夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

産經新聞のコラム「産経抄」に疑問がある

2012年07月05日 | 言葉
 7月4日のコラムである。縄文文化の凄さを語っている。遊動生活から定住生活へ移行した事、つまりは「ムラ」を形成した事が文化を充実させた、との考え方である。食糧を求めて動き回る生活では、体の弱った老人は付いて行けない。しかしムラに定住すれば天寿を全う出来る。そこで老人の知恵や情報が子孫に伝わる。ムラが図書館や文化センターの役割を担って、世界でもまれに見る進んだ文化になった、と言うのである。

 これは大いに納得が行く。しかしここからの展開が私には納得が行かない。
 「ムラ」を「閉鎖的」とのマイナスイメージだけで捉えた用語が使われていると言う。それが「原子力ムラ」であると言う。以下に引用する。

 福島での原発事故以来、反原発をとなえる人たちが電力会社や行政、大学の原発推進者を非難するときの言葉である。情報を独占し、自らの利益だけを求めるそのムラ的閉鎖性が事故を招いた。そう言いたいようだ。

 「そう言いたいようだ」ではない。我々はみんなそう思っている。思っていないのは、それこそ原子力ムラの連中と、それを自分の利益に利用しているやから達だけである。「そう言いたいようだ」の言葉だけでもムカッと来る。そしてまだ続く。

 だがもし原発推進者に閉鎖的な面があったとしても、日本のムラは決して閉鎖的ではなかった。ムラの外の自然と巧みに共生をはかってきた。どこかピントはずれのレッテルに思える。しかもこうしたレッテルをはることで、今後のエネルギー行政から「原子力ムラ」の人材を締め出すことは、安全面でも必要な原発技術の放棄につながる。ムラをつくることで文化を引き継いできた日本の歴史に対しても失礼だ。

 以上で、このコラムは終わる。
 これは非常に危険で悪質な考え方であると私は思う。
 「ムラは決して閉鎖的ではなかった」は単に「ムラの外の自然と巧みに共生をはかってきた」だけがその根拠になっている。「ムラの外の人間界との共生をはかってきた」とは言わないのである。ムラの外の人間界との共生をはかって来なかったからこそ、我々は、それを「ムラ」と言っているのである。「どこかピントはずれ」と言うが、ピントがはずれているのは、コラムである。

 そして次が最悪である。
 「こうしたレッテルをはることで、今後のエネルギー行政から原子力ムラの人材を締め出す」と言う。原子力ムラが国民に開かれた存在になった、と断言出来るのか。相変わらず原子力ムラそのものではないのか。そうした勢力が、安全面の検証もきちんと済ませずに大飯原発再開を決めたのではないのか。
 「原子力ムラの人材を締め出す」事が、原発技術の安全面の放棄につながる、と言うに至っては、空いた口がふさがらない。原子力ムラが開かれた、真に国民の幸福のための存在なら、我々は「原子力ムラ」などのレッテルを貼ったりはしないのだ。
 「ムラをつくることで文化を引き継いできた日本の歴史に対しても失礼だ」などと、どこを押せばこんな無責任な言葉が出て来るのか。

 「ムラ」は誰もが思っている閉鎖的な存在を象徴する言葉である。閉鎖的でなければ、我々は何も「ムラ」などとは呼ばない。そして日本の文化を引き継いで来たのは「村」であって、決して「ムラ」ではないのである。
 多分、単なる勘違いなどではなく、意識して勘違いを装っているに違いない。