富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

〈リバイバル・アーカイブス〉突然ですが、「 富田林寺内町 クイズ 」 !

2013年11月06日 | クイズ

〈リバイバル・アーカイブス〉2021.11.29.~12.13.

原本:2013年11月6日

 秋の夜長の「 ひつまぶし 」 いやいや 「 ひまつぶし 」に、

( 註:このギャグがわかる方は名古屋人 )

「おもしろ 富田林寺内町クイズ

がんばって、やってみよ~

                                                                       

「 解説が面倒くさい方は、飛ばしてください」

 

 

 

低いほうは馬、高いほうは牛をつなぎます。総称して「駒つなぎ」。今井町は両替商が多くお武家さんが馬に乗って来るので、低い立派な駒つなぎが多い。富田林は商人が多く積荷用の牛が多いので高さの高い駒つなぎが多いんです。それではなんで低いほうが馬で、高いほうが牛かといいますと、苦しい姿勢でつないでおくとあまり動き回らず、おとなしくしているからやそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いわゆる犬除け・猫除けです。現代では、車除けの意味もありましょう。「矢来」とは合戦のとき、寄手衆の矢を防ぐ板を防御に張ったものが由来で、矢の飛んでくる方向に傾斜しています。「防ぐ」という意味とその形からそう呼ばれるようなったのでしょう。

犬矢来もいろんな形があります。京町家の傾斜部分が湾曲したものが有名ですが、板状のもの、富田林のように丸木を使ったもの、竹製のもの、鉄製のものなど素材も形もいろいろです。共通することは、要するに、ここには入ってほしくないんですね。

 

 

 

 

 これは本来、牛や馬をつないでおく柵で、家屋の壁を牛馬が体をこすりつけてカイカイするのを防ぐ意味がありましょう。よって元来もっとぶっとい材木で作り、そこへ駒つなぎの金具をつけたのかなと思います。いまは、力持ちの牛馬でなく、わんこやにゃんこ、おこちゃまが中でわるさをしないようにつくってありますから やわ です。旧杉山家住宅や本奥谷家には、牛馬がカイカイしてすり減った柱がみられますよ~ かつ て私はサファリパークに行って、キリンに車のアンテナを折られたことがあります。動物には、蚊取り線香やムヒがありませんので、突起物に体をこすりつけてカイカイするのですね。

現在では、犬矢来も駒寄せもおんなじ目的になっているようですが、元来その起源は異なります。

 

 

 

 

 

 

 計画都市なのになんで街中でこんなにずれてるの?

それには理由があります。1560年前後に成立または改変された寺内町は、外敵(戦国大名などの対抗勢力や盗賊)による略奪や侵略を防ぐために、街中で遠見遮断するために、交差点を一間(1.8m)ほどわざとずらしてあります。これは察するに、ずらすことにより死角ができますから、隠れることができるとともに、むこうが見えないので矢や鉄砲が目的にむかって打てない利点があります。富田林や今井町がそのタイプです。

この時代の都市計画で、街中の交差点で「あてまげ」をしているということは、交差点の角と街路に面して家屋があったことが連想されます(建物がなければ見通しは効くの「であてまげ」の意味がなくなる。)から、成立時にこの区画がされているということであれば、建設当初からある程度街路に家屋が建ち並ぶ周密な状態になっていたと思われます。

近世初頭になって、平和が訪れるとともに町の入口で筋ちがえをするタイプに代わってきます。寺内町ではありませんが、このタイプは富田林市新堂、羽曳野市古市、羽曳野市広瀬がそうです。この場合、目的も違ってきていて、厄除け・災難除け的な厄を直線的に町に入れない意味があろうかと思います。 

外敵(盗賊や戦国大名のような対抗勢力)の略奪や侵略を防ぐために、町の入口に堀・土塁・木戸を設け、町内の街路にあてまげを施工しているということは、町の外で外敵を食い止めるとともに、もし侵入した場合も「あてまげ」などを利用して市街戦も辞さないという意志の表れかと思われます。しかしながら、この当時の戦略として最も効果的なのは、町に火をつけ焼き払うのが通例でしたから、そういうことからすると市街戦を含む地域戦においては効果があるかもしれませんが、戦国大名の戦略戦では、戦う前に焼き討ちにされ灰燼に化してしまいます。

