夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

お気に入りの作品 杏林圍季之図 倉田松濤筆 その52

2024-02-26 00:01:00 | 掛け軸
家内と小生のお気に入りの画家で郷里出身の画家でもある倉田松濤の作品の紹介です。



お気に入りの作品 杏林國?季之図 倉田松濤筆 その52
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 「小泉家所蔵応需松濤自題 押印」 共箱入 
全体サイズ:横595*縦2165 画サイズ:横470*縦1295

 

いつもながら倉田松濤の作品の賛は難解ですね。頑張って読んでみましたがなんともちんぷんかんぷん・・・・・。

賛の詳細は不明ですが、
「白雲圍一境 中有董仙家 老乕戌何夢 春風入杏花
 遠害宜韜跡 何労□四兄  山中逢李廣 為名不金生 
   桃林斑特去 □是□斑寅    一夜斗杓轉 領来天下春  
   維□六十五年歳次柔□攝□□睦月 
   元旦於東都牛込之本福山俳画□専□□云々 
   来世菩薩倉田松濤併題 押印」 
   と記されています・・・・・・。

*最晩年の作と推定されます。(大正15年、58歳の正月の作か?)



まずは本作品と関連する語句を調べてみましょう。「杏林」と「董仙家」ですね。

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杏林:古代中国の神仙董奉 (とうほう) が、多くの人の病気を治し、治療代の代わりに杏の木を植えさせたところ、数年で林になったという「神仙伝」董奉の故事から》医者の別称。

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「董仙」はどうも「董奉」のことらしい。

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董奉:三国時代の名医。杏仁豆腐の生みの親。普段は山中に住みながら、多くの難病の患者の治療を行ってあげたそうです。董奉に治療を受けるべく訪れた患者は数知れず、日夜を通して骨身を惜しまず、治療を行ってあげました。ただ董奉の元を訪れる患者の多くが貧しかったのですが、董奉は貧しい患者から治療費を受け取ることは一度もなかったそうです。

董奉のお陰で病気が治った者はどうにかしてお礼がいたいと考えていました。それでも頑なに患者から謝礼を受け取る事はありませんでした。なんとかお礼をしたいと思う者が後を絶えず、そこで董奉は、杏(あんず)の苗木を庭に植えてくれるようにお願いします。これまで治療費を払う事もなく、なんのお礼もできなかった者達は、たった杏の木を植えるだけのことでお礼ができると聞いて喜んだそうです。

ちなみにこの時に董奉がお願いしたことは、重病の人が治った場合は杏の苗木を5株、軽病の人が治った場合は杏の苗木を1株だけだったといいます。

患者達によって植えられた多くの苗木は、数年の月日が経つにつれ、杏の実をつける立派な林に成長します。董奉は、その杏の実を自分だけのものとせず、「もしも杏の実が欲しい者がいれば、同じだけの量の穀物と勝手に交換して持って行っていいよ。換わりの穀物は私の倉庫においておいてくれればいいから!」と書いた立札を杏の木の傍に立てます。その立札を見た者達は、喜んで杏と穀物を自由に交換したそうです。つまり董奉は人を救った謝礼から、将来再び人の為になるものを産み出したことになるわけです。

董奉が杏の木を植えることをお願いしたのにはきちんと理由があり、杏の種には、漢方としての働きがあったのです。そして杏の種には、肺や腸の働きを良くし、咳を抑えたり、喉の痛みを和らげてくれる効能があります。今でこそ杏の種には、βカロテンという栄養素が沢山入っており、咳を抑えたり、喉の痛みを和らげてくれることが分かっていますが、この当時、βカロテンという言葉は勿論ありませんでした。しかし董奉は、杏の種にそういった効能があることを、なんとなくでも知っていたのでしょう。そして今の時代でも、杏の種は漢方の一つとして使われ続けています。

董奉が杏の種から作り出した漢方薬は、多くの人達の病気を治したりしたことから一般的に広まりだします。しかし杏の種を潰したものを漢方薬として飲むわけですけど、これがあまりにも苦い事が悩みの種でもありました。そこである者が、どうにかして美味しくできないものか董奉に尋ねると、杏の種をつぶしたものに牛乳や糖を加えて甘くしたらどうかとの助言を貰います。これが杏仁豆腐の始まりであり、漢方薬が食べやすい物にかわったことで爆発的に人々に受け入れられました。甘く食べやすくなったことで、その後、中国全土に一気に広まっていったことは言うまでもありません。

杏の実を善意で提供する董奉に対して、ほとんどの者達は感謝して杏の実と穀物を交換していましたが、中には勝手に交換できるという事から、穀物と交換することなく、沢山の杏の実を盗んだ者がいました。しかしその盗人は、虎に襲われ死んでしまいます。杏の実を盗んで死んでしまったことを知った盗人の家族は、董奉に深く謝罪して、杏の実を返却。董奉はその家族に同情し、虎に噛み殺された盗人を生き返らせてあげたそうです。董奉は仙人としての伝説があり、そういう話が残っています。

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この話は画中の虎につながる・・??? なぜに虎は子供も舐めているのか??



次は「李廣」なる人物について調べてみました。

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李広(廣):(りこう、? - 紀元前119年)、前漢の将軍。文帝・景帝・武帝に仕えた。飛将軍の綽名でも知られる。武勇に優れていたが戦功を認められることなく憤死した。

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「李廣」についは下記の二つの逸話があるようです。

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桃李言わざれども下自ずから蹊を成す:

李広は清廉な人物であり、泉を発見すれば部下を先に飲ませ、食事も下士官と共にし、全員が食事を始めるまで自分の分には手をつけなかったという。

後に司馬遷はこの人柄について触れ、「桃李言わざれども下自ずから蹊を成す」(とうりものいわざれどもしたおのずからみちをなす)(桃や李(スモモ)の木は何も言わないが、その下には自然と人が集まって道ができる)と評した。

なお、日本の大学である成蹊大学や大阪成蹊大学などの名はこれを出典とする。俳優の松坂桃李の名前の由来のひとつでもある(読みがなは「とおり」)。

虎と見て石に立つ矢のためしあり:

李広は虎に母を食べられて、虎に似た石を射たところ、その矢は羽ぶくらまでも射通した。のちに石と分かってからは矢の立つことがなく、のちに石虎将軍といわれた。このことを揚子雲にある人が話したところ、子雲は「至誠なれば則ち金石、為に開く」(誠心誠意で物事を行えば金石をも貫き通すことができる)と言った(『西京雑記』)。

小説水滸伝の登場人物で弓の名手である花榮は、この逸話になぞらえ「小李広」と呼ばれる。

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こちらも桃や李、そして虎につながりますね。さてこれが漢詩の意味と絵にどうつながるのや・・???

この人物が「董奉」・・・????



これが難解さが倉田松濤の作品の面白いところか?

 

どうも「小泉某氏?」からの依頼で描かれた作品のようですが・・。

 

秋田県の増田町には有名な小泉な人物が当時存在しますが、倉田松濤との関連は不明です。

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小泉家:秋田県増田の大地主であった5代小泉五兵衛。小泉家は材木や味噌・醤油を商っていました。江戸時代より8代続き、戊辰戦争においては350両という増田一の御用金を納めています。明治28年開業の増田銀行(現在の北都銀行)の初代頭取を39歳で務め、57歳の時に館内の内蔵を建立しました。現在は稲庭うどん店に併設する資料館として利用されています。

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さて残念ながら軸先の片方が欠損しています。古い掛け軸は軸先は膠で固定しているので、良く欠損していますが、表具師に依頼するとすぐに両方の付け直しができます。


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