京都を愛する”おいない”の最新情報・不定期便

【京 の 歳 時 記】:【最 近 の 話 題 : 出 来 事】をお知らせします

京都を愛する”おいない”の最新情報・不定期便

2005年05月13日 08時02分22秒 | “おいない”プライベート日記
【京 の 歳 時 記】
葵祭と巡行について………(五月十五日)
京都には三大祭りと言われている祭りがあります。春の葵祭・夏の祇園祭・秋の時代祭で、千二百余年の都としての歴史を誇る京都には、年間三百を越す祭りが市内随所であります。三大祭りは近年になって言われ始めたことで、三百を越す祭りがあっても京都の祭りといえば、かっては「葵祭」のことでした。この祭、もともとは京の先住民族ともいえる賀茂氏の祭りで、現在の上賀茂神社と下鴨神社という賀茂の神社で五穀豊穣を祈願する祭りが、 平安遷都(794)を境に国家的な祭りへとなっていきました。
さわやかな新緑匂う皐月のころ、葵の花で飾られた牛車や輿に乗った斎王代を中心にした華麗な行列が、御所を出て下鴨神社から上賀茂神社を巡幸するこの祭り、平安時代をそのままに都の雅、そのものを展開する一大絵巻を繰り広げます。
京都人は「今年は何処で見ようかな」と御所や鴨川堤など見物場所に気をもみながら豪華な平安絵巻と新緑を共に楽しめるのもこの祭りならではのこと。
祭りの主役〔斎王代〕はそもそもの始まりは平安初期、八一〇(弘仁元)年、嵯峨天皇は伊勢神宮の斎王にならって、賀茂の社にも斎王を置き、この初代斎王、有智子内親王から鎌倉時代はじめの礼子内親王(後鳥羽院皇女)まで、約四百年にわたり賀茂の斎王は続いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府との政変、承久の変で途絶えてしまいました。それを昭和二十八年に祭りの復活後、行列を華やかに盛り上げるため、斎王代を中心にした女人列を加えて今日に至り、斎王代は民間の未婚の女性が選ばれることになっています。ちなみに今年で五十代目を数えます。別名 賀茂祭・北の祭とも言われ、葵祭と言われるようになったのは、一六九四(元禄七)年に再興されたころからで、御所車、勅使、供奉の者、牛馬まですべて葵の葉で飾るところから葵祭の名になりました。行列は総勢五百十一名、勅使をはじめ倹非違使、内蔵使、山城使、馬三十六頭、牛四頭、牛車二基、風流傘、斉王など、平安貴族そのままの姿で約一キロにも及び優雅な列は市内を練り歩きます。


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