夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

三田青磁とシンビジュウム & リメイク 改装完了 馬之図 古市金蛾筆 慶応2年

2024-04-13 00:01:00 | 日本画
テレワークにて机に向かっていると茶のお稽古から帰宅した家内が階下から大声で「なんか花瓶ない!」と声を張り上げています。何事かと思ったら、義母が育てていた鉢の花を花瓶に生けたいらしい・・。



ちょっと大きめの花のようなので手元になく、屋根裏の作品保管場所から一番手前にあった花瓶を持ち出し、その作品に義母が花を活けて応接間に飾りました。

*上記写真の衝立の作品は篁牛人、壁に掛けている作品は寺崎廣業の作品です。



持ち出した作品は三田青磁の作品(本ブログにて投稿済の作品)です。

首の部分のある特徴あるリング状の文様から三田青磁と判断しています。時代は不詳ですが、三田焼自体が昭和初期で途絶えたので、その頃まででしょうが、明治頃くらいの時代はありそうです。

蘭図陽刻三田青磁花瓶
誂箱
口径152*高台径110*高さ320

江戸時代において三田青磁は日本中を一世を風靡し、その後に中国龍泉青磁、韓国高麗青磁と並び世界三大青磁と称されています。三田青磁の場合、時代的な古さより、三田青磁であるか否かが重要なようです。

三田青磁は形状が複雑で、豊かな造形や色調に魅力があって、型物成形の製品が多く、全体の出土量の3分の1を土型が占めているそうです。土型を用いた成形は、ロクロでは作り出せない複雑かつ巧妙な形のものを一つの型から数多く生産出来ます。緑青色をした美しい釉調の青磁は、中国明代の天竜寺手青磁に似ていると、人々から讃えられたようです。三田青磁の魅力はその色の深さもさることながら、土型成型による多様性にあると考えられています。

三田焼の特徴である型物は京焼の陶工欽古堂亀祐(1765-1873)によってもたらされた技術によるところが大きいとされます。「欽古作之 文化三玄夏」(1806)などの土型が伝わっています。

欽古堂亀祐は京の名工奥田頴川の弟子であり、頴川門下として他に青木木米(1768-1833)、仁阿弥道八(1783-1855)、永楽保全(1795-1854)などが知られていますが、亀祐は道八、木米とともに頴川門下の三羽ガラスといわれ、互いにその腕を競っていたようです。

寛政12年(1800)に神田惣兵衛は頴川のもとを訪れ、三田青磁焼成のため、しかるべき陶工を紹介してほしいと依頼したところ、選ばれたのが亀祐でした。一説によると木米の青磁焼成技術があまりにも「唐物写し」として名高く、木米の指導により三田青磁が唐物との区別がつかなくなることを憂えた頴川の判断によるともいわれています。そして翌寛政13年に今度は紀州藩から陶工派遣の依頼が頴川のもとに持ち込まれたときは木米が派遣されています。頴川にすれば木米の技量が三田青磁をつくりあげることで、木米の技術も固定化し、また技術力の増した三田青磁が中国産のものと紛れて流通した場合の責任を恐れたのかもしれないとか・・・。当時粟田口で京の名工として名をはせていた頴川のもとにも三田青磁の評判は轟いていたと推定されます。

三田焼の陶歴は下記のとおりです。

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三田焼:兵庫県三田市三田の青磁。寛政(1789-1801)初年、三田の豪商神田惣兵衛は陶工内田忠兵衛(志手原窯小西金兵衛の弟子)の青磁焼成の悲願にほだされ巨額の資金を投じて陶業を助けることになり、天狗ヶ鼻に窯を築いました。これが三田焼の起こりとされています。惣兵衛は青磁研究のために忠兵衛を有田に遣わし、有田から陶工太一郎・定次郎を招いました。

