いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
死後の世界.3
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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ご協力のほど、よろしくお願いいたします!
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『死後の世界は、あるのか、ないのか?』
これに対しては「ある」とも言えないし、「ない」とも言えません。
そもそもが、「有る無し」という『二元論』で語れる内容ではないからです。
「YESであって、NOである」「YESでもNOでもない」を加えた『四元論』でも無理です。
でも仮に…
「死後の世界がある(ない)」として、それを知ったとしたらどうでしょうか。
その知識は何かの役に立つのでしょうか? よく考えてみてください。そう、結局知ったところで何の役にも立たないんです。
だって私たちは、今まさに生きているのですから。
まして、それを何かの方法で知ったとしても、それが本当かどうかを確かめるには、実際に死んでみるしか方法はありません。
自分が生きている以上「死後」は経験できません。確認もできません。
(僕も含め)誰かが「あの世とはこういうものですよ。」と話したところで、それはその人の主観でしかないわけです。
「私がそう感じている=正しい」というロジックは成立しません。「主観」はあくまで「その人の主観」であり「真理」ではありません。
ですから、どんなに頑張っても、この問いに対する答えには行き着きません。袋小路に迷い込んだまま寿命を迎えてしまいます。(まぁ、そう言う意味ではその時初めて事の正体を確かめられるワケですが。)
結局生きている間は、「考えても無駄」なワケです。
と、言うことで、今度は「死後の世界」ではなく、「死」そのものを考えてみましょう。
もし、「死」が捉えられるものであるならば、当然「その後」、つまり、「死後」の存在が明確になるわけです。
なのですが…
これも突き詰めて考えていくとおかしなことになっていきます。
まず、『死』の定義を辞書検索してみました。結果はこの通り。
し【死】
生命がなくなること。死ぬこと。また、生命が存在しないこと。
「死」を調べてるのに「死ぬこと」ってこたないよね~。なんてツッコミはおいといて…
「生命がなくなること。また、生命が存在しないこと。」を考えましょう。
「生命がなくなること」が「死」ならば、「生命」が何なのかを明らかにせねばなりません。
ってことで再度辞書検索。
せいめい【生命】
生物が生物でありつづける根源。いのち。
いのち【命】
生物が生きていくためのもとの力となるもの。生命。
これを先ほどの「死」の定義と合体させますと、
「生物が生物でありつづける根源がなくなること。生物が生きていくためのもとの力となるものが存在しないこと。」
が、「死」の定義となります。
やっぱり、何を言っているのかわかんない。w
なんなんだよ、「生物が生物でありつづける根源」という、わかるようでわからない不明瞭な表現は。
ね。「死後の世界」云々の前に、自分が「生きている」ということがどういう事なのかがわかっていないんです。今、実際にこうして「生きている」というのに。
自分の「今の状態」すら理解できていない人間が、「後の状態」を正確に把握することなどできるでしょうか?
お釈迦様登場以前の宗教は、まさにこの問題で躓いていました。(いまだ躓きっぱなしの宗教も多いですが…)
「あるのか・ないのか」をベースに考えてしまうと、どうしても話のつじつまがここで合わなくなってしまうので、それを解決したいがために「神」や「魂」という漠然とした「永遠不滅の絶対的存在」を作り上げたんです。
絶対的な存在である「神」が「魂(命)」を作った。その魂が肉体に宿ることを「生」と呼ぶことにしよう。その魂が肉体から離れることを「死」と呼ぼう。仮に肉体は滅んでも「魂」は滅びずそのまま永遠の世界で生き続ける。その魂はいずれ新しい肉体に宿りさらなる「生」になるのだ、と。
「神」や「魂」は確認・証明された存在ではなく、話のつじつま合わせのために必要だったから生まれた「仮説」なんです。
そこから「神(魂)」という「実在しない漠然とした概念(仮説)」だけが一人歩きを始め、あちこちで色々な神様が登場することになりました。
で、「こっちの神様が本物だ」、「いや、お前のいう神様が偽物だ」と言い争いを始め、お互いが殺し合いを繰り返すことで「死」を実際に体験すると。
いやはや、なんとも馬鹿馬鹿しい。
でもこれは、宗教や精神世界だけに留まった話じゃないんです。
ありとあらゆるところで見られる現象・言い争いです。
「ある・ない」や「善・悪」など、人間は何かと二元論で決着をつけたがります。
なのですが、前回・前々回でご説明したとおり、物事・現象の本質はそういう「2つの対極にある事柄」にはないんです。
それ以外の所(捉え方)に「本質」を見出す道があるんです。
その別の道のことを、以前軽く紹介した「中道」といいます。
なので、「中道」とは言っても「真ん中を取る」とか「バランスを取って平均を行く」という意味ではありません。
「両極に偏らない、まるっきり別な道」なんです。(このニュアンス、伝わってますでしょうか?)
