夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

ブログをやるなら、発信は義務だと思うのだが

2012年07月30日 | 趣味
 だが、それが私は出来ていない。この熱さでダウンしてしまった。寝込んでしまった訳ではないが、ぐったりして何も出来ない。
 朝から昼過ぎまで、子供達の登下校の安全誘導をしている。正味5時間。夏休みだが、水泳指導と学習指導がある。それぞれ1時間ずつのタイムスケジュールだから、登下校も1時間ごとなのだが、登校の時間帯の幅と下校の時間帯の幅が大きいので、ほとんど出っぱなしになる。
 日陰がある所ばかりではないし、腰掛ける所がある訳でもない。立っているだけで汗がたらたら流れるほどだから、いくら水分補給をしたり、塩飴を舐めたりしていても、体力の消耗は激しい。

 1時過ぎに帰宅して、ついつい横になってしまう。やっぱり歳かなあ、とも思う。去年はこんなじゃなかったのに、とも思う。そして夜はまた別の労働が待っている。冷房の効いた室内での作業だが、やはり、全身汗びっしょり。それが3時間。
 学校の仕事は毎日ではないが、仕事がない時は、パソコンに向かって原稿を書く。
 ある賞の作品募集があって、それに応募してみようと考えたのである。それ以外にも、ある原稿のまとめの最終段階に入っているので、いくら時間があっても足りない。

 作品の応募は、駄目で元々と考えている。出来上がっている物を募集の条項に合うように書き直している。規定の枚数に届くかどうか、まだ分からない不安もあるが、何事もやってみなくては。そして、受賞は見込めなくても、何人かの審査員に読んでもらえるチャンスがある。一瞥して、はねられるかも知れないが、少しばかりは自信もある。
 原稿募集の出版社への応募では、ほとんどがすぐに自費出版のお勧め、になる。幅広く意欲作を求めていると言いながら、そのジャンルは出した事が無いので、自信が無いので、制作費を一部とは言え、負担してくれ、と言う事になる。

 さあ、今日も気持を切り替えて、頑張ろう。

我が家の犬がビールが嫌いな訳が分かった

2012年07月22日 | ペット
 またまた犬の話で失礼します。我が家の犬は大の酒好きだが、ビールは大嫌いだと書いた。そしてきのう、私は夕食時にビールを飲んで、えっ? こんなにまずかったか、と大いに驚いた。ビールと言っても、私の飲んでいるのは主に第三のビールである。

 きのうは、一日中パソコンに向かっていて、買い物にも出なかった。だから汗もかいていないから、ビールが旨くないのだ。考えてみれば、私は平日は毎晩汗びっしょりになる労働をしていて、だから、帰ってからのビールがものすごく旨い。
 つまり、ビールはアルコール飲料ではなく、アルコールは入ってはいるが、私にしてみたら清涼飲料と同じなのだ。それでも、サイダーでは満足出来ないのは、わずかのアルコールに騙されているのか。あるいは、ビールじゃなきゃ駄目だ、と自己暗示に掛かっているのか。

 それで、犬がビールが嫌いな訳が分かった。汗をかかない犬がビールを旨いと思うはずが無い。もっとも、これは日本のビールあるいは第三のビールの話であって、ドイツのビールなら、どうなのかは分からない。

愛犬は大の酒好きだが、ビールは駄目

2012年07月21日 | ペット
 愛犬が酒が好きだと気付いたのは、まだ1歳にもならない頃だった。夜、私は赤ワインを飲んでテレビを見ていた。少し疲れたので、横になってテレビを見ようと、ワイングラスを持って、床に移動した。
 テレビに夢中になっていたら、ピチャピチャ音がする。何だろうと振り返って見たら、何と、犬がグラスのワインを舐めているではないか。それも赤ワインである。私は白ワインも好きだが、渋みのあるフルボディの赤ワインが特に好きだ。この夜も、フルボディではないが、それに近い赤ワインを飲んでいた。そのワインを舐めているのである。

 そうか酒が好きなのか。で、次には日本酒を与えてみた。盃に注いだ酒は舐めないが、指に酒を付けて舐めさせると、ペロペロと舐める。指を取り替えて、「はい、駆け付け三杯だよ」と言って、指三本までは舐めさせる。家内もそれをやるから、合計「六本」になる。
 一升瓶から注いだ時は、瓶を床に置くとすぐにやって来て、瓶の口をペロペロと舐め回す。そして酒の善し悪しが分かるらしい。上質の、私が特に好きな酒では、その舐め具合が真剣になる。

