虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

過去記事にいただいたコメント と 会話について

2016-07-01 17:17:56 | 日々思うこと 雑感

『創造的で生産的な何かを生み出す会話って?』という過去記事に

こんなコメントをいただきました。

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これまで過去記事をさかのぼって読んだことがあまりありませんでした。

最近カテゴリーがかわっているなと気になっていましたが、全体を見渡して、

ふと気になって“はじめに”を読み始め、これらの過去の記事には、

今私が考えていることを、別の角度から考察できるものがまだまだあるのだろうなと

感じました。

ここにも新しい言葉や概念の必要性が出てきましたが、“使い古された言葉にも、

現在世間で使っているニュアンスではなく、一旦原点に返って言葉の意味を

考えることが今の時代必要だ”と言う内容の本を読んでいました。

また「持つ」教育「ある」教育の記事も、SQに付いての記事も、

今まさに考える必要があるなと感じていた内容です。

今後時間を見つけて少しずつ過去にさかのぼり、読ませて頂こうと思っています。

宝の山ですね。

私は対談集を読むのが好きですが、先生と息子さんとの会話もいつも興味深く

感じています。対話には、化学反応というか、大きく思考が広がる瞬間があって、

そこに面白さを感じているのだと思っています(先生の記事や本等を読むことは

作者との対話だと考えています。一方通行のようでいて対話していると感じています)。

それと、今私は子供たちとの会話が面白くなってきていると感じています。

まだまだ初歩で、全員が、本音で、全力で、考えていることを出すというところまでは

至っていませんが、ひとりひとりのちょっとしたアイデアや考えを聞いていると

面白いのです。これからですね。もっともっと時間を取って、豊かなものにしたいです。

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「対話には、化学反応というか、大きく思考が広がる瞬間があって、

そこに面白さを感じているのだと思っています」という言葉に共感しました。

息子は、この頃からずいぶん成長し、さまざまなことをより深く多面的に捉えて

話をするようになりました。

そうして交わした会話が面白くてメモを取るものの、

このところ忙しくて記事にしないままで終わっています。

コメントをいただいて、また近いうちに、対話を記事にしておこうと思いました。

(このブログのカテゴリーはあまりあてになりません。はじめに…には、

取りあえず、分類せずに書いたものも入っています。

時間がなくて、きちんと整理できていないので)

 

