ヴォルガ=ブルガールの立地条件

馬頭さんのブログでヴォルガ=ブルガールについて触れられているのでこちらでも一席。

ウラル山脈の東西に広がる広大な北ユーラシア世界は、その気候帯分布が緯度にほぼ
平行に並んでおり、東西方向に同じような環境が帯のように延びているのが特徴です。
対して東シベリアでは山脈、高地、バイカル湖などがあってもっと複雑な様相を呈しています。
時代がだいぶ遡ってしまいますが、旧石器時代、最終氷期以前の温暖な時期の植生分布を見てもそのことがうかがえるかと思います。


そうした環境故に、同じ環境帯を通って同様の文化が東西方向に拡散するという基層的な
条件の上にヴォルガ川、オビ川、イルティシ川といった大河川が南北方向の文化交流を促す、
というのがウラルを挟んで「ヨーロッパ・ロシア北東部」から「西シベリア」に至る、
「西」北ユーラシア世界とも言うべきの基本的な枠組みになっています。

ヴォルガ=ブルガールはそのような西・北ユーラシア世界にあって森林地帯・ステップ地帯の
境界域に位置し、さらにそこにヴォルガ川が交差するという
非常に重要なポジションを占めていました。
タイガ地帯の動脈ともいえるカマ川も合流していてさらに重要性を高めています。

当然そうした地政学的な優位性はヴォルガ=ブルガールに至って始まったものではなく、
古く石器時代からこの地帯は文化的に重要な地域であったことがわかっています。

あるときは黒海・アゾフ海方面からの文化をウラルの東に伝え、またあるときは南から及んできた
印欧系諸族(イラン系)の影響を北の文化と混淆させてさらに周辺に伝播させる
拠点となるなどしており、
石器時代からモンゴル後裔諸政権の一つであるカザン=ハン国に至るまで
この土地の重要性は途切れることがありませんでした。

同様に環境的境界域+大河の組合せということではキエフを挙げる事ができます。
 この地がルーシの成立と発展に果たした役割は論じるまでもないと思います。


政治的な条件があったとはいえ、この土地に往時のイスラム文明が根を下ろすのは
歴史的・地政学的必然であったといえます。

キエフでは正教を受容していますね。この両者の双生児のような関係は
 もっと意識されてよいのではないかと思います。


ブルガールの地に定着した工芸技術によって様々な商品が産み出され、先史以来の
交易ネットワークに乗って北方世界に拡散していきました。
北はカマ川~北ドヴィナ川を経由して北極海沿岸地方まで、東は河川沿いに
ウラルを越えてウラル東麓地帯を経由してオビ川、イルティシ川沿いに
やはり北極海沿岸地方までヴォルガ=ブルガールの影響が及びます。

ペルミ地方にはブルガールとオビ川流域地帯との交易を仲介する勢力もあり、
北の信仰世界が必要とする偶像等のニーズを踏まえてそれを充たした製品を
作るようにブルガール商人に働きかけていた、ということもあるようです。

またシベリア年代記などを見れば、オビ川沿いに成立した諸王国の王族の名前に
イスラム世界風・トルコ風の名前を数多く見ることができますが、これなどもイスラムを
受容したかどうかはともかく、ブルガールの文化的影響が強かったことを示唆しています。

実際、こうした諸王国にヴォルガ=ブルガールから持ち込まれた様々な銀製品を元に
エルミタージュ美術館で「オビの至宝」展が開催されたこともあったようです。

"ルーシ世界”は、モンゴル帝国期後を経てやがてロシア帝国へと成長し、
 現在まで存続し続けることができたために取り上げられることが多いのですが
 (西欧史が連綿と重要な地域であったかのような扱いを受けているのと同じだと思ってます(^^;;)
 同様に「ヴォルガ=ブルガール世界」とでも呼ぶべき状況がウラル東西に広がっていた、
 と考えてもよいのではないでしょうか。