 焼酎も、甲類、乙類を問わず、またウイスキーもバーボンも、飲んだ私の口を舐めに来る。甲類焼酎は別として、私は割ったりはしないから、アルコールもその香りも十分に犬の好みに合うらしい。

 それなのに、ビールだけは絶対に駄目なのである。グラスを向けるとそっぽを向く。私もビールはアルコール飲料とは思っていない。しっかりと汗をかいた後に飲むから旨いのだ、と思っている。だから第三のビールで結構。最近はホッピーを愛飲している。アルコール度数がその時の情況に応じて好みに変えられる所が特に気に入っている。
 でも、その後にはちゃんとした「酒」も飲むから、今の所、犬に嫌われてはいない。

料理番組の腕輪じゃらじゃらは頂けない

2012年07月18日 | 暮らし
 今朝、ついている番組を見るともなしに見ていた。名の知れた女優が創作料理を披露している。以前は、確かニラか何かをバラ肉で巻いて焼いた料理だったが、今回のは刻んだショウガをバラ肉で巻いて焼く。
 やってみようかな、とは思ったが、その前に、彼女の左腕の腕輪が私は気になってしまった。アーム何とかと洒落た言い方をするのだろうが、腕輪を三重に巻いている。その内の一つからは、短いが紐が垂れている。料理をするのに邪魔ではないか、と思う以上に、視聴者の「目に邪魔」である。腕時計をはめたまま料理をする人は多分、居ない。

 美しい、美しくないの問題ではなく、もちろん、趣味の問題でもない。料理と言う仕事の上での問題である。あまり気にした事が無かったのだが、包丁を握る料理人は結婚指輪をはめている人が多いだろうか。
 昔、愛読していた『暮しの手帖』では、写真のための手のモデル女性が居た。少しでも健康で美しい手を見せるために、彼女は夏でも手袋を外さなかったと言っていた。もちろん、けがなどしたら命取りになる。それほどまでに、読者の目に映る手の写真に気を配っていた。

 もう一つ。スポーツ選手が国外へも持参する優秀なマットレスを紹介していた。釣り糸と同じ材料で作るマットレスである。そのマットレスに番組の司会者を始め、ゲスト達が寝て感想を述べた。ところが、当然のように、全員、土足でマットレスの上に寝ている。どんなにスタジオの床がきれいでも、土足は土足である。室内では裸足になるのが当たり前の我々にとって、マットレスの上での土足は本当に頂けない、と言うよりも生理的に嫌悪を感じる。
 わずかな手間を惜しまずに、ちゃんと靴を脱いで上がりなさい、と言いたい。その方が見た目にもずっと美しいし、絶対に礼儀にかなっている。視聴者の目の前に、土足を突き付けるな、とも言いたい。
 こうした事はすべて番組のディレクターの感覚の問題だと思う。テレビは特別の世界などではありません。我々日常の生活空間と何ら変わりはありません。一体、こうしたディレクター達は、普段、どのようなお暮らしをなさっていらっしゃるのだろうか。

パソコンの進化が速いのか、私の進歩が遅過ぎるのか

2012年07月16日 | 文化
 10年ほど前に買ったMacのG4をOSX10.4で使っている。仕事にも趣味にも問題は無い。ただ、Macに添付の「ことえり」と言う日本語変換システムがとても使い難い。OSを10.6にしたら、もっと改良された「ことえり」が使えるらしいので、OSのバージョンアップを考えた。
 ところが、私のG4では10.5までしか使えない事が分かった。そしてフリーソフトなどは、ほとんどが10.6以上、となっているのである。

 パソコンなんて、ソフト次第でどうにでもなる面が多分にあると思うのだが、肝腎のOSがどうにもならないのでは、どうにもならない。パソコンがどんどん進化するのは良いけれど、そんなに進化する必要があるのか、とも思う。パソコンでやっている作業なんて、多くの人がたかが知れているだろう。
 私なんかは、文章を書くのがメインだから、何も最先端のパソコンなんかでなくても、十分に用が足りる。パソコンの進化よりも、キーボードの事をもっと考えてくれ、と言いたくなる。私のキーボードは、親指シフトキーボードで、ローマ字と同じキーに仮名文字全部が割り当てられているから、高速入力が出来る。思考を妨げる事がないので、すこぶる快適である。
 ところが、Macはそんな事はまるで考えていない。パソコンがどんなに処理が速くなっても、入力が遅ければ何にもならない。