では、お釈迦様がその「中道」によって見つけた「生」「死」「命」の正体とは…
それが、「諸行無常」「諸法無我」「因縁」で語られている内容です。
と、いうことでまだまだ続きます。
←コメント同様、こちらもご協力のほど、よろしくお願いいたします!
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「YESであって、NOである」「YESでもNOでもない」を加えた『四元論』でも無理です。
でも仮に…
「死後の世界がある(ない)」として、それを知ったとしたらどうでしょうか。
その知識は何かの役に立つのでしょうか? よく考えてみてください。そう、結局知ったところで何の役にも立たないんです。
だって私たちは、今まさに生きているのですから。
まして、それを何かの方法で知ったとしても、それが本当かどうかを確かめるには、実際に死んでみるしか方法はありません。
自分が生きている以上「死後」は経験できません。確認もできません。
(僕も含め)誰かが「あの世とはこういうものですよ。」と話したところで、それはその人の主観でしかないわけです。
「私がそう感じている=正しい」というロジックは成立しません。「主観」はあくまで「その人の主観」であり「真理」ではありません。
ですから、どんなに頑張っても、この問いに対する答えには行き着きません。袋小路に迷い込んだまま寿命を迎えてしまいます。(まぁ、そう言う意味ではその時初めて事の正体を確かめられるワケですが。)
結局生きている間は、「考えても無駄」なワケです。
と、言うことで、今度は「死後の世界」ではなく、「死」そのものを考えてみましょう。
もし、「死」が捉えられるものであるならば、当然「その後」、つまり、「死後」の存在が明確になるわけです。
なのですが…
これも突き詰めて考えていくとおかしなことになっていきます。
まず、『死』の定義を辞書検索してみました。結果はこの通り。
し【死】
生命がなくなること。死ぬこと。また、生命が存在しないこと。
「死」を調べてるのに「死ぬこと」ってこたないよね~。なんてツッコミはおいといて…
「生命がなくなること。また、生命が存在しないこと。」を考えましょう。
「生命がなくなること」が「死」ならば、「生命」が何なのかを明らかにせねばなりません。
ってことで再度辞書検索。
せいめい【生命】
生物が生物でありつづける根源。いのち。
いのち【命】
生物が生きていくためのもとの力となるもの。生命。
これを先ほどの「死」の定義と合体させますと、
「生物が生物でありつづける根源がなくなること。生物が生きていくためのもとの力となるものが存在しないこと。」
が、「死」の定義となります。
やっぱり、何を言っているのかわかんない。w
なんなんだよ、「生物が生物でありつづける根源」という、わかるようでわからない不明瞭な表現は。
ね。「死後の世界」云々の前に、自分が「生きている」ということがどういう事なのかがわかっていないんです。今、実際にこうして「生きている」というのに。
自分の「今の状態」すら理解できていない人間が、「後の状態」を正確に把握することなどできるでしょうか?