ヴォルガ=ブルガール地方はモンゴル期後、カザン=ハン国となり、やがてロシア帝国に
併呑されてしまいます。その後も往時のヴォルガ=ブルガール世界であった周辺の
北方諸族(ウドムルト、マリ、モルドヴァ等)への文化的影響はかえって強くなり、
イスラム教への改宗増加にロシア帝国は頭を痛めることになります。

ロシアにおける「東方問題」とは往時の「ヴォルガ=ブルガール世界」が
近世に入ってもなお無視できない影響を及ぼしていたことの現われでは
ないかとさえ思ってしまうのですが、これは少々言いすぎでしょうか。

◆関連記事:
北方世界とヴォルガブルガール(1)とりまく者たち
北方世界とヴォルガブルガール(2)イブン=ファドラーンと北方世界
北方世界とヴォルガブルガール(3)フィン=ウゴル諸族と交易路
北方世界とヴォルガ=ブルガール(4)ブルガールについて
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北方世界とヴォルガ=ブルガール(4)ブルガールについて

ヴォルガ=ブルガールは北方世界に食い込んだ、草原世界由来の交易国家である。
もっとも草原世界からの進出自体は先史時代以来幾度も繰り返されたことであり、
いつの時代も北方世界は南方とは無縁ではありえなかった。

ヴォルガ=ブルガールの意義は北方世界と周辺世界とを繋ぐ核となる都市を
作り上げたことにある。下図は10世紀~13世紀のヴォルガ=ブルガールに
おける主要な都市と城址とを図示したものである。

◆10世紀~13世紀のヴォルガ=ブルガール
(赤い枠線はブルガールの中心地であり、そこから周辺に勢力を伸ばしていた)

1.ブルガール 2.オシェール(アシュルィ) 3.ドジュケタウ 4.ビリャル 5.スヴァル
(現在のヴォルガ川はダム湖のために往時の姿を失っている)

ヴォルガ=ブルガールは7世紀後半までは北カフカスから
ドン川河口付近にかけて暮らしていた、テュルク系遊牧部族連合
(オノグル。オノグル=ブルガール)の一部であった。

同盟を結んでいたビザンツ帝国から「大いなるブルガリア」の
名で呼ばれる程の強盛を誇っていたオノグルであったが、
642年に首長のクブラトが死ぬと5人の息子の間で
相続争いが起こる。内紛状態に付け入るように東から
新興勢力のハザールが攻め込んで来ると部族連合は崩壊し、
結局ハザールの支配下に組み込まれることとなってしまう。

この時、ハザールに組み込まれた長子以外の4人の兄弟は
それぞれ部族を率いて各地に分散するが、そのうちドン川を
遡り、ヴォルガ水系に移って北上、ヴォルガ川とカマ川の
合流点付近に拠点をおいたのがヴォルガ=ブルガールの始まりである。

#他にもビザンツ帝国に亡命する等して埋没する者もいる中で、
#今でもその名を伝えているのが日本でも(なぜか)
#ヨーグルトの商品名で馴染み深い「ブルガリア」である。

ヴォルガ中流域に移り住んだとはいえ、ハザールの
支配はここにも及び、10世紀に至るまで貢納国で
あることを強いられ続けていた。

ヴォルガ=ブルガールがその独立を取り戻すには、
ハザールの弱体化とその南方の大国・アッバース朝との
同盟関係が樹立されるのを待たなくてはならなかったので
ある。

10世紀後半になると、同様に「ハザールのくびき」から
開放されたキエフ=ルーシと激しい覇権争いが始まる。
キエフ=ルーシはヴォルガ=ブルガールの握る東方交易路
(ヴォルガ川水系)を欲していたが、それは結局数百年の
時を隔てた16世紀、この地に栄えていたカザン汗国を
併呑するまではかなうことはなかった。ヴォルガがロシアの
母なる川になったのは、比較的最近のことなのである。

