわずかの違い?で真印と同印章と思われますが確証はありません。

  
 
沖永良部島で獄中生活をしていた若き日の想いを律詩にしたものを最晩年の明治8年以降に書いた・・??

まずは「詩を読んだ頃の西郷隆盛の状況」を整理してみましょう。

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西郷隆盛は安政5年、京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしましたが、月照らに説得されて斉彬の遺志を継ぐことを決意します。諸藩の有志らと大老・井伊直弼を排斥し、それによって幕政の改革をしようと謀りますが、梅田雲浜が捕縛され、尊攘派に危機が迫ったので、近衛家から保護を依頼された月照を伴って伏見へ脱出し、伏見からは有村俊斎らに月照を託し、大坂を経て鹿児島へ送らせます。

再び上京して諸志士らと挙兵を図りましたが、捕吏の追及が厳しいため、大坂を出航し鹿児島へ帰ります。捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられました。月照が鹿児島に着きますが、幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを東目(日向国)へ追放するという名目で道中での斬り捨てを企図します。月照・平野、付き添いの足軽阪口周右衛門らとともに乗船しましたが、前途を悲観して、16日夜半、竜ヶ水沖で月照とともに入水してしまいます。すぐに平野らが救助したが、月照は死亡し、西郷は運良く蘇生し、同志の税所喜三左衛門がその看病にあたりましたが、回復に一ヶ月近くかかったそうです。藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、捕吏は月照の下僕・重助を連れて引き上げたようです。

*この入水に時に西郷隆盛を救ったひとりに本ブログでお馴染みの「蓑虫山人」がいたという伝承があります。

藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにしました。この間、龍家の一族、佐栄志の娘・とま(愛加那)を紹介されて島妻としています。

文久元年(1861年)久光は公武周旋に乗り出す決意をしましたが京都での手づるがなく、小納戸役の大久保、堀次郎らの進言で西郷に召還状を出します。久光に召されますが、久光が「無官で、斉彬ほどの人望が無いこと」を理由に上京すべきでないと主張し、また、「御前ニハ恐レナガラ地ゴロ」なので周旋は無理だと西郷隆盛が言ったので、久光の不興を買ったそうです。一旦は同行を断りましたが、大久保の説得で上京を承諾し、旧役に復しています。下関で待機する命を受けて、村田新八を伴って先発します。京大坂の緊迫した情勢を聞いた西郷は、大坂へ向けて出航し、激派志士たちの京都焼き討ちと挙兵の企てを止めようと試みます。

久光は、西郷が待機命令を破ったこと、西郷の志士煽動の報告に激怒します。西郷以下3名を捕縛させ、10日、鹿児島へ向けて船で護送させています。西郷は大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島となりましたが、島津久光は、家老たちが徳之島へ在留という軽い処罰に留めている事を知り、沖永良部への島替えのうえ、牢込めにし、決して開けてはならぬと厳命してしまいます。鹿児島では弟たちが遠慮・謹慎などの処分を受け、西郷家の知行と家財は没収され、最悪の状態に追い込まれることになります。この頃、過酷な牢獄生活によりフィラリアに感染し象皮病により陰嚢が巨大化してしまい、生涯治ることはなかったそうです。この時西郷は沖永良部の人々に勉学を教えています。



薩摩流の公武周旋をやり直そうとした久光にとっては、京大坂での薩摩藩の世評の悪化と公武周旋に動く人材の不足が最大の問題でした。この苦境を打開するために大久保利通(一蔵)や小松帯刀らの勧めもあって、西郷を赦免召還することにします。これにより元治元年2月蒸気船胡蝶丸にて、喜界島に遠島中の村田新八を伴って帰還の途につくことになります。

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一方で「この書を書いた時期の西郷隆盛」は下野しており、下記の状況です。

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明治8年から明治9年(1876年)にかけての西郷は自宅でくつろぐか、遊猟と温泉休養に行っていることが多かったようです。西郷の影響下にある私学校が整備されて、私学校党が県下最大の勢力となると、大山綱良もこの力を借りることなしには県政が潤滑に運営できなくなり、私学校党人士を県官や警吏に積極的に採用し、明治8年11月と翌年4月には西郷に依頼して区長や副区長を推薦して貰った。このようにして別府晋介、辺見十郎太、河野主一郎、小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らが区長になり、私学校党が県政を牛耳るようになると、政府は以前にもまして、鹿児島県は私学校党の支配下に半ば独立状態にあると見なすようになった。

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この作品は果たして最晩年に書きのこした作品かどうかは不明ですね。