お釈迦様登場以前の宗教は、まさにこの問題で躓いていました。(いまだ躓きっぱなしの宗教も多いですが…)
「あるのか・ないのか」をベースに考えてしまうと、どうしても話のつじつまがここで合わなくなってしまうので、それを解決したいがために「神」や「魂」という漠然とした「永遠不滅の絶対的存在」を作り上げたんです。
絶対的な存在である「神」が「魂(命)」を作った。その魂が肉体に宿ることを「生」と呼ぶことにしよう。その魂が肉体から離れることを「死」と呼ぼう。仮に肉体は滅んでも「魂」は滅びずそのまま永遠の世界で生き続ける。その魂はいずれ新しい肉体に宿りさらなる「生」になるのだ、と。
「神」や「魂」は確認・証明された存在ではなく、話のつじつま合わせのために必要だったから生まれた「仮説」なんです。
そこから「神(魂)」という「実在しない漠然とした概念(仮説)」だけが一人歩きを始め、あちこちで色々な神様が登場することになりました。
で、「こっちの神様が本物だ」、「いや、お前のいう神様が偽物だ」と言い争いを始め、お互いが殺し合いを繰り返すことで「死」を実際に体験すると。
いやはや、なんとも馬鹿馬鹿しい。
でもこれは、宗教や精神世界だけに留まった話じゃないんです。
ありとあらゆるところで見られる現象・言い争いです。
「ある・ない」や「善・悪」など、人間は何かと二元論で決着をつけたがります。
なのですが、前回・前々回でご説明したとおり、物事・現象の本質はそういう「2つの対極にある事柄」にはないんです。
それ以外の所(捉え方)に「本質」を見出す道があるんです。
その別の道のことを、以前軽く紹介した「中道」といいます。
なので、「中道」とは言っても「真ん中を取る」とか「バランスを取って平均を行く」という意味ではありません。
「両極に偏らない、まるっきり別な道」なんです。(このニュアンス、伝わってますでしょうか?)
では、お釈迦様がその「中道」によって見つけた「生」「死」「命」の正体とは…
それが、「諸行無常」「諸法無我」「因縁」で語られている内容です。
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コメント ( 13 ) | Trackback ( )
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続き楽しみにしてます( ‘∀’ )
中道ってお釈迦様の教えの中じゃ世間で1番有名だと思うけど、「何事もほどほどに……」って意味じゃなかったのね。世間の大多数はそう思ってそう。
二極以外の捉え方にに本質を見出だす。
二極に偏らない、まるっきり別な道。
ふ~む……もしかしたら僕が今までにしたことのないものの見方かもしんない。(?)
次回にわくてくっ
「いやいや何それ?」って感じですか?
ん~・・・もう一回見直してきます。
入学したから卒業出来る。
生まれてきたから「死ねる」。
自分の「死」を祝福出来る様に生きる。
「何時死んでも良い」生き方さえしてれば
良い思います。
私が出来てるっていう意味じゃないよ。念のために。
音が聞こえ、目が見えて、言葉が理解できる
ということは、イコール感動できることではないですけど、
今日は私にこの能力があることを喜びました。
その芝居の中で、愛が芽生え、様々な陰謀が張り巡らされて、死がありました。
カーテンコールのあと、速攻で帰宅して、家でくつろぐときに
そのお芝居の人生と、自分の過去に
どういう違いがあるのか、と考えると
どちらも、今でない、という点で
同じレベルの記憶としておさまっていく感覚を覚えて、
昨日の自分のコメントは
まったくもって、今の私にはなんの意味ももたない
という不思議な感じを初めて感じました。
こういう感覚というのは
言葉で表現するとなんという言葉におさまるのかわかりませんが、
私にとってはアハ体験でした。
関係ないけど、ちょっち長話します。
自分のネッ友が、「二つの道が在ってどちらも行き着く先が同じ。一つは茨の海。一つは暗がりの崖。どちらを選ぶ?」と問われたので、僕は「僕はそのどちらでもない。真ん中のイグサ道を行く。」と答えたの。
したらば「人道に反している。」というから「何時だって僕が歩こうと思った所が道になるし、人道に反していると言うならば、それは誰が決めているの?他の誰でもない君でしょう?君が選択肢を狭めてるんだ。」って言ったら、「アントニオ猪木(引退宣言した時の言葉が該当したらしい)みたいな事をいうね。」って言われ、結局その友の理解は得られなかったのですがね。
僕とその友は「常に対の鏡越しの自分」なので、意見が合わないなんて至極当然なんですが。多分、それでも僕らはチャットで何時もこう言う禅問答みたいな遊びをしてます。非常に僕にとっては面白く有意義なのですが。相手にとっては迷惑がってるみたい。それでも僕らの関係が続いてるって事は、それなりに意味の有る事だと思うのです。