コメントをいただいた過去記事を貼っておきます。

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<創造的で生産的な何かを生み出す会話って?>

普段の生活で、私の心に引っかかっていることと、

息子の心に引っかかっていることというのは、全く異分野の内容です。

でもそれなのに、同じひとつのキーワードが、どちらの問題の解決とも大きく関わって

いることがよくあって、同時に「そうか!」とひらめくことがあって面白いです。

さまざまな現代の問題というのはつながっているものなんでしょうね。

昨晩、息子がはじめに話していたのは、ネット上の本のレビューについての不満でした。


「反対意見や批評って、よく聞いてみると一理あるものもあるし、

大事だとは思うんだよ。そうした意見を全て無視してしまう態度はぼくも嫌なんだ。

でもね、ほとんどのアンチ派の人たちの問題は、きちんと本を読まずに反対意見を

言ってるってところなんだ。

ちゃんと読まないとその本の持っている本当の意味での悪い部分って

見えないものだよね。

どんなすばらしい本にも、長所と短所を兼ね備えているものだから、

攻撃しようと思ったら急所を攻めればいいわけだけど、文句をつけているのが、

背が低いとか、顔が悪いとか、まともに読んでいないことが露呈するものばかりなんだ。

もっとも、いいいい言ってる人も、ちゃんと読んでいる感じがしないんだけどさ」。


息子はこうした本のレビュー以外でも、

ネット上での討論に不満があるらしくちょっと考え込んでいました。


「ネット上の会話がもう少し創造的で生産的な会話になるには、どういう形がいいのか、

いつも考えているんだけどね。

匿名の掲示板でも難しいけど、実名でそういう場を作ったところでやっぱり難しいな。

みんなそれぞれ考える力が高い人もいるし、良い考えも出ているのに、

会話が生産的な何かに結びついていかないんだよ。

たとえば最初にアウトプットした人の意見がきっかけで、

いろんな意見が引き出されてきたとするよね。

最初の意見は未完成なものだったとしても、まずアウトプットしてみようという試みと

いろんな意見の引き金になったことで意味があるのに、

そこで、最初の意見のおかしいところに突っ込む人があらわれたりして、

他の人も意見が出しずらくなってきて停滞していくなんてことが

しょっちゅう起こるんだ。

小説のレビューみたいなものでも、真剣に話しあったら得るものがたくさんあるし、

創造的で生産的な何かが生まれてくるはずなんだけどな」


「そうした会話が表面的なものに終始していくのを解決するには、やはり哲学が

必要なんじゃないかしら? 哲学のような根本的なものを問う視線がないと、

いつもおしゃべりを垂れ流すだけで終わってしまうわよね」


と言うと、ネット上の討論する場のシステムのあり方が

気になっていたらしい息子は、ちょっと笑ってから次のように答えました。


「そうだよね。議論を俯瞰するメタな視線が必要だ。ただ難しいのは、ルール違反者を

批判してコントロールするなると、そうする側もルール違反者と同じような性質を

帯びるってことだよ。

あくまでも謙虚なひとりの参加者として、それぞれの人の意見や人権を大事にしながら、

会話が創造的な流れを作っていくようにするにはどうすればいいのか、

そこが問題なんだ」


息子の考えはたいてい意見というより、

物を作る側、クリエイター側の目線といったらいいのか……


「ゴミの中にこそ宝がある」という感覚が基本にあります。

ですから、不満といっても、それは「次に世の中が必要としているものは何か」

という指針となる「宝のひとつ」にほかならないでしょう。


「そうした日常のゴミ(不満)を

どう自分の作りたいものの方へ引き込んで料理するか……」


息子と会話していると、何を話しているときも、

そこに焦点があたっているんだなと思います。


「偏差値の高い学校の人たちが集まっている掲示板ものぞいたけど、

会話が生産的なわけじゃないんだ。

それがさ、TRPG(テーブルトークアールピージー)をする人同士の会話だと、

ネット上でも、かなり生産的な会話が成り立っているんだ。

そうだ、やっぱり、これからは「読む」より「書く」のが大事なのかな?

多読多読って世間では言うけど、いっぱい読んでも理解していない人は

多いんじゃないかな。

でもさ、TRPGしている人は、それぞれが自分で小説を作りつつ遊んでいるんで、

能動的に「書く」人たちは、途中で会話を混ぜ返したりせずに会話が自然に

創造的な流れに乗っているよ」


「そういえば、今日、絵画展の隙間時間に『ハイコンセプト』って本を読んだら、

そこにも物語ることの大切さが書いてあったわ。

そこで注目されていたのは、商品価値を上げる際に、人の心が理解しやすく

感情に訴えることができる物語が重要だって話だったけど。

自分で小説を作るのって、右脳と左脳を同時に活性化するんじゃないかな?

『ハイコンセプト』では、これまでの時代では軽視されて、

取るに足らないとみなされてきた能力、つまり創作力や共感、喜び、意義といった

右脳的な特質が、これからの世の中で大きく飛躍できるか、

もがき苦しむことになるかを決める重要な要素だとあるの」


息子は苦笑いしながら、

「右脳かー!ぼくはどっちかっていうと右脳寄りだし、右脳派を応援したい気は

あるよ。でもさ、じゃあ、右脳が大事だって人ばかりでいろいろやり出すと、

やっぱり左脳派の人で回っていた時期より悪い状態になって、

もとの状態に逆戻りってなるんじゃないかな?」と言いました。


「確かに、右脳的な能力が大事にされる時代が来るって話はうれしいけど、

右脳を得意とする人のダメな部分や弱点って見過ごせないところがあるものね~。

自分自身がダメダメだしね……」私もため息。


すると息子がひらめいたようにこう言いました。

「教育の場って、左脳的な訓練ばかりに偏っているけど、

まず最初に右脳で理解できる枠組みがあってさ、つまり知識がなくても地頭だけで

考えていけば解けるような学習があって、その中に左脳的な知識や訓練が

組み込まれているようなものもあっていいと思うんだ。仕事の現場に近い学習だよね。


それと、お母さんが工作させながらやっている教え方もそうだよね。

お母さんは、よく知らない人から見ると、右脳右脳した教育やってるなって

見えるかもしれないけど、物作りの中に左脳的って言われるものを細かく含めているよね。

あ~それにしても、中途半端な言葉だな、右脳的とか左脳的とか……」

そう言って、ちょっと考え込んでいたかと思うと、さらにひらめいたように、

「そうだ!ここでも新しい言葉こそ大事なんだ。右脳的とか左脳的とか言う言葉は、

あまりに誤解を生みやすしし、正確じゃない。

簡単じゃないけど、今の時代がこの言葉に求めている概念に合った新しい言葉が

必要だと思うよ」と続けました。


そう言えば、ずいぶん前にも息子は「新しい言葉が必要!」と言ってました。

たかが言葉……されど言葉……なんでしょうね。

言葉のせいで不毛な議論が続いて、変革や改革ができないってこともよくありますから。


↓(以前、新しい言葉の必要性について議論した記事です。)