 唯一、キーボードを考えているのが、親指シフトキーボードの産みの親である富士通で、けれども、それだって、簡単には親指シフトのパソコンは手に入らない。
 一番大事な事が抜けているよ、と私は言いたい。

 自分のパソコンが時代遅れになりつつあるのを知って、持っているソフトを見回してみた。あるある、使っていないソフトが山のようにある。中にはフロッピーディスクの物まである。CDROM付きでも、ほとんどが古いOS対応だから、まずは要らない。で、その処理をした。それらのソフトをつくづくと眺めて、時代の進化の速さを改めて感じてしまった。
 マニュアルや参考資料を含めて、45リットルのゴミ袋が一杯になってしまった。それだけの無駄な物を大切に保管していたと言う訳だ。
 そしてもう一つおまけがあった。

 「漢ぺき君」と言う漢字変換が簡単に出来るソフトがある。私の環境で使えるようにバージョンアップしてあるのだが、なぜか使えない。ずっと諦めていたのだが、改めてインストールをして、やはり使えないと分かったのだが、その時に今までずっと使いにくいと思っていた「ことえり」を一部いじったら、何と、ずっと使い易くなったのである。Macに付いている仕様書ではそうした説明が無い。
 こうやって、色々と試していると、私のMacもまだまだ現役バリバリで使えそうだ。そうなると、ウインドウズの2台ともう一台のMacの出番は無さそうである。すべてデスクトップだから、その分、部屋が広く使えるだろうが、まあ、処分はもう少し様子を見てからにしよう。

ちょっとした事で、報道の真剣さが分かってしまう

2012年07月13日 | 文化
 詰まらない事だが、報道の真剣さを考えてしまう事柄がある。
 一つは、テレビでの新聞記事の引用の赤のアンダーラインの引き方で。たまたま今朝のフジテレビの「特ダネ」だが、「。」で区切られた二つの文章にアンダーラインが引かれている。その内の途中「。」の所だけ、アンダーラインが引かれていない。「、」の部分には引かれている。そして引用の最後の「。」は引かれている。
 つまり、アンダーラインを引いた人は、途中の「。」には何の意味も認めていない、と言う訳だ。でも、「、」や「。」は文字や言葉と同等に、いや、それ以上に重要だろう。たった一つの「、」や「。」で文意が簡単に違ってしまう事が多々ある。そしてこの場合は、むしろ「、」は引かないで、「。」は引くべきなのではないのか。

 このアンダーラインで、きのうのやはり同じ番組だったと思うが、途中から始まったアンダーラインの冒頭の部分が、ボールペンによく見られる最初の出の具合が悪くて、ぼてっと、なってしまっていて、とても汚い。テレビで拡大されているから、余計に目立つ。もっと良質のボールペンを使いなさい、と言いたいし、線を引く前にきちんとインクの出具合を確かめなさい、と言いたい。
 それにしても、安易に番組が作れるんだなあ、と感心してしまう。新聞記事のそのままの引用なのだから。

 もう一つは今朝の東京新聞の「中国 したたか分断戦略」の見出しの中国と日本を含む東南アジアの地図の事である。
 問題のある国と中国とが太い矢印で結ばれている。そしてその矢印線の途中に爆弾の炸裂した形が示されていて、そこに(尖閣諸島)(スカボロー礁)(西沙・南沙諸島)と書かれている。( )内が領有権で対立している問題の箇所である。
 しかし、この矢印がおかしな所を指している。実際の場所を指しているのではなく、国名表示の所を指しているのである。だから、「日本」を指している場合には日本列島と「日本」の国名が一致しているから、爆弾マークは別として、分かる。けれども「フィリピン」の国名表示は、何と、台湾の所にある。細い線でフィリピンと結ばれてはいるが。そしてその「フィリピン」の国名表示のすぐ上に小さな●が付いていて、「尖閣諸島」とあるのだ。そして爆弾マークは(スカボロー礁)である。

