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上村静氏

最近読み始めた上村静「宗教の倒錯 ユダヤ教、イエス・キリスト教」(2008年)に注目すべき言葉をいくつか見つけたので引用させてもらった。見出しは引用者がつけたもの。

信仰者の陥りがちな姿
「自らの人生すべてを宗教に献げることは、表面的には信仰深く幸せそうに見えるかもしれないが、実際には自分の生の有り様を他人に依存し、自立した人間として生きることから逃げているに過ぎないという場合も少なくない。信仰熱心な者となることを自らに課す人は、宗教指導者や組織の言いなりになってしまいがちである。それは決してその人に与えられた「いのち」を生きているとは言えず、むしろそれを失っているのである。」(pp. 1,2) --- 厳しい指摘であるがそうなることが多いと思う。

古代人の残したものを現代人はどう受けとめるか
「聖書は神話である。神話には、古代人の人間についての洞察が含まれている。人間とは何者なのか、人はどうあるべきなのか。(人間の本質にかかわる問い。)古代人は、神話という象徴的な言語を用いてこうした問いに間接的に答えているのである。そこには現代人にとってもなお有意味な真実が含まれている。」(p. 3)
「現代人にはもはや神話をそのままで事実として受けとめることはできないし、無理にそうすることは知性を犠牲にするだけでなく、結局は神話の伝える真実を手に入れることもできない。聖書が神話であることを認めるのは、決して聖書を侮辱することではない。むしろ、聖書の伝える人間についての洞察を現代においてなお有意味なものとして理解するために必要な前理解なのである。」(p. 4)

非神話化と再神話化 
神話論的表象によって表現された古代人の現実理解・使信を現代人に理解できるものへと抽象化することを「非神話化」、それを現代に向けて語り直すことを「再神話化ということができる。聖書の非神話化は、神話をとおして表現された古代人の現実認識を現代人にとっても現実的(リアル)な事柄へと置き換え、その意味を再確認することであり、その再神話化は、再確認された意味を聖書の宗教の外部にいる多くの人にも共有することを可能にする。」(pp. 4, 5)
--- 聖書をまたキリスト教を非神話化したとしても、牧師はまたキリスト教指導者は再神話化を試みる者になって信者や一般人に語るべきであると説いている。

これは、植田真理子が「よい牧師は敬虔な信徒のつまずきになる言葉を言わずに、実は批判精神たっぷりな説教をする」と書いているのに通じると見た。

[追記]
非神話化のち再神話化 - - - モルモン教徒に適用した場合 

モルモニズムについて「非神話化」した人がいて、なお教会の共同体の中に留まろうとすれば「再神話化」を試みることになる。lds教会の歴史に問題や矛盾を見出し、ついで教義や信仰体系にも疑念を感じた人は、探究するうちにモルモニズムの非神話化を行う道に入り込む。つまり、lds関連の神の顕現や聖典の産出など超自然的な事柄の多くについて否定的な立場に立つことになる。しかし留まる道を選ぶなら、モルモニズムに見出せる普遍性や現代社会に活かせる特長的な要素を再確認して、共同体の仲間や教会外の人々に語りかける役割を担うことになるのではないか。その場合、非神話化されたモルモニズムの姿は心中内包した状態で弁えながら行うことになる。(なかなかその境地に達することは容易ではない。)


非神話化(Demythology)とは?

聖書から奇跡や自然科学では説明できない神話的要素を取り除いて解釈する方法。史的・批判的研究を活用する。

世界像も出来事の叙述も,記された時代の神話の形式を伴っていると考え,聖書が真に伝えようとしている真理を時代に制約された神話的表象の形式から解放することによって,現代人の立場で正しく理解し説明しようとする試み。

神話的表現の中に隠されている「聖書の中で重要な宣教の使信」(ケリュグマκήρυγμα)を、「解釈」によって取り出すことを「非神話化」という。(以下ルドルフ・カール・ブルトマンの考え方の要約)。

歴史には、目に見える形で起きた歴史「史実」と、私にとって意味を伴った歴史「実存史」がある。聖書は正しいと言うとき、それは「史実」としての正しさよりも「実存史」という意味で正しい、と理解すべきである。[実存とは、現実に存在し生きている、個体としての主体的自己=私を言う。自覚的存在。]

現代人である我々は古代の世界観を受け入れることはできないし、また仮に、その古代の世界観を無理に受け入れる(例えば、「病気は悪霊の仕業)とすると、それは知性を犠牲にしなければならない。我々が古代の世界観を無理やりに受け入れることは「できない」ばかりでなく、「する必要がない」し、むしろ「してはいけない」ということになる。

「学問的なアプローチは、言い換えると非神話化の作業。学問的、つまり科学的な理解は現代人の共通言語と思っている」(私の友人SSさんldsのフェイスブックにおける発言。2014/02/26)。

参考:非神話化とは何か 平岡広志(ブルトマンの聖書解釈1941年による)



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