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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

原発の事故は大震災の被災の一つだったはずなのだが

2011年05月29日 | 社会問題
 被害の大きさは原発と各地の津波による被害とでは格段の違いがあるはずだ。しかし最近はすっかり原発の被害だけが騒がれている感じがする。
 つまり、津波の被害は天災だが、原発の被害は人災だからだろう。更には、津波の被害はあれで終わっているが、原発の被害はこれからもとどまる所を知らないからだろう。
 いったん暴れ出してしまった原発はどうにも止めようがないようだ。それなのに、金儲けのために安全神話を振りまいて庶民を騙して来た。我々だって便利な生活のためにその騙しに乗ってしまった責任はある。でもそれは安っぽい詐欺に引っ掛かった訳ではない。国を挙げての騙しだったのだ。もちろん、国も大企業もそれが騙しだったとは思ってもいなかっただろう。単にあるべき知識が欠けていたに過ぎない。
 しかし「あるべき知識」なのである。国を引っ張って行こうととの気概があるからこそ、原発を推進したはずである。それが難しい事である事くらい知っているはずである。それなのに「あるべき知識」を何ら持たずに驀進して来た。それは単に馬鹿と言うしか無い。いや、馬鹿では言葉が足りない。
 様々な言い訳を二転三転している連中を一体何と呼んだら良いのだろうか。
 鉄面皮、厚顔無恥、売国奴。そうした罵詈雑言をいくら重ねても足りない。
 十数万人にも及ぶ人々が生活の基盤を失って困窮の極みに立っている。しょせんは、他人事なんだよね。

万葉集の歌の解釈のし直しをしています

2011年05月27日 | 文化
 20年ほど前に万葉集は朝鮮語で詠まれていると言って、奇想天外な内容の歌を披露した韓国の女性が居た。タイトルは「もう一つの万葉集」。何しろ誰もが読めない有名な難訓歌を朝鮮語で読み解いたのだから、その本の白眉でもあり、本の帯にもそう書かれている。けれどもこれはとても上手い仕掛けになっている。と言うのは、難訓歌は日本語ではどうやっても読めないのだから、それを朝鮮語で読み解いても不思議ではない。そうしてその解読を納得させて、ほかのすべての歌も朝鮮語だと言う事に読者を納得させてしまったのである。
 そうした解釈の仕方が全く筋の通らない事であるのは著名な学者も証明している。ただ、私は自分自身の手でそれをやりたかった。そこから万葉集に取り組んで、その魅力に取り付かれてしまった。別に私は万葉集の研究者でないし、研究者でさえない。単に日本語が大好きな素人に過ぎない。ただ、私のブログを御覧になっていれば分かるだろうが、性格がしつこい。その持ち前のしつこさで取り組んでいる。

 今回私がしているのは、文字の読み方に不審がある歌、歌の意味が今一つ分からないのにも拘らず、専門の解説書はそれで何とも思っていない不思議な歌を対象に、自分なりに辞典を総動員して調べ直す事である。その結果、従来の解釈とはまるで違う意外な意味が現れた。そして例の難訓歌も私なりに解読が出来た。それは例の韓国人のやった、天皇の宮に拝謁に来い、でもないし、裏の意味である男性のシンボルが立ったから何度も行き来しようなどと言うエロ小説まがいの歌でもない。あるいは日本人が読み解いた、皇極天皇の弟の孝徳天皇が亡くなって、私、額田王の背子である斉明天皇が即位した、と言う単なる史実を詠んだ歌でもない。後者は特に女性の斉明天皇に対して額田王が「わが背子」と呼び掛けている日本語では考えられない無法が平気でまかり通っている。
 私の解釈は意外ではあっても、決して奇想天外ではない。きちんと言葉の意味を調べ、言葉と言葉の繋がりも考えて、出した結論にも矛盾や齟齬が無い事を確かめた結果である。

 そうして出来上がった一つの成果を原稿にして、ある出版社に一部を読んでもらった。自信作だったのだが、ものの見事に否定されてしまった。第一に文章が長くて趣旨が掴みにくい。第二に想像だけで物を言っても説得力は無い。万葉研究には多くの著作がある。関心を持つ人の理解は深いのだ。つまり、よく訳の分からない単なる想像が書かれていると判断されてしまった。
 そこで反省して書き直しを始めた。そうしたら前には気付かなかった考えの浅さや追究のし足りなかった所が出て来た。それはしっかりと追究をし直した。しつこいから、一度書き上げても更に読み直しているから、またまた考えの足りない部分が出て来る。同じ所を毎日やっていても、その度にまた新しい発見がある。
 実はそれは当然なのだ。考え方が深くなって来ているから、ある所で述べた事と、別の所で述べた事とが関連が深い事が見抜けるようになっているのである。そうなると、大幅な書き直しにもなる。文章が長くて趣旨が掴めないと言われたのは、思考の過程が長い事を指している事も分かった。そうした事も直した。