 非情に分かりにくいと言うよりも、非情に馬鹿な地図なのである。もっと分かり易くするのはいとも簡単だ。
 例えば「日本」の国名は、九州と台湾の真ん中辺りに表示してそのすぐ下に●と(尖閣諸島)を示せば良い。フィリピンに対しても、同じようにする事が出来る。
 これなら太い矢印と爆弾マークと( )の場所と国名表示及びその場所が一致する。
 何でそんな簡単な事が考えられないのだろうか。パソコン上であれこれと試してみれば、一目瞭然ではないか。

 結局、アンダーラインにしても、この地図にしても、基本的な事が抜けている。こうした事を、私は「仏作って魂入れず」と言うのだと思っている。

ブログの引っ越しを考えています。
 ただ、現在のこのgooのブログは引っ越しが出来ないので、新たに始める事になります。なぜ引っ越しを考えているかと言うと、新規投稿が簡単には出来なくなりました。前はすぐに自分のブログにアクセス出来たのに、今は一回に見る事の出来るブログを最後まで送って、そこで始めてアクセスが出来ます。非能率的で困ります。そのほかにもずっと以前から不具合があるのです。まず、送信する前にどんな体裁になっているのかを見る事が出来なくなりました。続いて、コメントの管理が不便になりました。見たコメントをクローズする事が出来ないのです。

 考え中ですが、近々の内に結論を出すつもりです。本当はタイトルも変えたいのですが、「日本語ワールド」だけは残したいとも思っています。

「パンダの赤ちゃんがなくなった」はおかしな言い方だ

2012年07月11日 | 言葉
 上野動物園の赤ちゃんパンダが残念ながら死んだ。テレビのニュースで知って、えっ、と思った。あんなに大騒ぎをしたのに、あんなにみんなが期待していたのに。原因は肺炎だと言う。それなら、保育器の中で育てていた方が良かったんじゃないか、と言うのは素人考えだろう。人間でも動物でも、赤ちゃんは、ちゃんと母親の手で育てられる必要があるのだ。

 えっ、と思う事がもう一つある。テレビでは「なくなった」と言っている。字幕は「死んだ」である。
 「なくなる」は私は人間の場合に言うのだとばかり思っていた。「死ぬ」の丁寧な言い方だと思っている。そこで四冊の小型国語辞典を見た。
 面白い事に、説明がみんな違う。
 (岩波)は、岩波国語辞典。
 (明解)は、新明解国語辞典。
 (新選)は、新選国語辞典。
 (明鏡)は、明鏡国語辞典。

・【無くなる】それまであったものが無い状態になる。
 【亡くなる】「死ぬ」の婉曲な言い方。〔岩波〕

・【無くなる】無い状態になる。「財布がなくなる」「親がなくなる〔=『死ぬ』のえんきょく表現〕。
 後者の例は、「亡くなる」と書く。(明解)

・【無くなる】無いようになる。【亡くなる】「死ぬ」の丁寧語。(新選)

・【亡くなる】人が死ぬ意を、婉曲にいう語。死者に対して改まった気持ちが、聞き手に対して丁寧な気持ちがこもる。
 【無くなる】それまであったものが存在しなくなる。それまで存在していた物が見当たらなくなる。表記=かな書きも多い。(明鏡)

 (明解)は「無くなる」と「亡くなる」は、「無い状態になる」との点では同じだよ、と言っている。ただ、「死ぬ」の場合は、婉曲表現で、表記は「亡くなる」だ、と言う。同書の「婉曲」は「直接的(露骨)でなく、遠回しな様子、である。そうだろうか。
 (岩波)も「婉曲な言い方」だと言う。
 (新選)と(明鏡)は「丁寧」だと言う。私はこちらが正しいと思う。直接的かどうか、などではなく、丁寧かどうか、の違いだと思う。直接的と丁寧はまるで情況が違う。
 ただ、(明鏡)の説明が変だ。
 「死者に対して改まった気持ちが、聞き手に対して丁寧な気持ちがこもる」は文章として成立しない。「死者に対しての改まった気持ちが、聞き手に対して丁寧な気持ちがこもっていると伝わる」だろう。更には、「改まった気持ち」と「丁寧な気持ち」の二つに分けている、その理由が分からない。これは単純に、「死者に対しての改まった、丁寧な気持ち」で良いではないか。
 「無くなる」を仮名書きも多い、と言うのは(明鏡)だけである。これは単に現状を説明しているだけに過ぎない。ほかの辞書が「無くなる」としか表記していないのは、それが正当だからである。「無くなる」と「亡くなる」をきちんと識別するためばかりではなく、「無くなる」とする事で、「無い状態」を明確に表す事が出来るのである。