 元亀元年(1570)から天正八年(1580)の10年の長きに渡り、浄土真宗本願寺勢力と石山本願寺と織田信長が争い、長島・加賀の一向一揆の弾圧や今井町などの寺内町も戦場と化した時代がありました。そして、その多くは破壊され、現存していません。寺内町や中世の環濠集落、自治都市は生き残るために戦国大名などの対抗勢力といろんな手段で接していますが、戦闘するより 矢銭や兵粮米銭を収めてでも、「禁制」をもらい柔和・協調路線をとったほうがよいという路線を選択した都市が多く現存しているのも事実です。

今井町は元亀二年(1571)石山合戦の際には、石山本願寺、三好三人衆に味方して、織田信長に反抗し、環濠を堀を深くし土塁や見通しを妨げる「あてまげ」を施工ました。結果信長勢と半年余り交戦し降伏、津田宗久の和議によりなんとか破壊されることだけは免れました。

 

 

一方、富田林はこの時本願寺勢力に呼応しませんでした。 

寺内町が建設された永禄三年(1560)、時の権力より「禁制」や「定」を書状を取得しています。内容については以下のとおり。(以下の資料については、富田林市史 4 資料編より)

・ 「定 冨田林道場  永禄三年(1560)三月日 (安見)美作守(宗房) 」 畠山氏家臣

 『  定             冨田林道場

    一、諸公事免許之事

    一、徳政不可行事

    一、諸商人座公(事)之事 

    一、国質、所質幷ニ付沙汰之事

    一、寺中之儀、何も可為大坂並事 

    右之条ゝ、堅被定置畢。若背此旨、於違犯之輩者、忽可被処厳科者也。仍下知、如件。

    永禄三年三月日 美作守  在判  』

ほか、

・「禁制 石川林之御坊 永禄四年(1561)九月十三日 (湯川)直光 」 畠山氏家臣

・「禁制 永禄三年(1560)七月七日 (三好)下野守(政康) 」 上記 畠山氏とは対抗勢力

・「禁制 永禄三年(1560)七月日 民部大夫(十河一存) 」 十河一存(そごうかずまさ)→対抗勢力 三好家 三好長慶の弟

時代は下り、

天正六年(1578)拾月日 佐久間信盛・信栄 親子が冨田林に宛てた「定」 織田信長 家臣

などがあります。

 

 

 

また、このような書状もあります。

・『当寺内御制札在之条、不可有異儀候。・・・永禄十一年十月朔日  坂井右近尉政尚 在判 (他4名連記) 河内国冨田林院内江』 

(寺内町のすでに出されている御制札については、なんの異議もありません。承認します。)

 

・『・・・大坂之働不慮之躰、且者対天下不儀、且者背門下之法度之条、旁以無是非次第也。然而当寺内之事、・・・忠節神妙候。寺内之儀、聊不可有条候。・・・

元亀三年(1572)九月日               信長 御朱印

        冨田林寺内中 』

(石山本願寺の反抗は、道からははずれ、法に背くことで、してはならないことです。富田林寺内町は本願寺に味方せず、忠節神妙ですね。何の問題もありません。 ) 

 

そして 、

元亀元年(1570)、信長から「寺内之儀、不可有別条(じないのぎ、べつじょうあるべからず)」との安堵状を得て、平穏を保つことができたわけです。(興正寺御門跡兼帯所由緒書抜元治元年(1864)伝写本より伝写)

 

 

 

 

 寺内町の東西道路(町)に面した家屋の後側の境界を水路で区切り、雨水や生活排水(悪水)をその傾斜に従い、西から東へ排水しました。ただし、寺内町の最高地点(67.2m)の市場筋堺町の交差点より西のエリアについては、傾斜の関係で逆に東から西へと流れます。富田林寺内町の西北部に水面65mの深溝(ふこうど)井路が流れていますが、わずか1~2mの比高差でその水を引き込めないので、新堂や今井町と異なり、背割り水路流れる水は非常に少ないです。現在富田林町は9町会からなり、東西道路(町)から背割り水路までの1区画が原則的に一つの町会をなしています。

 

 周辺地域の新堂や毛人谷(えびたに)においても、背割水路の法面を石垣で仕上げたものが見られ、同じ発達過程を経てきたのがわかります。毛人谷は、寺内町ができるまで真宗道場があったと考えられ、「古御坊」という小字が残っています。新堂も毛人谷も近隣の山中田・中野と同じく、創建当時から庄屋株を出していた村々です。