11世紀半ばになるとキエフ=ルーシは諸侯国に分かれ、
一方でヴォルガ=ブルガールは拡大を遂げて最大の版図を
達成する。かつてハザールがそうしたように、ヴォルガ=
ブルガールは周辺諸勢力(モルドヴァ、マリ、ウドムルト、
バシキール)との間に貢納関係を築き上げ、イスラム商業
ネットワークの北のターミナルとしての地位を確立したので
あった。

北方からの資源(最も大きいものは毛皮であり、次に奴隷
であった)によって蓄積された莫大な富はこの地に
都市文化を花開かせ、銀製品をはじめとした様々な
工芸品が生み出された。

北方世界と南の商業ネットワークとを結ぶ核となった
ヴォルガ=ブルガールは、北方世界にとっても南の
ターミナルとしての機能を持ち、ヴォルガ中流域から
北方世界に向けていくつもの交易ルートが延びていた。

北方世界に広く張り巡らされた河川網沿いに延びる
交易ルートによって、ヴォルガ=ブルガールの工芸品も
またはるかな北の地へと運ばれることとなったのである。


【周辺世界への備え】
ヴォルガ=ブルガールの領域からは、数多くの城址が見つかっている。
ここではその例として、西部の強力なモルドヴァ族との境界地域に
立地しているティガシェヴォ城砦を取り上げる。

◆ティガシェヴォ城砦復元図


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北方世界とヴォルガブルガール(3)フィン=ウゴル諸族と交易路

【バルトからヴォルガへ ~交易路とフィン系諸族~】

 10世紀のフィン系諸族の分布を図示すると、そこには明かな
傾向を読み取ることができる。

当時、バルト海から南方のイスラム帝国アッバース朝とを結ぶ交易路として、

ラドガ湖・オネガ湖~ベロ=オーゼロ(白湖)周辺~ヴォルガ川上流
          ~ヴォルガ=ブルガール~ヴォルガ川下流~カスピ海


というコースが確立されていた。

「ヴァリャーグ(バルト海沿岸)からギリシャ(ビザンツ帝国)へ」の
言葉でよく知られた西方の交易路(ラドガ湖から南下して、あるいは
西ドヴィナ川を遡ってグネツドヴォに至り、そこからドニエプル水系を
利用してキエフ、さらには黒海を経由してビザンツ帝国へと至る道)もあるが、
当時世界の中心であったアッバース朝バグダッドと結びついていた
この東方ルートをもっと重要視する必要がある。

北欧ゴトランド島から発見された約10万枚の銀貨のうち4割をアラブ銀貨が
占めており(残りはゲルマン銀貨、アングロ=サクソン銀貨)、また
北ロシア一帯での出土状況もビザンツ製コインを質量ともに圧倒している。

またスカンディナビア全体で出土したビザンツコインはわずか500枚程度であるという。
サガではミクラガルドの名で首都ビザンティウムが繰り返し出てくるために
ビザンツ帝国との関係だけに目が行きがちだが、少なくとも10世紀後半、
アッバース朝で銀が枯渇し、同時にキエフ=ルーシによってブルガール等
東方交易路が攻撃され衰退するまでは東方交易路がむしろ主であったと
考えるべきだろう。

この東方交易路上にフィン系諸族が実にきれいに並んでいるのが見て取れる。



まずフィンランド湾を囲むように後フィン族を形成するスオミやヘミ、
カレルやイジョーラ、ヴォジ、エースティ(エストニア人)、リーヴィと
いった集団が並ぶ。

さらにラドガ湖やオネガ湖からベロ=オーゼロ、ヴォルガ川源流域までの
河川地帯にはヴェシが、そこからヴォルガ川に沿ってメリャ、ムーロマ、
モルドヴァ等がブルガールに至るまで並んでいる。

このことは交易によって在地のフィン系諸族もまた繁栄していたことを
示唆していると考えてよいだろう。

北ロシア一帯の河川地帯においては海を渡ってきたスウェーデン系
ヴァイキングと並んで、河川交通において一日の長があるフィン系諸族の
果たした役割もまた大きかった可能性がある。