 多くの人々によって万葉集の歌の研究がなされているのは知っている。私の出した意外な歌の内容ももしかしたら既にやっている人が居て、後塵を拝する事になっているかも知れない。けれども、考え方のほとんどが同じだと言う事はあり得ないだろう。とにかく、私はしつこいのである。しつこいからこそ出来る考え方に私は自信がある。
 万葉集の解説書はもちろんの事、歴史に関する解説書なども克明に読むと、執筆者がいい加減に考えている場面に何度も出くわす。何でこんないい加減な事で済ませるのか、と疑問に思うが、学者と言う権威には素人はかなわない。冤罪事件ではないが、まるででっち上げのような結論に我々は説得させられてしまっている。
 みなさん、本当に権威には弱いのである。けれども、今回の福島の原発事故で、「権威者」達の素性がものの見事に我々に分かってしまった。もう何を言っても誰も信用などしない。卑怯にも自分だけの保身を図った事がすべて裏目に出ている。
 私の万葉の歌の解釈のし直しにはいい加減な事も曖昧な事も無いけれど、更にふんどしを締め直して、最後の仕上げに取りかかるとしましょう。結果を本としてみなさんに御覧頂ける日が来る事を夢ではないようにと切に願っております。

動物の赤ちゃんはなぜ可愛いのか

2011年05月24日 | 文化
 今、動物園は赤ちゃんラッシュらしい。自然界に餌が豊富になる季節だからだ。そしてなぜ動物の赤ちゃんは可愛らしいのか、と今朝のテレビが取り上げていた。
 その結果は、目が大きくて顔の下から3分の2の所にあり、鼻と口が小さいのだと言う。赤ちゃんはまだ食べたり、活動したりがそんなに活発ではないから、口や鼻が小さくても大丈夫なのだと言う。確かにそうなっている。でもこれは考え方が逆なのではないのか。
 動物の赤ちゃんが可愛いのは生まれてすぐに動きだし、その動作がまことにあどけない。体も小さい。そうしたすべてが可愛らしいと感じる。これはもう理屈抜きである。その赤ちゃんの顔を分析してみたら、上記のような結果になっていた、と言うような話なのではないだろうか。確かにそれは可愛らしさの要素ではあるが、それ以前に赤ちゃんの本来の可愛らしさがあるはずなのだ。そこから分析のような事が可愛らしさの理由だと言う事にもなる、といった話なのではないか。
 だから、大人の動物で顔の造作を赤ちゃん風にしてみれば分かると思う。それで果たして可愛いと感じる事が出来るだろうか。

 何だか鶏が先か卵が先かみたいな話になっているが、これは重要な事だと思う。それが先に挙げた「考え方が逆なのではないか」である。
 逆の発想をそうとは思わずにしている事が意外にも多々ある。結果が先行していて、その結果だけを見ると駄目な事でもすべてが良しとなってしまう。そしてその結果はたまたまなのであって、良しとされた条件が機能しているのではなかったりする。それが政治的な事や経済的な事でやられてしまうと、我々には大きなダメージとなるような事がある。
 赤ちゃんの可愛らしさは具体的に追究出来るから、やってみる価値はあると思う。


鉄道の間引きダイヤに疑問がある

2011年05月21日 | 社会問題
 私は毎日都営地下鉄の二つの路線を利用している。乗るのは夕方から夜の時間帯である。一つの路線はその時間帯でダイヤの間引きはしていない。以前はしていたが、今は元に戻っている。けれどももう一つの路線は例えば1時間に3本の運行を止めている。だから、止められた前後は他のダイヤの倍の間隔になってしまう。その結果、通常よりも長時間待たされた挙げ句、非常に込んだ電車に乗らなければならなくなる。
 なぜ安易な間引きをするのか、が私の疑問であり、不満である。