 パンダの赤ちゃんに戻る。字幕ではきちんと「死ぬ」とあるのに、話し言葉では「なくなる」になっているのは、「亡くなる」の意味が正確に理解出来ていないからだろう。上の国語辞典の説明でも、動物に対しては「なくなる」などとは言わない事が明確に分かるはずである。「亡くなる」が丁寧語であろうと、婉曲表現であろうと、動物に対して使う義理は無い。
 テレビで話している人々が国語辞典で勉強しているとは思えないから、多分、普段からそうした「亡くなる」との使い方をしているのだろう。それとも、テレビだから、普段の会話とは違うのだから、と身構えて「亡くなる」などと言ってしまうのか。どちらにしても、テレビで話す資格は無い、と私は思う。

宇宙エレベーターの夢、もっと身近にならないか

2012年07月09日 | 文化
 上空10万キロと地球を繋ぐ宇宙エレベーターの構想がある。月と地球の距離の約4分の1だそうだ。その遠さは素晴らしいが、時速250キロで約1週間掛かる。それで完成目標は2050年。もちろん、私は生きていないが、現在40代の人でもなかなか難しいだろう。
 目標とする10万キロではなく、その4分の1の2万5千キロだって凄いではないか。まあ、技術的にそれほどは変わらないのだろうが、1週間も掛からなくて済む。いや、2万5千キロでなくて、1万キロだっていいじゃないか。それでもエベレストよりも高いのだ。
 そうした施設が世界各地にある事で、人間はもっと高邁な考え方が出来るようになるのではないだろうか。

 折しも、ヒッグス粒子の存在がほぼ確実になった。宇宙の成り立ちの解明にも繋がると言う。
 それに比べて、人間の考えの何とちっぽけな事。尖閣諸島の周辺に海底資源が豊富にあると分かった途端、中国と台湾が領土権を主張し始めた。そして今回の日本政府の動きを牽制しようとしている。また野田総理も馬鹿な事をするものだ。どうも人気取り政策らしい。東京都が莫大な民間からの寄付金を集めた今頃になって、のこのこと出て来て、一体何様のつもりなのだろう。

 こんな目先の事しか見えていない連中ばかりだから、宇宙エレベーターの計画が余計に素晴らしく見えて来る。

国会がやっと良心を発揮した

2012年07月07日 | 政治問題
 福島第一原発事故で、国会事故調査委員会が発表した報告書を見て、ほっとした。最悪レベルの事故が起きた直接の原因を地震で重要な機器が壊れた可能性があると指摘したからだ。あの津波は想定外だったかも知れないが、地震はそうではない。だから東京電力と政府は必死になって原因は津波だ、と主張し続けて来たのである。
 そして更には東電と政府とで責任のなすり合いをしたのである。
 何とも恥ずかしい人々である。でもやっぱり、一番恥ずかしいのは東電だ。
 そのほんの少し前にも、東電は福島県浪江町に対して無責任な対応をして、町長の激怒を買った。町が公式文書で依頼した報告書を持参しなかった。

 これらの人々は「人」ではない。「人間」の形こそしているが、「人」としての最低のモラルさえ持ち合わせていない。そんな人間がぬくぬくと育ってしまう所に東電の大いなる欠陥が存在している。

 欠陥人間と言えば、大津市の中学生自殺問題での、学校と教育委員会も欠陥人間だらけである。教育委員会とは、校長や教頭などの退職者の天下り先ではないのか、と思えてしまう。とても教育者とは思えない。テレビで顔を映されるだけでも穴があったら入りたくなるのが普通だが、彼等は「鉄面皮」に見える。

 いじめ問題は難しい。だから、そこまで発展しない前に、教師達は年中アンテナを張って、子供達を見守る必要があるはずだ。少しくらい勉強が出来たって、人間性が伴わなければ何にもならない。しかし、教師自身が人間性が伴っていないから、いじめの芽を摘む事が出来ない。