あるときは協調し、またあるときは敵対しながらも全体としては
一体となって交易の荷担者になっていたのではないだろうか。
さらにはロシア人の属性としてよく出される「河川水系と森林帯への
親和性」といったものはこうしたフィン系諸族の多くをとり込んで
「ロシア人」が成立したことによるものではないだろうか。

【キエフとブルガール ~森林と草原の境界勢力~】

一方、より東方のヴォルガ=ブルガールの配置を見ると、ウラル系諸族の
分布域に食い込む格好になっていることがわかる。

ブルガールの東に位置する「マグナ=フンガリア」は現在ハンガリーを
形成しているマジャール人の故地である。6世紀から9世紀頃までこの地で
暮らしていたマジャール人は8世紀頃から移動を始め、9世紀末には
パンノイアの地(現在のハンガリー)へなだれ込み、ハンガリー王国を
築くことになる。

この際、全集団が移動したわけでなくこの地に残った集団も存在した。
13世紀になってもなお、ハンガリーから派遣された宣教師によって
マジャール語が通じていたとの記録が残っている。彼らは草原の
テュルク系諸族と混交して後にバシュキール民族を構成することになる。
元を辿ればマジャールはウゴル系集団であり、ブルガールはフィン系と
ウゴル系の2系統のウラル系集団に3方を囲まれていたことになる。
実際にはブルガールが周辺の諸民族を統治下に置き続けていたのであるが。

キエフ=ルーシとヴォルガ=ブルガールの状況を比較すると、
どちらもその縁辺にフィン=ウゴル諸族を抱えていたということの他に、
どちらの首都も森林と草原の接壌地帯にあり、かつ交易路である大河の
ほとりにあったことがわかる。

領域の大きさの違いこそあれ、どちらも境界勢力として交易の仲介を
国の成立基盤とし、フィン=ウゴル系諸族の活動を取り込む事でこれを
確かなものとする構図は共通している。

フィン=ウゴル諸族は10世紀、兄弟のように共通の構造を持った
2つの勢力~ルーシとブルガール~によって西と南から蚕食されつつ
あったのである。

その状況下にあっても、両勢力の狭間に立つモルドヴァはモンゴル軍の
来襲まで強力な勢力でありつづける。ひょっとしたら両勢力の狭間で
キャスティングボードを握りつづけるという不断の政治的軍事的
駆け引きの上に成り立っていたのかも知れない。



【駁馬国とポッチェバシ文化 ~西シベリアの境界勢力~】

ウラル以西のウラル諸族がそのような状況であったなら、
ウラル東方ではどうだったのだろうか。

ここでも我々はウゴル系諸族の多くの文化が森林と草原の接壌地帯に
花開いていたことを見ることができる。中でも最も注目すべきは
イルティシ川中流域に栄えたポッチェバシュ文化である。

10世紀頃にはポッチェバシ文化は後続のウスチ=イシム文化に移行して
しまっているのだが、時期を数世紀遡らせるならこのポッチェバシュ文化は
ブルガール等と同様、接壌地帯に栄えた境界勢力である可能性がある。

中国資料(唐書)やチベット語資料に拠れば、この地には駁馬を産する
広大な国があったとされている。また、駁馬を意味するテュルク語の類型と
思われる地名や人名(Sabar、Tapar、Saber、Seber等)が西シベリア一帯に
分布し、さらにこれらは祖先の名称や敬われるべき対象としてハンティや
マンシの間で使われていたことから、往時の駁馬国の記憶が後代に残ったものと
考察されている。

一説として、これらの名称が後のイビル・シビル、シビル汗国へとつながり、
シベリアの語源となったというものがあるが、もしもそうだとするなら
往時西シベリアの接壌地帯に栄えた勢力(ポッチェバシュ文化=駁馬国)の
繁栄の記憶がシベリアの名には込められていることになり、
非常に興味深いと言える。
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北方世界とヴォルガブルガール(2)イブン=ファドラーンと北方世界



