富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

お亀石古墳のおもろ木 1

2014年04月22日 | 草花

2014.4.22. 6:00

新堂廃寺・オガンジ池瓦窯跡・お亀石古墳の3つの遺跡の関係が話題のお亀石古墳です。 

 

2014.4.22. 6:01

 南河内地方の終末期古墳(7C前半)の特徴の横口式石槨。追葬が可能であること。被葬者の生前中に造れることなどの利点があります。

同じ時代のオガンジ池の瓦がどちらからも出土しているので、新堂廃寺と同時進行で造ったといわれています。

 

*ここから部分は長いので、時間の許せる範囲でお読みください。

この当時の終末古墳は羽曳野丘陵など小高い丘陵に築造しています。そして、自分たちの居住している集落や活動のを見渡せる見晴らしの良いところ(頂上とは限らない)に、被葬者の生前に計画的に墳墓をつくります。

お寺の建設と古墳を同時進行した場合、古墳が丘陵地であれば、同時進行のお寺もその近くに造るほうが以下の理由で合理的であると思われます。

つまり、氏寺に近いところに葬られたいという精神的な部分と、寺を建設するにあたっての大量の瓦を羽曳野丘陵の傾斜地(穴窯が必要)にもとめ、その原料を同じく、大阪層群湖成粘土層・大量の松の木を丘陵部に求められる利点があるからです。

 

その手段として想像しますと、

 

①墳墓の生前建設と氏寺である新堂(廃)寺に伴い、丘陵地に臨時の建設のための作業場を設けた。(本村は今の新堂と毛人谷の間と想定)

 

②首長は墳墓に近いところを氏寺に選定する。その理由として、墳墓から寺や本村の見渡せる場所を選んだ。

 

ということは新堂廃寺あたりの水質の悪い集落立地としては適さない場所に新たに古墳と一緒に建設したことになります。

 

本来の居住区はもっと住み易い河岸段丘崖の近くの良い水質の水が湧く井戸が掘れる今の新堂あたりにあったと想定できます。おそらく後の、条里制の成立年(この辺は8世紀中期か?)や畑ヶ田遺跡(8世紀)の役所跡のような大きな建物跡の見つかったあたりに本来の居住区があったのではないでしょうか。新堂廃寺近辺に大きな居住区が見つかっていないのもこれでうなずけます。

 

 

新堂廃寺の立地が、今の住み易い集落群(新堂・中野・桜井・毛人谷・甲田など河岸段丘崖の上の段丘面の崖寄り)から離れ、水質の悪い(カナ気の多い)所に立地しているのもこれである程度理解できるかと思います。

仮説としては、先に本村が今の新堂周辺のどこかにあり、墳墓と仏教思想の伝来に伴い寺の建設を行うことになり、近くの丘陵地にそれを求めた。なぜなら、墳墓は慣例的にこの地域では平地では原則築造しないから。

これは、今のところ私の仮説ですが、図で表すと以下のようになります。 

お亀石古墳・オガンジ池瓦窯跡・新堂廃寺は7世紀前半の同時期。

条里制がこのあたり一帯に大規模に実施されたのは、8世紀中葉と考えられます。

畑ヶ田・畑ヶ田南遺跡は8世紀、奈良時代の地方役所跡と考えられています。班田収授法(条里制)を始め、この地域を掌握するのに必要であったと考えられます。

 

 

 

粟ケ池の成立は、深溝井堰の成立と同じくして、8世紀ごろの成立と考古学的に立証されています。(中野北遺跡等)

条里制は班田収授法の実施のための、実質的な口分田の区画工事(土木工事)ですが、そのための水の確保(粟ケ池・深溝井堰、井路の施工)のためにも地方官役所(地方豪族、たぶん蘇我氏がそのまま任命された?お亀石古墳・新堂廃寺を作ったその子孫と考えられる。)が必要であったと考えられます。=畑ヶ田・畑ヶ田南遺跡 その居住区も役所に隣接されてあったと考えられます。生活条件の悪い新堂廃寺周辺に生活するより、今の集落がそうであるように河岸段丘崖の近くの上の段丘面で生活したほうがずっと生活しやすいからです。

生活しやすい理由は、

1.良質の飲み水が得られる。→今でも数か所崖のしたで水が湧いています。(例:大師井戸・富田井戸)、上の段丘面でも浅井戸で、数m掘れば水が湧きます。江戸時代の富田林寺内町の酒造りはこの水を使いました。)

