「新共同訳旧約聖書注解I」(1996)のヨセフ物語の部分を担当し
た水野隆一(関西学院)は、聖書本文に唯一の正しい意味があるの
ではなく、聖書の読みは常にダイナミックで一つのものに固定して
しまえない、と解説している。112-113頁。以下引用。
[右は翻訳の種類。翻訳も解釈を反映している。]
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これまでの聖書解釈(批評学による研究を含む)では聖書本文に
は「唯一」の意味があり、それを明らかにすることが「釈義」の目
的とされた。そして、批評学にとってその「意味」とは著者・編集
者が「意図したこと」であった。
しかし、最近のコミュニケーション理論においては、次のように
考えられている。テキストは意味を入れる容器ではない。「意味」
というものは、テキストが読まれる際に「生産」されるものだ。唯
一、正しい意味があるのでなく、テキストが読まれる際に、読み手
(ある社会的、経済的、文化的、宗教的背景に縛られている)に受
けとめられる意味が、いわば「浮かび上がってくる」のである。
(注解書などにおける)一つの読みの提示は、同じテキストを前
にしている「読者への挑戦」であり、それぞれの読者がその挑戦を
受けて、自分自身の読みを見つける手がかりとなるべきものである。・・
「正当」であることのほかに、聖書という書物を読む場合、問題
となることがある。それは、その読みが「説教に結びつく」あるい
は「信仰を養う」かどうかという、「有効性」の問題である。・・
「正当性」と「有効性」は、聖書の読みを判断する古くからの基
準であった。ただ、「正当」あるいは「有効」と判断される範囲、
基準が社会の変化、信仰理解・神学の変化によって変化しているの
である。その意味では、聖書の読みは常にダイナミックで、一つの
ものに固定してしまえないのである。だからこそ、読み手は何度読
んでも、聖書という書物に新しい発見を期待できるし、事実、それ
まで知られなかったものを発見するのである。
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私は元々著者・編集者の意図した意味をあくまで尊重したいと思っ
ているが、「テキストを読むときに読み手に受け止められる意味が
浮かび上がってくる」という説明が斬新に響いたので掲載した。昔
読んだ榊原康夫の「聖書読解術」(1970)も預言は一回ではなく何度
でも読む人の心に成就し得ると書いていたのが思い起こされた。172
頁。なお、聖書批評学者ロバート・M・プライスはモルモン書にも
十分有効性が認められると述べている。(本ブログ '06/3/1)
[予備のキーワード、有用、効用、効果、役に立つ、使える、重宝]
モルモン書(聖書)という鏡
あるいはウリムとトリム?に映じる意味を読むような。
それは私の心に応じて言葉の強弱が変化し新たな意味を発見し慰めと希望を与える。
霊的(信仰によって)読むことは宗教的な体験だと思います。それは啓示を求める読み方でもあると思います。モルモン書は優れて宗教的な体験(啓示)を読者に与える書物だと思います。
白紙の気持ちで読むようにしたところ、ベニヤミンの奨励、訓戒が大変美しく感じられました。敬意をもって接する読者に霊感を与える書物である、と思います。
ブログ本文にあるように、新しい発見ができ、その時々の読者に意味(メッセージ)を語りかけてくる書物(聖典)であると言えます。