【ヴォルガ=ブルガール国のイスラム改宗とイブン=ファドラーン】
 10世紀初頭、ヴォルガ川とカマ川との合流地点を中心に、
森林と草原との接壌地帯に栄えていたヴォルガ=ブルガール国は、
それまで従属関係にあった草原国家ハザールから独立し、
安寧と繁栄とを確保するために遥か南方のイスラム国家アッバース朝の
政治的経済的支援を必要とした。

そのような背景の元、ブルガールからの支援要請に応えて921年6月
バグダッドから使節団が派遣された。
翌922年、使節団の訪問をうけたヴォルガ=ブルガール国はイスラムを
受容することでアッバース朝からの支援をとりつけ、以後この地は現在に
至るまで最北のイスラム教の拠点として活動しつづけることとなる。

イブン=ファドラーンはその使節団の随員であり、彼による報告書が
後世に伝えられることとなった。

 当時、彼らが旅したイスラム世界からブルガールにかけての領域は、
バグダッド政権から離反した地方政権の台頭、トルコ系諸部族
(グズ、ペチェネグ、バシュキール等)の移動、ハザールの衰退、
遥か北方フィンランド湾からヴォルガ水系・ドニエプル水系を南下
してくるヴァイキングやルーシ、といった錯綜した様相を呈していた。

 ファドラーンの報告書はそうした状況の中直接見聞した事柄を
記述したものであり、後世の研究家達にとっては重要な地理資料でもあった。
特に北方ブルガールを訪れた際の情報は、イスラム地理学の
北方地理概念形成に多大な影響を与えることとなった。


【旅行記に見る北方世界】
 彼の報告書にはブルガールよりも遥かな北の地についての記述がある。
一つはブルガールの地よりさらに北へ3ヶ月行ったウィースー達の住む地。
もう一つはウィースーの地からさらに北に3ヶ月行ったゴク・マゴクの地
(ユーラーの地)である。

どちらもウラル系諸族と考えられており、ウィースーはベロ・オーゼロ近辺の
フィン・ウゴル諸族、ゴク・マゴクはそこから北東に向けて、スホナ水系・
ウサ水系に沿って広がるユグラの地であろうと思われる。

ウィースーの地はバルト海~オネガ湖~ヴォルガ川を結ぶ交易路の要衝の
一つであり、遥か極北の「ユグラの地」も、ここを介して”世界”に
接続されていたことが窺える。


[参考資料・関連情報]

「イブン=ファドラーンのヴォルガ=ブルガール旅行記」家島彦一訳 (1969)
「チベット語史料中に現れる北方民族」森安孝夫 (1977)
「白鳥庫吉全集4」白鳥庫吉
「民族の世界史4 中央ユーラシアの世界」森雅夫、岡田英弘編 山川出版社 (1990)
「ФИННОУГОРСКИЕ ПЛЕМЕНА В СОСТАВЕ ДРЕВНЕЙ РУСИ」Е.А.Рябинин(1997)
「ロシヤ年代記」除村吉太郎訳 弘文堂 (1943)
「ロシア史1」田中陽兒 倉持俊一 和田春樹 編  山川出版社 (1995)
「HISTORICAL ATLAS OF THE VIKINGS」JOHN HAYWOOD 著 PENGUIN BOOKS (1995)
「HISTORICAL ATLAS OF RUSSIA」JOHN CHANNON 著 PENGUIN BOOKS (1996)
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北方世界とヴォルガブルガール(1)とりまく者たち

オビ川流域の中世を語るには、その成立に大きな影響を与えた
「ヴォルガ=ブルガール国」を避けて通ることができない。
時代を500年ほど遡り、当時の北方世界と周辺世界との
基本的な枠組みを見てみることにする。

下図は10世紀頃のウラル山脈を中心とした西方北ユーラシア世界と、
隣接諸地域の状況を示したものである。


【東スラブ諸族】
東ヨーロッパ平原では草創期のリューリク朝に代表される東スラブ諸族が
その勢力を拡大しつつあった。

もともとキエフなどドニェプル川からカルパティア山脈付近に住んでいた
スラブ諸族は、8世紀以降急激にその勢力範囲を東方、そして北方に
拡大し始める。そのうねりは9世紀には東バルト諸族を呑み込み、
10世紀にはさらに北方のフィン系諸族の世界を呑み込み始めていたのである。

