9世紀前半の渤海と東北アジア



【渤海と黒水靺鞨】
9世紀に入り、渤海は唐に「海東の盛国」と記録されるほどの
最盛期を迎える。対外的には度重なる黒水靺鞨への遠征により、
その版図を北に向けて最大に広げることとなった

渤海は靺鞨諸族の基盤の上に高句麗遺民が中心となって建てられた
国家であるが、高句麗自身、靺鞨の祖先である扶余の分派によって
建てられた国であるから靺鞨と高句麗とを峻別する必要はあまりない。
東北アジアの諸集団の中で中華文化を受容した勢力(移住してきた
漢人コミュニティも含めて)が同族を組織して国を形づくった、
という点では高句麗も渤海も基本的には同じと考えてよいだろう。

山東半島から渤海海峡を渡り、遼東半島を経由して東北地方に至る
交易路が渤海の富をもたらす源であった。貂の毛皮をはじめとする
北の豊富な産物が渤海から唐に運び出され、見返りに様々な文物が
渤海を潤した。渤海を育んだ地域は東北アジアの物流の要であり、
有史以前から1000年近く後代の清の成立時期まで北の世界と
南の世界との結節点として機能し続けていたのである。
唐との関係が安定した8世紀半ば以降、この交易路はその機能を
最大限に発揮することとなる。

渤海の北の黒水靺鞨もまた唐と直接結びつくことによって交易による
利潤を追求していた。間に位置する渤海としては南北物流の中抜きを
意味し、さらに背後に軍事的脅威となる勢力の存在を許すことになる
この結びつきを看過することはできなかった。
このことが渤海の山東半島の登州襲撃をはじめとする8世紀前半の
唐との緊張関係をもたらした。

その後も黒水靺鞨と渤海は対立を続けていくが、両者の勢力範囲に
当時の考古学的文化の分布域を重ねてみるといずれもが同じ
文化を土壌としていることが見てとれる。

これまでの考古学的な調査の結果、中国東北部、沿海州、
アムール川流域には当時、同仁・靺鞨文化が広がっていた
(中国国内では同仁文化、ロシア国内では靺鞨文化と
呼ばれる考古学的文化がそれぞれの領域内で設定されているが、
これらは同じ文化であると考えられている)ことが判明している。

「靺鞨の世界」の中で培われた社会の発展は、その後女真文化から
金の成立へと続き、やがて大清帝国を生み出していくのである。

・・・この項続く
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コメント
 
 
 
北方民族よりまだ北 (もんも)
2009-10-10 05:22:03
はじめまして
日中の交流史をいろいろ調べておりまして、
「北方」民族、契丹だの渤海だので、こちらのブログに出くわしました。まだまだもっと北があって、そのマニアがいらっしゃるのに驚きました。
ときどき のぞかせていただきます
 
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