 鉄道ダイヤを作る人は筋屋と呼ばれているそうだ。その筋を引くのは他の路線との乗り入れや接続を考えればそんなに易しい事ではないだろう。けれどもそれほど難しい事とも思えない。だから間引きダイヤを作るなら、新たに全体を作り直すのが筋屋としての筋だろう。
 それならダイヤは均等になり、一部の人間だけが不便さを強いられる事にはならない。私は常に決まった時刻の電車に乗っていて、その不便なダイヤにぶつかっている。誰だって、通勤に使う時間を少しでも少なくしたいはずである。乗っている時間がたったの7分なのに、10分も待たされたのではたまらない。
 もちろん、自分でももっと余裕を持てば良いじゃないか、とは思っている。それくらいの余裕は持てる。しかし、手を抜いて、ある時刻の列車だけを間引くと言うのはまた別の問題である。

東京新聞の特集「原発事故最初の一週間」が素晴らしい

2011年05月20日 | 社会問題
 5月11日から始まった東京新聞の第一面トップの特集である。一日を何回にも分けて、原発の情況と、それに対する東電や監視委員、政府の対応を明らかにしている。だから、どこで誰がどのような騙しの発言をしたのかが明確になる。これは非常に有用な記事である。ずっと騙され続けて来たのだ、と言う事は最近になって分かったが、その時々にどのように騙されていたのかは、当時の新聞をきちんと保存してでもいない限りは分からない。更にはそれをきちんと付き合わせて検証しない限りは分からない。だから当然の事に、うやむやになってしまう。
 今日20日は3月15日午前6時14分から17日午前10時22分までで、そこに日本の無力さと言うか無責任な実体が浮き彫りになる事が書かれている。

 4号機の屋根や壁が壊れていたが、原子力安全委員長達は4号機は眼中になかった。しかし4号機の使用済み核燃料プールには1~4号機全体の半分の燃料棒の束があったのである。使用済みとの名前ではあるが、その内の3分の1は使用途中で熱を出し続けていた。プールの温度は普段は30度以下だが、14日午前4時には84度に上がっていた。しかし経済産業省原子力安全・保安院や東電は放置していた。
 アメリカは16日の段階で、米原子力規制委員長は4号機のプールで大部分の水が無いととらえていたと言う。アメリカは独自に情報を入手して解析し、プールが冷やせなくなって、5日目の16日には燃料棒がむき出しになると予測していた。既に温度は2000度を越え、燃料棒が溶け出すおそれがあるとして「何もしなければ米国は日本政府を信頼しない、とメッセージを出す」と通告して来たと言う。

 アメリカが独自に情報を入手して、正確に情況を判断出来ているのに、日本は無為無策だったのはなぜなのか。そしてやった事はと言えば、放射能で危険な上空からのヘリによる海水投下を、菅総理が強行にやらせた事だった。記事は次のように書いている。

 プールを冷やす効果は知れている。だが派手な投下シーンはテレビ中継され、懸命の活動をアピールした。

 今更テレビに文句を付けても始まらないが、効果のほとんど無い事を派手に報道するのは国民を騙す事になる。原発ムラからの発表が騙しだった事が発覚して、マスメディアへの非難が高まった。それに対して、フジテレビのあるワイドショーの司会者が、自分達は情報を信じて番組をやって来たのだから、と困惑の表情で語っていたが、何を馬鹿な事を言っているのか。その情報が真実かどうかを確認して報道するのがあんたらの役目じゃないか。

30億円もかけて開発した原発用ロボットを廃止しただと?

2011年05月17日 | 政治問題
 それぞれに作業を特定化した複数台の原発用ロボットが10年以上も前に開発されていたと言う。しかしその後の予算が付かなかったため、保守が出来なくて、すべて廃棄されてしまったそうだ。その後の予算が付かなかったと言うのがそもそもはおかしい。当時の予算に関する関係者をすべて洗い出して責任を追及すべきである。
 結局はこれもカネ儲けの手段だったのか。開発でふんだんにカネを使うのが目的だったとしか思えない。こうやって次から次へ無駄な物を作り、無駄にカネを使っている。もちろん、ロボットは無駄なんかではないが、それを無駄にしてしまう仕組みが出来上がってしまっている。

