アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

誰からも必要とされなくなった人間は…どう生きる?

2010年06月13日 | Weblog
 家の周囲は、常にきれいに保っている。困るのは犬の糞とタバコの吸い殻。私に片付けさせるとは、いい度胸である。

 我が家の前を通る人も犬も猫もカラスも、大体把握している。その中に、およそ75歳と思われる、貧相な爺さまがいる。服装も、40年前から時間が止まっている。
 こ、この爺さまが、我が家の前でゴミをポイと捨てた。「爺さま、やりやがったな!」ここでとっさに考えなければならなかったのは…次の2点のどちらの態度で出るべきかでした…
1 「爺さん!自分のゴミ拾えよ!私の家の前は、ゴミ捨て場じゃないんだぞこら!」と、堂々と注意する。
2 無言でゴミを片付ける。
 0.05秒間の固体内協議(早い話が自分で判断)の結果、無言を選んだ。
 その理由は、この爺さん、「誰からも必要とされていないんじゃないか?」必要とされていない→何をするのも自由→つまり、犯罪も平気でできる→警察なんか怖くも何ともない。私に注意されたら、間違いなく逆恨みするでしょう。夜中に家に放火する。窓ガラスを割る。車に傷をつける。畑に、大量の塩を撒く。玄関前にハトの死骸を置く。家の中にヘビを放り込む…もうやりたい放題。
 そういうことをされたくないので、「無言」を通し、爺さまの捨てていったゴミを拾いました。ゴミは、「チョコボールの箱」中にまだ4~5個入っていました。食べようかなとも思いましたが、爺さまが捨てたものを食べるのはあんまりなので止めときました。

 チョコボールの爺さまのことを、「誰からも必要とされていないんじゃないか?」などといっておりますが、私自身、誰からも必要とされていないんじゃないか…。定年退職以来チラチラと脳裏をかすめます。

 土屋賢二さんは、この3月にお茶の水女子大(哲学)を退職された。そして、今は誰からも必要とされない存在になっておられる(俳諧の技法を取り入れた、御自身のバロディ化というところですがね)。
 土屋先生のあだ名は、「笑う哲学者」。著書多数でそのタイトルだけでも笑わせていただける。
 「もしもソクラテスに口説かれたら」「われ笑う、ゆえにわれあり」「われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う」…そんな中で、私のお気に入りは、「ツチヤの貧格」と「妻と罰」。品格を貧格とし、罪を妻とした。

 閑話休題。文藝春秋への小エッセイ、「だれからも必要とされない存在」で、
 土屋先生曰く…「定年退職して仕事上の八つの義務から解放された。その分、人から必要とされなくなるということである。ゴキブリが出るなどかないかぎり、いまや誰からも必要とされていない」
 ではしょんぼりしているのかというと→他人も、仕事も気にせず幼児のように楽しめるので、退職して心が躍っている。
 必要でない存在は邪魔なのか→邪魔ではない。単に不必要なだけ。

 義務らしい義務がない私は、不必要な存在になっていることを確認しました。悶々と考えているより、スパッと言われてむしろスッキリ。
 しかし、「不必要=死んだ方がいい」というわけではない。ですから、知らん顔して執拗に生き抜いても違反ではない。
 チョコボールポイ捨ての爺さまも、だれからも必要とされない存在ではありますが(勝手に私が決めました)、チョコボールを食べたり、箱を他人の家の前に捨てて迷惑をかけることを楽しんでいる。実は、哲学者かもしれない。

 なお、土屋さんが考える国民の三大義務は、「納税、右側歩行、手洗い」なのだそうで…日本国憲法の国民の三大義務(納税、教育、勤労)とは、少々違う。
 それ以外の基本義務が、590あるのだそう。その中には、「ゴキブリがでたら殺す」「ビンのフタを開ける」「妻の料理を残さず食べる」「(妻に)口答えしない」等が含まれております…。
 これって、大きなヒントです。義務から解放されると、誰からも必要とされない存在になる。「誰からも必要とされなくなるのが嫌」という人は、義務を作り出せばよい。「チョコボールを食べながら歩く」とか…。

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