ん~と、つまり何が言いたいかって言うと、自分と反対意見だからと言って、真っ先に喧嘩する(戦争・闘争)するよりも、まずは相手の意見を聞き、意図を汲む。表層しか汲み取れませんと放棄する前に、深層を読み解こうと自分なりに努力する。その心構えが大事なのではないかな。
僕は、仏陀でも神でも天使でも霊でもないけれども、一、人間として、仏陀の考えは僕の考えと似ているかもと思いました。だから仏陀のお話楽しかったよ?(今更言うのか?これをw)
今年春に放映したワンピース~エピソードオブチョッパー~ 冬に咲く、奇跡の桜・・・。
今回のお話とはまったく関係ないかも?なんですけど・・・(^-^;)とってもとっても良いお話でした。黒斎さん、皆さん、ご覧になりました?
おすすめです~
死後の世界とは「あの世」のことですよね?そこから私は意味を見失っているのでしょうか。そもそも、このブログは”「あの世」に聞いた、この世の仕組み”ですし・・・「あの世」「あの世とこの世」のカテゴリーもこのブログにありますし、説明もなされています。ヘンゼルとグレーテルさんは、その情報を、さらに深めてほしいという意味だと思っていたのですが、私は今どこにいるのでしょうか(笑)
私も死後の世界に興味があります。それは知って意味がある・ないではなく、単純に興味がありますし、生きていくのに励みにもなるという気持ちがあるからです。
“結局知ったところで何の役にも立たないんです”と書かれていますが、役に立つ、立たないで考えたら、宇宙の果てを知ったってどうにもならないし、海底がどうなってるかだって知っても役に立たないことです。普通の生活を営む分には特に。けれど、知りたいですよね?興味のない方も、興味がある人がいることは理解できると思います。
あの世に関しては、今まではわかるはずがないからあきらめていたのに、雲さんとコンタクトがとれる黒斎さんがいて、質問できる環境にある。“主観”であろうと、やはり知りたいです
また、このブログで書かれているように、死後の世界とこの世は法則が共通し、関係が深く、学ぶところが多いですよね。それは、この世で生きる励みになると思います。
例えば、過去記事で書かれていた魂の浄化・魂の訓練(06年7月13日など)は、この世だけの視点では、たどり着けない考えだと思います。
雲さんも、死後の世界で学ばれてから、黒斎さんの補助霊ではなく、指導する守護霊になられている。単にこの世を知ればよいだけであれば、人生豊かな方なら、亡くなられてすぐに守護霊になられるはずです。やはり、死後の世界を知るということは、この世を知る(よりよく生きる)ことに繋がると思いますし、なによりこの場所を客観的に見る視点が養えると思います。
実際死んでいない黒斎さんが、生き方を変えるくらい実感なさっているのをブログで知り、私も実感してその上で生を考えてみたいのです
と、思ったのですが、「破戒」記事でもありましたが、通訳不可能性がまたしても起こっている気がします。どうか温かく見守ってください(笑)長文失礼いたしました
私は生きているけど死んでいる、死んでいるけど生きている・・・と感じます。
別の次元にも私の存在があり、その存在から見ると私は死んでいます、私という存在から見たら別次元は死です。
正と死を二極で見ると線上の対極ですが、中道で見ると丸だと思います。
生と死が裏と表の球体です。
それはくるくる絶えず回転してます
私たちは常に生きていて、死んでいるその存在だと思います。
起きている状態が生で睡眠状態が死です・・・ただ死の状態を忘れているだけなのではと考えます。
私はスピリチュアルは区切られたものではなく、森羅万象の存在そのものだと思っています。
おこがましいと思いつつ・・・
ほんとにドキドキしながら書いてます、打つ手が震えてます。
私が思い感じたことを、特にこのことを誰かに伝えるのは初めてなので・・・
このブログを読ませていただき、自分なりに理解しながら生きる事の意味や生き方を考え、また励みにもしています。
でも今回の死後の世界はうまく理解出来てないみたいで混乱しています・・・
あの世からグレーの魂を磨いて少しでも白く輝かせるためにこの世に修行に来ているのだと思っていましたので、あの世があるものと決めつけておりました。
通訳不可能性というのは、何となく解るのですが・・・
アッズーロさんと同じ考えですね。
失礼しました。
続きをお願いします。 m(_ _)m
>中道ってお釈迦様の教えの中じゃ世間で1番有名だと思うけど、
>「何事もほどほどに……」って意味じゃなかったのね。
はい。違います。
wakingさん
いやいや、そう言うことではなくて、そもそも証明できていないもの(証明できないモノ)を前提として認める論理は、何の意味も持たないという話です。
わかりますかね?