西郷南洲の「獄中有感」において、西郷隆盛直筆のもの(下記写真左)は、今は沖永良部島の町、鹿児島県和泊町(わどまりちょう)の西郷南洲記念館に展示されています。

 

他に展示されている作品では西郷従徳が書いた作品(上記写真右)があります。個人蔵で屏風(下記写真)に仕立てられています。



ところで本作品の箱書には「桐野利義」の鑑定とあります。この「桐野利義」は有名な「桐野利秋」の息子らしいのです。

それでは「桐野利秋」の洛歴を紹介します。この人物は「中村半次郎」と称しており、池波正太郎の『人斬り半次郎』は幕末の京都を震え上がらせた四大人斬りの一人、薩摩藩の桐野利秋(中村半次郎)を主人公にした作品です。

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桐野利秋の略歴
桐野利秋:(きりの としあき)天保9年12月2日(1839年1月16日)~明治10年(1877年)9月24日)。薩摩藩士、陸軍軍人。諱は利秋、通称は半次郎、桐野に復姓後は信作(晋作、新作)。初め中村半次郎と称した。池波正太郎の『人斬り半次郎』は幕末の京都を震え上がらせた四大人斬りの一人、薩摩藩の桐野利秋(中村半次郎)を主人公にした作品です。

桐野利秋(中村半次郎)は1838年、中村与右衛門(桐野兼秋)という薩摩藩の下士の次男として生まれました。少年時代の桐野は、10歳の頃、父親が流刑に処せられ家禄も召し上げられ、その8年後には兄も病死するといった苦労を経験しています。やがて桐野は家の家督を継ぎ、農作業をして家族を養いながら剣術修行に励んだと言われています。その後、西郷隆盛に出会って深く彼に傾倒し、彼の右腕となって尊皇攘夷活動を行います。

藩内では長州寄りの考えを持っていた桐野利秋は1864年の池田屋事件後、長州藩と薩摩藩の和解を図りますが、失敗し禁門の変は起きます。戊辰戦争では上野の彰義隊との戦いで功を挙げ、維新後は陸軍少将になり、熊本鎮台の司令長官や陸軍裁判所の所長などを歴任します。

しかし明治6(1873)年、征韓論で西郷隆盛が政戦に敗れると、桐野も西郷の後を追って下野し、私学校を設立し教育業に専念します。そして1877年、西南戦争が勃発すると薩軍の司令官の1人として奮戦しますが敗北。城山籠城戦にて満38歳で戦死しました。

また、桐野利秋と言えば「人斬り半次郎」の異名から殺し屋のイメージを連想しがちですが、彼が実際に殺したと確認できているのは、幕府の密偵と思われていた赤松小三郎という公武合体派の軍学者と、戊辰戦争中に返り討ちにした刺客の2名だけだったと言われています。

桐野の人物像ですが、彼を知る人らは「男らしく豪放で快闊」「上下貴賤を問わず気さく、敵に対しては鬼にもなったが、一方で慈悲の心もあった」という評価が残されています。またお洒落な一面もあり、西南戦争で戦死した後の遺体からは、陸軍少将時代に愛好していたフランスの香水の残り香がしたと言われています。



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この人物と西郷隆盛の関係は下記のとおりです。

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西郷隆盛と桐野利秋の関係

桐野利秋と西郷隆盛が知り合ったのは文久2年(1862)の事だったと言われています。薩摩藩の最高権力者、島津久光の上京に随行した桐野は、この時薩摩藩の家老を努めていた小松帯刀に引き立てられ、やがて西郷と知り合う事となります。この頃から、桐野は西郷隆盛の耳目として諜報活動に身を投じ、やがて武力倒幕の相談をされるまでの信頼を獲得します。その後、西郷が勝海舟と江戸城の無血開城に向けた談判の際には村田新八と共に西郷に随行していた事からも、桐野が西郷から絶大な信頼を寄せられていた事が分かります。ちなみに西郷は桐野のことを「若い時に学問をする機会があったら、自分などは足元にも及ばなかっただろう」と評価していたそうです。

維新後の桐野は、西郷隆盛が廃藩置県の際に上京した時もこれに従っています。しかし明治6年、西郷が下野した際は一緒に後を追って辞職。そして1877年に私学校の生徒が暴走すると、「こうなっては戦うしかない」と桐野利秋は主張し、西郷隆盛もそれに対し「自分の命を皆に預けよう」と応えました。

