大倉草紙

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【東京・世田谷区】 松陰神社

2009年12月26日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
11月4日(水)
当日の行程:(小田急線・経堂駅) → 【世田谷八幡宮】【勝光院】【世田谷代官屋敷】【荻泉翁コレクション ― 藝に游ぶ ―(世田谷区立郷土資料館)】【豪徳寺】【世田谷城址】【松陰神社】


松陰神社は、明治15年(1882)に創建された吉田松陰を祀った神社。
安政の大獄で処刑された松陰は、頼三樹三郎らとともに、松陰神社に葬られている。


松陰神社道の道標
「旧大山道(矢倉沢往還。現在の世田谷通り)から松陰神社に至る道の入り口に建てられていた道標。世田谷通りの拡幅事業の際に境内に移設した。明治45年乃木希典公により寄進。」(案内板より)


徳富蘇峰植樹の碑
明治41年(1908)、『吉田松陰』を発刊するにあたって植樹し、碑を建立した。
碑の表には、「景慕英風植樹表誠」と刻まれている。


碑の隣にあるのが徳富蘇峰が植えた樹?
かなり大きい。


吉田松陰の像


拝殿


松下村塾
山口県萩の松陰神社に保存されている松下村塾を模したもの。


石灯籠
境内には、32基の石灯籠が並ぶ。
明治41年(1908)に奉献されたもので、奉納者は、毛利元昭、伊藤博文、山縣有朋、井上馨、桂太郎、佐久間左馬太、乃木希典、青木周蔵、寺内正毅ら。


墓所入口の鳥居
「吉田松陰先生他烈士墓所
 文久3年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。(中略)
 禁門の変後の長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生鋳貨の墓を修復(以下略)」(案内板より)


木戸孝允寄進の鳥居
明治元年(1868)の修復の際に寄進された。


鳥居の柱には、「大政一新之歳 木戸大江孝允」と刻まれている。
写真に写っているのは「木戸大江孝允」の部分。


吉田松陰の墓


右から、
頼三樹三郎の墓
小林民部少輔の墓
吉田松陰の墓
来原良蔵多々良盛功の墓
福原乙之進大江信冬の墓


長州藩邸没収事件関係者慰霊碑


長藩第四大隊戦死者招魂碑
明治37年(1904)、桂太郎によって建立。


徳川家寄進の石灯籠
禁門の変で幕府が破壊した吉田松陰の墓を、明治元年に木戸孝允が修復した際、徳川家から謝罪の意をこめて、石灯籠1対と水盤が奉納された。


徳川家寄進の水盤


松陰神社の御朱印

松陰神社の敷地と隣り合って、桂太郎と桂家の墓がある。
吉田松陰を敬慕していた桂太郎の遺言により、松陰霊域に葬られたそうだ。

桂太郎の墓


桂家の墓