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「私が子どもたちに接していると、どの子もいきいきと学んでいるのに、

他の人が教えるとイヤイヤするってことが多いんだけど、

その原因の大方がその日本人の概念とか言葉の問題に由来している気がするのよね」

と話し出した私。

「まず、人の欠点や問題点、できないところを指摘する言葉や、

今の問題を先の不安に結びつける言葉は、家庭教育であれ、学校教育であれ、

ごろごろしている状態……。

子どもがいれば、たちまち、そうした負の言葉はいくらでも湧いてくる感があるのよね。

でも、子どもを褒めて育てるとやたら言いながら、長所に着目する、

良い部分を引き出す、得意分野を引き立てるような言葉も概念も

ほとんどないとも言えるの……。

私は、いつも子どもたちの良い部分に着目して、それを具体的に表現する方法を

模索しているんだけど、ほとんどの教育に関わる人が、自分のこうであって欲しい形に

ピッタリ合ってれば、がんばったな、よくできたね、すごいな程度の言葉で、

子どもを褒めていると錯覚しているように見えるのよ。

子どもを思うように誘導するために、掛け声感覚で褒めているようにも見える。

それじゃ、褒めるという行為そのものが、貧相なのよね」


息子もそれを面白そうに聞いていて、こんな返事が返ってきました。


「今の日本語の表現にない言葉や概念を、

今もこれからも新しく生み出していく必要があるよね。

最近、現代文の評論で、そういう必要性を訴えているものを読んだところだよ。

日本は、思想にしても哲学にしても、今、主流になっているものを、

自分の文化の中で長い年月かけて育ててきたわけじゃないじゃん。

できあがったものを輸入して、わかった風に使っている、まだ幼児の状態だよね。

だから、一見、完成度が高いように見えるこの文化にあっても、

既成概念を無限ループさせていくだけじゃいけないってことだよね。

足りなさを自覚して、文化を育てていく、成長させていく意識がいるんだよね。

特に日頃、感じているのが、無駄って言葉の使い方なんだ。

学校でも会社でも、きまりきった形が重要になりすぎたせいだと思うけど、

無駄が大事、無駄も大事って言葉をよく目にするようなったんだけど……

そこで、ゆとりって言葉も大事になったり、悪者扱いされたりしてるんだろうけどさ、

無駄が大事だから、必要のない無駄なものを増やそうって発想よりも、

無駄じゃないこれは有意義なものだ、価値あるものだと信じているもの自体が、

もしかして無駄なものかもしれないという発想を転換した見方がいると思うんだよ。
教育現場では、固定概念がありすぎて、そうした見方をせずに、

実際、無駄なものを増やして、結局、無駄はやっぱり無駄だったという結果に

終わるんだよね。

そうしたことを表現するのは日本語では難しそうだけど。

英語を勉強してて思うんだけど、外国語を学ぶって、結局は外国の言葉と概念を

取り入れることに意味があるんだなって。

だからいずれドイツ語を学んで、ドイツの哲学者の文章とかも原文で読んでみたいと

思ってるんだ。もちろん、今、手にしている翻訳本には、これ以上にないって

名訳がついてるのだろうから、もしぼくが原文で読めるようになっても、

肌で言語を感じる程度しかできないんだろうけどさ。


話が脱線したけど、お母さんが、他の人が目で見て価値を判定しにくい事柄で、

無駄と捉えられているものに、無駄ではなく重要性を感じていて、

それを使って子どもたちの学習を楽しいものにしているとして、

お母さんが感覚で捉えている無駄は、無駄という言葉以外のもっと新しい言葉や

概念が必要なんじゃない?」

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息子と議論することで、

普段、教室をする中でもやもやくすぶっている問題に答えを得ている私。

息子の方も、会話をするうちに、飛躍的な解決法に行き着くそうです。

だからこそ、ネット上でのさまざまな人たちと交わす会話も、

創造的で生産的な何かを生み出してくれるものになればいいのに……

と感じるんでしょうね。

会話と言えば、娘や息子が幼い頃から、

交わした会話をちょこちょこ記録しているのですが、今見ても面白いです。

写真だけでなく、言葉や会話で子どもの今の姿を残しておくのも楽しいですよ。


知的ハンディーキャップのある子に算数を教える時に

2016-07-01 16:39:28 | 算数

写真は、知的なハンディーキャップを持っている子との学習風景です。

(おもちゃの)1000円になるように、100円玉を置いていく練習をしている

ところです。最終的に両替をします。

 