西南戦争において、桐野は4番隊の隊長と物資の調達を担当しますが、戦いが続くうちに西郷は桐野と距離を置くようになったと言われています。敗戦が濃厚となると「西郷だけでも助けよう」という意見が出されますが、桐野は「潔く散る(死ぬ)べきだ」と主張します。そして西郷隆盛は城山の戦いで、桐野のいとこにあたる別府晋介に介錯され死を迎えます。そして同日、最前線で闘っていた桐野利秋も額に銃弾を受け戦死したのでした。

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さてそれでは「桐野利義」とは・・・。

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桐野利議とは

桐野利秋の妻は、帖佐小右衛門という薩摩藩の士族の次女であるヒサという女性です。この二人の間には子供は出来なかったので、桐野の死後はヒサが桐野家の家督を継ぐ事になりました。そして明治18年、利秋の弟の長男である山ノ内栄熊が養子となり、桐野利義と改名する形で桐野家を相続しています。その一方で、この桐野利義の子供である桐野富美子は、山ノ内栄熊(桐野利義)が桐野利秋の実子である事を、義理の祖母にあたるヒサから聞いた経験を語っています。また鹿児島出身の桐野利春という人物が屯田兵として北海道に赴いた事が明らかになっているのですが、この人物が桐野利秋の子供、少なくとも遠縁であった可能性も残されています。

これ以外には、桐野は幕末に京都に住んでいた時期、村田さとという恋人がいた事でも知られています。この村田さとは明治時代になって、かつての恋人に会いに鹿児島まで行った所、桐野に妻がいた事を知って落ち込んで帰ったのだとか。その後、村田さとは同志社大学の設立者である新島襄に出会い、洗礼を受けてクリスチャンになったと言われています。さとは1921年まで生き延び、その墓は桐野夫妻の墓所の近くに安置されています。

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『人斬り半次郎』というフレーズや恋人であった村田さととの逸話、そして西郷との関係など、桐野父子については語るべきことが多いようです。

桐野は西南戦争によって賊扱われていましたが、1916年に正五位を贈られる形で名誉回復が行われています。

ひとつの作品を調べていくとここまで史実が解ってくるというのは面白いと思いませんか?

さらに本作には下記のような資料が添付されています。









最後の追記は印章の使用時期と年代の相違があり、誤った記録でろうと推察されます。前の所蔵者がいろいろと調べたであろう記録と思われます。当方と同じようなことをするものです。

ここで出てくる勝海州とこの律詩には大きな関りがあります。

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「獄中有感」の詩と勝海舟

旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いで敗れ、1868年、新政府軍は江戸へ進軍しましたが、このとき、江戸の街を戦火から救ったのは、幕臣・勝海舟と新政府軍・西郷隆盛の2人と言うことになります。そして、明治となると、勝海舟の洗足池畔の別邸(洗足軒)にて、勝海舟と西郷隆盛は日本の将来について歓談したと伝わります。しかし、その西郷隆盛も西南戦争で士族のために戦い、命を絶ちました。



まさに盟友であった勝海舟は、西郷隆盛(西郷吉之助)の死を悲しみ三回忌に当たり、鎮魂の意味を込めて「西郷隆盛の留魂祠」と西郷隆盛の漢詩「獄中有感」の碑を建立し、菩提を弔いました。西郷隆盛留魂碑および留魂祠とも言います。「留魂」は南洲(西郷隆盛)の「獄中有感」の結句からきています。西郷隆盛の留魂碑はもとは薬妙寺(葛飾区東四ツ木)に勝海舟が自費で明治12年(1879年)に建立したものとされます。



『獄中有感』の書は大久保利通が所有していたようですが、のちに勝海舟の手に渡りました。そして、石匠として有名だった谷中の廣羣鶴に頼み浄光寺に詩碑を建てた言うことになります。のち荒川放水路の建設に伴い、大正2年(1913年)に、勝海舟の別邸があった洗足邸の敷地内に移設されました。この移設の経緯は、勝海舟の門下生である富田鐵之助が、傍らの碑に誌しています。なお、西郷隆盛の留魂祠があるすぐ脇には、勝海舟夫妻の墓があります。いずれも、現在の洗足池公園の中となります。

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本ブログの主目的は真贋の照会ではありません。作品の紹介と関わった人物像を愉しむということが目的であり、そこから史実や美を学ぶのが目的ですのでご了解ください。



明治の志士にはえらい御仁がたくさんいましたが、同時につまらない者も偉くなっています。そこが面白い・・。この書をみて西郷隆盛の凄さを感じ取る。ついつい調べることが多くなった作品で、当方の労力も限界かな?



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