 私は小学生の登下校の安全誘導の仕事をしているが、下校途中での喧嘩やふざけ合いには神経を尖らせている。ちょっとした事には関わらないようにしているが、殴ったり、あるいは泣き出したりしている子が居る場合には、すぐさま駆け付けて、様子を見たり、尋ねたりしている。簡単には収まらないだろうが、少なくともエスカレートする事だけは避けられる。
 ふざけ合いの場合は即座に注意する。押し合って車道に出たり、荷物を投げ合って車道に出たりするから、危険この上無い。私はもの凄い剣幕で怒る。中途半端な怒り方では、言う事を聞かない。子供達も私の真剣さを見て、大人しくなる。子供達の安全を思えばこそである。
 そんな事で部外者の干渉を受ける筋合いは無いが、何かと言うと、口を出す輩も居る。しかし、単なる感情ではない怒り方なら、納得してもらえると信じている。

産經新聞のコラム「産経抄」に疑問がある

2012年07月05日 | 言葉
 7月4日のコラムである。縄文文化の凄さを語っている。遊動生活から定住生活へ移行した事、つまりは「ムラ」を形成した事が文化を充実させた、との考え方である。食糧を求めて動き回る生活では、体の弱った老人は付いて行けない。しかしムラに定住すれば天寿を全う出来る。そこで老人の知恵や情報が子孫に伝わる。ムラが図書館や文化センターの役割を担って、世界でもまれに見る進んだ文化になった、と言うのである。

 これは大いに納得が行く。しかしここからの展開が私には納得が行かない。
 「ムラ」を「閉鎖的」とのマイナスイメージだけで捉えた用語が使われていると言う。それが「原子力ムラ」であると言う。以下に引用する。

 福島での原発事故以来、反原発をとなえる人たちが電力会社や行政、大学の原発推進者を非難するときの言葉である。情報を独占し、自らの利益だけを求めるそのムラ的閉鎖性が事故を招いた。そう言いたいようだ。

 「そう言いたいようだ」ではない。我々はみんなそう思っている。思っていないのは、それこそ原子力ムラの連中と、それを自分の利益に利用しているやから達だけである。「そう言いたいようだ」の言葉だけでもムカッと来る。そしてまだ続く。

 だがもし原発推進者に閉鎖的な面があったとしても、日本のムラは決して閉鎖的ではなかった。ムラの外の自然と巧みに共生をはかってきた。どこかピントはずれのレッテルに思える。しかもこうしたレッテルをはることで、今後のエネルギー行政から「原子力ムラ」の人材を締め出すことは、安全面でも必要な原発技術の放棄につながる。ムラをつくることで文化を引き継いできた日本の歴史に対しても失礼だ。

 以上で、このコラムは終わる。
 これは非常に危険で悪質な考え方であると私は思う。
 「ムラは決して閉鎖的ではなかった」は単に「ムラの外の自然と巧みに共生をはかってきた」だけがその根拠になっている。「ムラの外の人間界との共生をはかってきた」とは言わないのである。ムラの外の人間界との共生をはかって来なかったからこそ、我々は、それを「ムラ」と言っているのである。「どこかピントはずれ」と言うが、ピントがはずれているのは、コラムである。

 そして次が最悪である。
 「こうしたレッテルをはることで、今後のエネルギー行政から原子力ムラの人材を締め出す」と言う。原子力ムラが国民に開かれた存在になった、と断言出来るのか。相変わらず原子力ムラそのものではないのか。そうした勢力が、安全面の検証もきちんと済ませずに大飯原発再開を決めたのではないのか。
 「原子力ムラの人材を締め出す」事が、原発技術の安全面の放棄につながる、と言うに至っては、空いた口がふさがらない。原子力ムラが開かれた、真に国民の幸福のための存在なら、我々は「原子力ムラ」などのレッテルを貼ったりはしないのだ。
 「ムラをつくることで文化を引き継いできた日本の歴史に対しても失礼だ」などと、どこを押せばこんな無責任な言葉が出て来るのか。

 「ムラ」は誰もが思っている閉鎖的な存在を象徴する言葉である。閉鎖的でなければ、我々は何も「ムラ」などとは呼ばない。そして日本の文化を引き継いで来たのは「村」であって、決して「ムラ」ではないのである。
 多分、単なる勘違いなどではなく、意識して勘違いを装っているに違いない。