神ng nowさん
>「何時死んでも良い」生き方さえしてれば良い思います。
はい。同感です。
>私が出来てるっていう意味じゃないよ。念のために。
はい。僕もです。w
ぽんさん
あははは。
「私」も、諸行無常、変わり続けますからね。w
mさん
>表層しか汲み取れませんと放棄する前に、
>深層を読み解こうと自分なりに努力する。
>その心構えが大事なのではないかな。
うんうん。
これに「相手が嫌い」という自分の主観がはいると途端に難しくなりますよね。
やはり、自己責任…。
コタさん
すんませ~ん。
ワンピース、見ていないのです。^^;
アッズーロさん
混乱させてしまってごめんなさい。^^;
このブログのタイトルを、他の言葉で置き換えるならば、「無意識領域で確認した、存在の法則」となりますでしょうか…。
でも、こう言い換えても、結局よくわからないでしょ?w
それに、僕の主観は、やっぱり主観でしかありません。
皆さんに確認することはできないのです。
ですから、どんなに語ったとしても、やはりあまり意味はありません。
そう言ったことを「信じて欲しい」のではなく、自分自身で確認する術を知って欲しいのです。
ですから、あの世はこうなっています、霊とはこういうモノです、といったお話はあまりしたいとは思えないのです。
それよりも、自分自身で世界のからくりが解せるようになっていただきたい。
誰かや何かにすがることではなく、自分で自分を救う術を知って欲しい。
そう思ってこのブログを書いています。
ご理解いただけますかね?
Mariaさん
ども!はじめまして。
そんなに緊張なさらないでください。w
大したブログじゃないんですから。w
これからも、よろしくお願いいたします。^^
Unknownさん
ども!はじめまして。
>あの世があるものと決めつけておりました。
あ、ここ、勘違いしないでくださいね。
僕は、「あの世は無い」とは言っていないですからね。
「ある」とも「ない」とも言えない。
そういう次元で語れることではない、と言っているんです。
どの宗教を見ても、「あの世はない」と言っている宗教はないですよ。^^
そうですね、自分で何も実感を得てないのに、知識ばかりを得てもきりがないですし、話を汲み取ることもできないですよね。答えは自分の中にあると折々黒斎さんが仰られていたのに、お手数おかけしました。
前回コメントさせていただいたときに薦めていただいた「ひらめき脳」を読み終えました。今までなんとなく意識するだけだった自分に、焦点を合わすことが増え、心に浮かんだことをノートに書く機会も増えました。少しずつ実感を積み重ねていきたいと思います
黒斎さんのお話は、螺旋状になっていて、話が進むたびに昔の話されていた意味が見えてきますね。これからも楽しみにしております
私も人生はきっと雨みたいなんだって思ってて、循環してるんだって思ってたんでうれしくなってコメントしちゃいました。本当はもっともっと「私も!そう思ってた~!!」ってことがたくさんです。
面白いですね。やっぱりそうなんですね。ありがとうございます。これからも楽しみにしています。