 我々庶民は毎日せっせと働いて地道に暮らしている。それなのに、どこかでは膨大な無駄金が使われている。連日の様々な報道で、今、日本では政府を始めとして、重要なポストに就いている人間がほとんど無能で役立たずで、むしろ悪質な被害を我々に与えている事が明確になって来ている。
 その典型的な例が、原子力ナントカカントカ委員である。震災発生当時から彼等は最悪の事態を知っていたか、想像出来ていた。しかし二ヶ月以上もの間、安全を主張し続け、収束を約束し続けて来た。完全に我々を騙していた訳だ。多分、騙し通せると甘く見ていたに違いない。頭の悪さと共に根性の悪さがはっきりと分かる。
 菅総理にしても、最悪の事態が露顕してしまっているのにも拘らず、相も変わらず当初の能天気な工程表に固執している。前にも書いたが、よその国では10年とか15年とかを見ていると言うのに。
 事態の収束がいったいいつ終わるのかはそれこそ五里霧中だが、ある程度の目処が付いたら、こうした関係者をすべて洗い出して、その発言内容も明確にして、その責任を追及すべきである。
 それにしても、そうした騙しに易々と乗せられて来た政府関係者の頭の悪さは相当なものだ。少なくとも、我々の代理としての責任者とはとうてい言えない。我々庶民には出来ない事が出来るからこそ、高給を与えられ、特権を与えられているのではないのか。

政府は東京電力の株主への配慮を口にしているが

2011年05月12日 | 政治問題
 東電は福島原発での莫大な賠償金で屋台骨が揺らいでいる。だから当然に株価は紙屑のように下落するだろう。そこで政府が株主の事を心配する。なぜなら、東電の株主には東京都もいるし、大手企業もいる。多分、国も株主なのだろう。
 株は重要な資金の調達手段ではあるが、株主は利益配当が目的で投資をしている。だから大幅な利益が約束されている企業に投資をする。それは常識だ。更に株価自体が値上がりするのが確実な企業に投資をする。これまた常識中の常識だ。
 そして投資は自己責任である事も、これまた常識中の常識だ。たとえ自然災害が原因であっても、経済界は甘くはない。それに今回の福島原発の事故は圧倒的多数の人々が人災だと考えている。もちろん、人災である証拠はあまたある。
 今回の事故が想定外の災害が原因だとしても、それなら、あのリーマンショックだって想定外の災害である。あの時、株価は何分の一かになってしまった。私だって数百万円もの損害を蒙った。しかしどこからも損害の補償は受けてなどいない。誰だって同じだ。これだって、常識である。

 東電の場合は経済界に大きな影響を与えるから、が理由なら、とんでもない事だ。経済界が成り立っているのは我々庶民がいるからこそである。そうではない、と言うのなら、経済界は日本を離れても世界のどこででも活動出来ると言う事になる。経済界の中心は大手企業だが、中小企業も経済界を担っている。
 我々庶民は常にいいカモにされているような気がしてならない。

浜岡原発の停止は安全対策が出来るまでだと言う

2011年05月10日 | 社会問題
 だから当然にすべての原発停止、にはならない。そして街の人々の意見も、停止すると地元は困るし、失業者も出る、との声が多い。産業界も困ると言う。少なくともテレビで見る限りにおいてはそうである。でもそれを言うなら、福島の事故で、住み慣れた土地を追われ、更には仕事も奪われてしまった人々はどうなるのか。福島でも産業に大きな打撃がある。原発ゆえにそうなっているのである。
 地震大国の日本で「想定外」はあり得ないと言うのが今や日本人の常識になっている。それなのに「想定外」に対処出来る安全な対策を考え出せて、実行出来ると考えている。
 なぜなら、あくまでも原発に頼りたいからだ。電力の供給はもとより、経済的にもそれで潤う。ここに根本的な考え方の間違いがある。すべて、今までの暮らしを根拠にして考えている。それでは駄目なのだ。一切を根本的に考え直す事から始めなければ、またぞろ原発事故の犠牲になる。原発に関しては絶対安全はあり得ないのだから、安全に生涯を送りたいと思うなら、安易な事だけを考えていては駄目なのだ。
 多分、そうした考え方の人々は、自分はそうした危険な立場には立たないだろう、と思っているに違いない。そうした立場に立つのは、少なくとも自分の生きている間ではない、と思っている。だから自分さえ良ければ良いのである。地元とか原発に関わる人々とか、産業界とかを考えている振りをしてはいるが、その実、それらにはあまり関心など無い。自分に直接的には関係が及びそうも無いと踏んでの発言だろう。
 そうではないとするなら、あまりにも皮相な考え方の持ち主だと言うしか無い。そんな人達の意見をテレビでなど流さないで欲しい。いい加減な関係者の声はもちろんの事、正義の振りをしていい加減な考えを振りまくのは、日本国民に対する犯罪行為である。