2.洪水の心配がなく、土地も乾燥もせず、湿地でもない住み易い土地。

3.周りは上も下も田んぼ、すぐ行ける。深溝井路のおかげで、稲が作れる。その証拠に、8世紀に大規模に条里制が敷かれている。

というような、理由です。

 

(図は、富田林市中央公民館講座 平成23年秋季講座 「水の文化史」より)

お亀石古墳より、新堂廃寺・畑ヶ田遺跡方面を望む。

富田林の石川左岸(西側)の点で存在した遺跡群が、線でつながり、面での拡がりが感じられます。

 

2014.4.22. 5:59  前書きが多くなってしまいました。

これは、古墳から二上山の眺望。きょうは日の出は見えませんでした。

 

2014.4.22. 6:09

被葬者は自分の住まいと氏寺を見渡せるところに墳墓を造りたかったんでしょうね。

 

2014.4.22. 6:10

 御観寺(おがんじ)池(中野水利)は江戸時代に拡張されているようです。このあたりは、地区の境界で、新堂水利と中野水利が歴然と区分されています。

 

2014.4.22. 5:58

 すみません、ここからが本題です。

古墳に至る小高い丘の斜面に、おもしろい形状の木々が生えています。

 

2014.4.22. 5:46

同じ種類の木のようですが、何の木かはわかりません。どなたか教えてください。

 

2014.4.22. 5:46 おしくらまんじゅう

 

2014.4.22. 5:39

なんと、木が途中で引っ付いている。

 

2014.4.22. 5:40 ほら、引っ付いているでしょう。

 

2014.4.22. 5:42 この木も引っ付いている。

 

2014.4.22. 5:49 おしくらまんじゅう

 

2014.4.22. 5:55 おしくらまんじゅう

 

2014.4.22. 5:56 おしくらまんじゅう

 

2014.4.22. 5:57 力コブ 

 

2014.4.22. 5:58  ひっついている

 

2014.4.22. 5:43 おもしろい木がたくさんありますね。

 

2014.4.22. 6:02 亀さん?

 

2014.4.22. 6:05 亀さん?

 

2014.4.22. 6:03 大阪層群です。含まれている丸石(水の浸食を受けている。)

 

2014.4.22. 6:01 緑がいっぱい

 

2014.4.22. 6:04 太陽が雲間をやっと抜けました。もう帰ろう~

 

 

 2013.4.16. 5:36  富田林市中野 お亀石古墳より

行くのが遅かった、中央からの日の出は、例年4月16日ころでした、残念!

・お亀石古墳からの日の出の一番いい写真はこちら→「ご結婚おめでとうございます」の写真!2013.4.16.) 

 

撮影:2014.4月22日

2014.4月23日 (HN:アブラコウモリH )

 

追伸:ブログを見られた方から、

①古市からの二上山の中央からの日の出を見れるのはいつですか。

②下佐備のレンゲ畑は、どこにあるのでしょうか。

   の質問をいただいております。

 

そのお答えとして、

①夏至⇔冬至で往復しますので、定点では年に2回見られます。

古市にお住まいということで、よく見える場所は峰塚公園、翠鳥園の量販店の駐車場の上の道路、はびきの1丁目の丘陵の上あたりが、障害物のないビューポイントとと思います。

一つは、以下の通り、2月1日ごろです。→ 峰塚公園 2014.1.31. 7:13  

 

もう一つは、11月9日ころ 峰塚公園です。→2013年11月8日 6:46

 

その頃のブログを見てくださいね。

1.最近の日の出より、 2.二上山の朝日がきれいです! その5、 3.二上山の日の出 --- 羽曳野市 峰塚公園付近 2、 4.二上山の日の出 --- 羽曳野市 峰塚公園付近 1 

 

②府道201号、佐備→甘南備→観心寺に向かう府道で、山手町・富田林三中の入口の三叉路(金剛バスの「山手町入口」)を曲がり100m、佐備川の橋を渡り、すぐ右手に田んぼが広がります。春はレンゲ、夏は瑞穂、秋は彼岸花、冬は冬枯れ・積雪がとてもきれいです。

 

 続編につきましては、

 2(近日中にアップ)を見てください。

 


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