東スラブ諸族の東には「ヴォルガ=ブルガール」が、そして南には
「ハザール汗国」とペチェネグ族が栄えていた。いずれも草原世界の
遊牧民族の勢力であったが、特にハザール汗国は10世紀以前には
ウラル以西世界の中心であり、この時代にあっても東スラブ諸族に
大きな影響を及ぼしていた。

キエフを中心としたリューリク朝が東スラブ諸族の中で頭角を現していくに
あたって、諸族へのハザールからの貢税要求をいかに断ち切り、自分に
収めさせるかが極めて重要な課題であった。

ハザールは敵であると同時に、リューリク朝が諸族を征服し覇権を打ち立てていく中で、
見本となる先進的なモデル国家の役も果たしていたのであった。

【ハザール汗国】
7世紀後半、西突厥崩壊後の草原諸勢力の中から出発したハザールは8世紀から
9世紀にかけて繁栄を極める。

最盛期にはウラル山脈南部からカルパティア山脈まで中央ユーラシアの西半を
その支配下に治め、南のビザンツ帝国と同盟を結んで超大国アッバース朝と
対峙した。

その同盟関係は732年、古代より連綿と続く先進地帯であるオリエント世界を
二分する一方の雄ビザンツ帝国がハザールの汗の娘を王室に迎えるに至る。
ハザールの血の入った皇帝の登場は、ハザールの力が当時いかに大きいもので
あったかを示している。

ハザールの繁栄をもたらしたものは北方世界と南方のビザンツ帝国、あるいは
アッバース朝とを結ぶ交易路の存在であった。北方バルト海からやってくる
ヴァイキング達をはじめとして様々な商人が主に東西2本の交易路を通って
活動していた。ハザールはその2本の出口(西:ドニェプル川河口、
クリミア半島、東:ヴォルガ川河口)の両方を支配下におくことに成功する。

黒海では紀元前からオリエント世界の北の玄関であったクリミア半島を押さえ、
一方のカスピ海はアラブ世界からは「ハザールの海(Bahr Al-Kazar)」と呼ばれるようになる。
また、9世紀にはユダヤ教が国教に採用されるが、これはビザンツのキリスト教、
アッバース朝のイスラム教との等距離外交を図るためだったとの説がある。
当時の西ユーラシア世界にはハザール、ビザンツ、アッバース朝の三極構造が
成立していたといっても過言ではないかもしれない。

ハザールの繁栄は9世紀後半には翳りを見せ始める。東からは遊牧民の
ペチェネグが襲来し、北ではヴォルガ=ブルガール、東スラブ諸族の離反が
相次いだためである。ビザンツはそれまでのハザールとの同盟関係を破棄して
ペチェネグと新たに同盟関係を結ぶ。ヴォルガ=ブルガールはその独立を
安定したものとするためにアッバース朝との同盟関係を結ぼうと動く。
東スラブ諸族もまたビザンツと結んでドナウのブルガリアを討つ一方で
ペチェネグと激しい争いを繰り広げる。

ウラル以西の世界において、10世紀はそれまでのハザールを軸とした
秩序が崩壊し、新たな時代へと向かう時期であったといえる。

【キメク(キマク)】
イルティシュ川からウラルにかけて存在したとされるキメクに関して
わかっていることは少ない。イルティシュ川を中心として発展した
キプチャクに先行する部族連合国家というのが間違いのないところだろう。

後のキプチャクもまたキメクを構成する部族の一つであり(モンゴル帝国の
キプチャク汗国とは別)、伸張するキメク/キプチャク勢力によって西に
押し出されたのがペチェネグやグズ、ポロヴェツである。その余波が
結局パンノイアへのマジャール侵入・ハンガリーの成立につながったことも
考えると、非常に興味深い存在である。
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