Aちゃんは100円が3枚並んでいると、「1,2,3円」と答えていたのですが、

繰り返し課題に挑戦するうちにしっかりできるようになってきました。

50円が2枚で100円、50円が4枚で200円と答えることもできました。

(お金やチップを置いていく時は5までで次の列に並べるようにしています)

 

具体的な物を使ってこうした課題をした後で、

今度は、

100を丸で囲ったものを10個かいて、1000円にする課題をしたり、

100×□=1000

100+100+100+100+100+100+100+100+100+100=

といったペーパー上の問題にもチャレンジしています。

 

知的なハンディーキャップを持っている子たちは

ひとつの課題ができるようになるまで、途方もないくらいミスを繰り返します。

でも、何度間違っていても、「おしい!ちゃんと、○○のところまではできているよ」と

励ましながら練習していると、絶対出来るようにならないように見えたことも

たいていできるようになっています。

 

 


個性と才能を伸ばすタイミング つづき

2016-07-01 08:35:36 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

算数の学習では、

「じゃんけんをする」

「勝ったらマスに色を塗る」

「折り紙の16マスを塗り終えたら、それぞれの色の数を数えて勝ち負けを確かめる」

という3つの作業をきちんとこなすことが要求されている活動を

心から楽しんでいました。

こうした学習も、カリキュラムだから……とさせるのではなくて、

その子の敏感期によるタイミングと好みの個性に配慮した上で誘うのがいいと思います。

 

図鑑の話に戻りますね。

★くんは自分の頭のなかのイメージだけで繰り返し同じことがしたいタイプです。

ですから、まずは自分でしたい活動を存分にやって、

ちょっと手持ちぶたさしたあたりで、それまでしていた活動に広がりや意味を持たせてくれる

ような図鑑を見せてあげるといいのかもしれません。

 

★くんといっしょに見たのは

『はっけんずかん のりもの』と『大図解 21世紀こども百科』でした。

『はっけんずかん のりもの』は乗り物の内部の様子を、ポップアップ絵本のように

めくることで見ることができます。

 

工作で乗り物内部を作りたがる子に適しています。

★くんは駅の様子を作りたがっていたので、図鑑の駅の絵を、

「作ったら面白そうなものはないかな?」「いいアイデアはないかな?」

と言いながら、眺めました。

 

★くんは階段の絵を見つけて、最初、自分の作っている駅は階段はつけられない

と言っていました。

確かに、写真の状態の時には1階だけの平面しか

イメージできないですね。

でも、そこで、テーブルを利用することを提案すると、たちまち、★くんの想像の世界は

上にも下にも広がりだしたようです。

作っている駅を地下鉄ということにして、テーブルの上に切符売り場や改札口があって

地下に向けて階段が続いている様子がどんどん浮かんできたようなのです。

地下からさらに見えない地面の下に向けての階段も

作っていました。

 

わたしは、さらに新しく取り入れるアイデアはないか

図鑑の絵を眺めてみるようにうながしました。

吊ってある丸い時計があります。

「時計があるね。作れないかな?」とたずねると、

★くんは、「無理!無理!作れないよ」と興味なさそうに駅の屋根の続きを

作りはじめていたのですが、

「でも、ほら、テーブルのところから吊り下げたらどう?」とさらに言うと、

「そうだ、セロテープで吊ったらいい!」とすっかり乗り気になって、

いっしょに時計作りをすることになりました。

 

紙コップの底をはさみで切り取って、針や数字を書いて、駅の時計に。

★くん、すっかりこの作業に夢中になって、帰宅する時間が来ても、

「もう1個!もう1個!」とコップの底を切り抜いて、好きな絵柄を描いて

遊んでいました。

この作業は、最初に力を入れて紙コップに切り込みを入れなくてはならないのですが、

その力加減が大人でもむずかしいのです。

 

ちょっとはちゃめちゃな遊び方をする動きがダイナミックな子たちは、

こうした作業をすることに躊躇しないのですが、★くんのように

几帳面で完璧主義の子にはハードルが高いものです。

 

でも、子どもって、そんな風に自分にとって限界すれすれにあるような作業を

「えいっ」とばかりにやってみて、うまくできた時、

「もっと!もっと!」としつこいほど夢中になることがあるのです。

 

★くんにとって大事なタイミングですから、「紙コップがもったいない」などと思わず、

本人がやりたがるだけ切らせてあげることにしました。

 

★くん、自分の頭で考えて、自分の力で作りながら、

適度に他人のアドバイスを受け入れたり、

図鑑などから新しいアイデアを取り入れていくことができはじめているようです。