 

 

 

 天井の低い二階部分(厨子つし)を持つ「平入り」住宅で、江戸中期から明治前期位まで、主流に作られました。明治中期以降は、本二階(天井の高い、居住空間の空間の広い二階)に切り替わってきますが、富田林の場合、伝統建築で本二階の家屋は少ないです。厨子二階の二階部分は、本来居住空間ではなく、納戸(なんど)=押入れとして利用されてきますが、使用人部屋や子供部屋としても利用されました。厨子二階の背の低い天井の梁に頭をぶつけたものです。

本瓦葺きについては、桟(さん)瓦が発明されるまで、広く用いられてきた葺き方で、平瓦と丸瓦を組み合わせる葺き方です。今も寺院建築はほとんどこの葺き方で、重厚な重量感のある感じがします。また、桟瓦葺きは、その後でできた瓦の葺き方で、軽快な軽い感じがしますが、富田林寺内町では、この葺き方が確立した後もどちらの葺き方にするかは、個々の建物のごとに決めていたようです。

また、間取りについては「平入り四間取り」の農家型住宅の間取りを寺内町の町家も踏襲しています。これは近隣の山中田・大伴・甲田などの農家の外観や間取りによく似ていますが、商家であるため道路側を「ミセ」として商用の間に転用しているのと、農家のように「マエニワ」や長屋門がなく直接道路に面している点が異なります。基本的に発生起源が農家にあり、寺内町と近隣農村が建築史上同じような変遷をしたと考えられます。「うなぎの寝床」とよばれる、京町家形態でないことがわかります。

 

 

 

 

 いろんな形があるものですね。格子の本数もまちまちで、本数も富田林では2本から17本まであります。時代によて流行があるようで、その形も丸みのあるタイプから、四角いタイプまで変化します。本来のその機能は、空調と明かりを取るためであると思われます。原則的には、古い順から言うと、まるこいもの→しかくいもの→しかくくて、縦の比の大きいものになります。 

 

 

 

 端的に言えば、採光と通風を確保しつつ、外部からの進入と視界を制限する目的で造られています。ご覧のとおり、いろんな形状があり各家屋のいろんな意匠がみられます。縦がもっとぶっとい「荒格子」や、窓の格子幅を調節できる「無双窓」も、寺内町では見られます。外から格子窓を正面から見ると部屋の内部は見えますが、少しずれて見ると、格子の角材の奥行の関係で、すぐ見えなくなります。また、内から外をみると、ちょうどいい具合に照度がとれ、外の様子もよくわかります。直射日光も適度に制限され、夏場は涼しい風が入ってきて快適です。格子窓から見た景色は風情がありますね

 

 

 

 

「うだつが上がらん。 」で有名な「うだつ」です。うだつの上がっている家は比較的裕福な家であったことから、「生活や地位が向上しない」、「いつまでも見栄えがしない」という意味で使われているようです。漢字では「卯建・宇立」を当てています。

もともと、家屋の周密な街中の切妻屋根に多く、隣家との防火壁として、いろんな意匠がみられます。富田林においてもそこそこ見られますが、切妻屋根より入母屋屋根の構成比が高く、町家としては「うだつ」を上げていない家屋が多いと言えると思います。これは富田林の特色で、敷地面積の広いお家(うち)が多く、蔵や庭があり、隣に火が直接燃え移りにくい関係からだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

「忍返し」といいます。泥棒などの侵入を防ぐために、壁の低い、乗り越えられそうな所にあらかじめ「侵入するのがイヤになる位」の五寸釘やとんがった木の柵を取り付けてあります。古い街に時として見られますが、その形はいろいろで、その街においての独特の意匠が見られます。そんなに古い時代からあったととも思えませんが、富田林の場合は一区画が広いお家(うち)が多く、玄関から入った奥が昔は畑や作業場になっており、侵入を防ぐために外壁を築き、侵入されるようなところには「忍返し」を取りつけたのでありましょう。

現在、「忍び返し」は、建築業界の業界用語になっており、いろんなタイプの金属製の「忍び返し」が出回っています。「忍び返し」って、「泥棒除け」って言うよりなんか婉曲で、いいですよね

  

 

 このあとは、中にはいっていきました。

 

 

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

(HN:アブラコウモリH)


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