1801年(享和元年)忠兵衛は香下村砥石谷において青磁の原石を発見し、文化(1804-18)初年には青磁の試焼に成功しました。
1810年(文化7年)惣兵衛は京都の奥田頴川に指導を受け、その弟子の欽古堂亀祐を迎え、いよいよ青磁の製作は本格的になりました。
文化・文政年間(1804-30)は三田青磁の最盛期となります。しかし1827年(文政10年)頃には亀祐が京都に帰り、1829年(同12年)に惣兵衛が没するに及んで、以来三田窯は次第に衰順に衰退します。
天保年間(1830-44)には向井喜太夫がこれを譲り受け、安政{1854-60}頃には田中利右衛門がこれを継ぎますが業績振わず、明治に三田陶器会社が設立され、1889年(明治22年)にはその出資者の一大芝虎山がこれに専念しました。虎山の没後、有志が相寄って一窯焼いたのを最後に昭和8年に三田窯の煙はまったく絶えてしまいます。青磁の上がりは「天竜寺手」調で、亀祐来窯以後細工物にも秀作が生まれています。種類には、香炉・茶器・花器・皿・鉢・文具、大物・動物置物などがあります。また呉須手写しも焼いています。

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蘭の陽刻にシンビジュウムというのは当方の意図したものではありませんが、三田青磁を偲ぶ趣向となりました。


義母が「応接間の花も取り換えておいたよ!」とのこと。



こちらの花瓶は石黒宗麿人間国宝(重要無形文化財「鉄釉陶器」保持者)の作品(本ブログに投稿済)です。製作時期は1950年~1952年と推察しています。

白瓷刻花(葱坊主)小壷 石黒宗麿作
共箱
口径55*最大胴径140*高さ255*底径75~78



たっぷりと掛けられた粉引の白には手早く掻き落としで描かれた、ねぎ坊主の花でしょうか? 風に揺れるように傾いだその姿は、柔らかく、温かく、清楚で、花瓶の姿と共にこちらを微笑ませてくれる美しい佇まいとなっています。春に似合う作品ですね。



さて本日は軸装から額装にした作品(本ブログにて紹介済の作品?)の紹介です。



馬之図 古市金蛾筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦1190*横620 画サイズ:縦420*横510
2024年2月 額装に改装



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古市金峨 (ふるいち-きんが ):1805-1880 江戸後期-明治時代の画家。文化2年10月、児島郡尾原村(倉敷市)に生まれています。17、18歳の時京都に赴き、岡本豊彦(とよひこ)の門にはいり絵画の研鑽に励み四条派を学びました。



天保の初め郷里の備前児島郡尾原村(岡山県倉敷市)にかえり,画塾を開いています。それゆ当初の画風は四條派の画風ですが、40歳前後から南画を取りいれ画風を一変させています。したがって若作は四條派、中期以降は南画の画風とされているようです。

明治13年2月14日死去。76歳。名は献。通称は啓三,哲蔵。別号に藍山。作品に「竜虎」「蘭亭曲水図」。岡山県では古書画、骨董・古美術と言えば古市金蛾と言わるほど地元では人気があるとか・・・・。

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この作品はもともとは下記のように掛け軸であった作品を額装に改装したものです。紙表具の作品で、表具がだいぶ虫に食われていたので、改装しようかと長らくは保管場所に段ボールに入れて保管したままになっていた作品です。

馬之図 古市金蛾筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦1190*横620 画サイズ:縦420*横510
2024年2月 額装に改装

下記の写真は軸装の状態のものです。



世界堂に依頼して裏打ち直し、その後に当方で在庫してあった額にマットと見切縁を新調して額装しています。費用はそれほど費やすことなく改装できています。



なんといっても、とぼけた表情がいいですね。



当時は家の中で馬を飼っていたところも多かったように、飼馬は当時は非常に貴重であり、画家に依頼して所有する馬を画家に描かせた方も多いようです。



鼻毛を出したとぼけたオヤジ・・、どこかその辺にいそうな奴。



ぺろりと舌を出してマイペースで仕事をするおばさん・・、これもまたその辺にいそう。



「丁卯春日写」とありますので、1867年(慶応2年頃)の作品で、古市金蛾が62歳の作品です。



地元の岡山県で活躍した画家ですので地元ではファンはいそうですが、あまり世には知られていない画家のようです。さて今ではこのような作品を飾るには抵抗のある方も多いかな・・・・???

軸装を額装にする方が現在は作品が売れるのでしょうか? 床の間がある展示スペースは少なくなり、軸装自体を敬遠する方が多いのでしょう。最近届けられた思文閣の入札会の増刊号も額装のみの作品ばかりでした。軸装はその表具材共々鑑賞できるので、楽しみがあるのですが、展示スペースや展示方法、保管方法などに難点があるとされるのでしょう。さみしい限りですが、これも趨勢か・・・・。















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