生肉食中毒事件で、何でみんな細かい事だけにこだわるのだろう

2011年05月08日 | 社会問題
 この事件ではみんながそれぞれに責任のなすり合いをしている。ある厚労省の役人は魚を丸ごと一尾買った場合に、生で食べようと何をしようとそれは消費者の勝手であって、肉の場合も同じだと言う。そんな馬鹿な、と思うが、蓮舫氏までもがそれに同調している(今日のテレビ出演で)。魚と肉とは大違いである。
 魚は魚市場で獲り立てを買う事が出来る。消費者はその鮮度が分かっている。だから器用な人ならそれを刺身にして食べられる。しかし普通に魚屋やスーパーで買った丸ごと一尾の魚を刺身にして食べられるなどと考える人は居ないはずだ。ただし、刺身にも出来る、と明確に表示してある場合は別である。
 牛を丸ごと一頭買う事など、特別の料理店や肉屋は除いて、現実問題として存在し得ない。
 何でみなさん、話をごっちゃにして平気なのだろう。
 東京で調べたらユッケの肉が加熱用だとは知らなかった人が100人中99人も居た。知っていた1人は調理関係の仕事の人だった。

 生食用の牛肉が流通していない事を肉の業界の人は誰もが知っている。なぜ流通していないのかも知っている。安全規準を満たすためにはコストが掛かるから、そんな事はしていられない。している業者も紹介されたが、そこでさえ加熱用として出荷している。
 安価な肉を提供するために生食用ではなく加熱用として出している。それを焼き肉業界は高価な生肉として提供していた。これは完全な詐欺行為ではないのか。まあ、価格はともかくとして、生食用の方が価値が高い事を誰もが知っているにも拘らず、生食用にはならないから、加熱用としているのである。
 何でみなさん、こんな簡単な事を考えないのだろうか。

波岡原発の全面停止は大英断だ

2011年05月07日 | 社会問題
 あの菅内閣が下した判断とはとても思えないくらいの大英断だ。ただし、地震、津波対策を強化するまでの間、との条件付きではある。それでも、安全だ安全だと言われ続けて来た事が安全ではなかった事が明確に証明された。我々は誰もが安全とは嘘だったと思っている。しかし原発に関わっている人々はあくまでも安全だと主張し続けた。
 今回の発表を受けて、原発の地元の首長の発言はとてもおかしい。浜岡の地元の御前崎市長は「地元の声を聞く前に、国が原発停止を要請するのは納得できない」と言っている。新聞は「突然の国の方針表明に憤りを隠せない様子で話した」と書いている。
 そして同市長はこうも言っている。
 「国は結論を出すのが早すぎる。日本列島は地震大国。浜岡だけではなく全国の原発も止めるべきだ」

 この考えはおかしい。地元の声を聞く必要があると言いながら、地震大国なのだから全国の原発を止めるべきだ、と言う。これは自分達だけが停止になるのはおかしい。全国一斉ならおかしくはない、と言っている。危険なのはどこだって同じである。それなのに何で地元の声を聞かなくてはならないのか。
 これはカネの問題なのだ。地元は原発で潤っている。と言うか、原発が無くては立ち行かない。でも原発の話が出る前はそれでやっていたのではないか。
 日本全国がそうなっている。昔の事は考えずに今現在の事だけを考えている。今の暮らしが虚栄に支えられているとは思わない。例えば、御前崎の人々は原発の無い昔から暮らして来た。原発が出来てそれで暮らしが良くなったので、その暮らしにこだわる。それは分かる。しかし昔の事を思えば、今の暮らしの実体が分かると思う。もちろん、そうした事に関係の無い私自身の暮らしにしても同じ事は言える。でも私は、今非常に辛い暮らしをしている事もあって、自分の暮らしを見直す事に何の躊躇も感じない。

 結局、日本全体が虚栄の暮らしに浸り切っている。御前崎市長が地元の声を聞かずに」と怒っているが、それなら被災地となった人々の声は誰がどのように聞いていると言うのか。私も東京人として、被災者ではないから、大変だなあとは思うが被災者の身になっている訳ではない。
 被災者の身になれない者としては、原発のような現実に起きている災害を防ぐ事を考えるのが務めではないのか。安全は神話だった、と誰もが思っている。今なお安全だと主張しているのは原発を推進して来た人々だけである。原発によって潤って来た人々だけである。