ねぬなはの 長き月夜を 恨みつつ なきがよきとぞ いひて果てぬる
*「ねぬなはの(根蓴菜の)」は「長き」とか「繰る」「苦し」にかかる枕詞です。今はジュンサイなどあまり食べないでしょうが、昔の人はよく食べました。ジュンサイは長い根を手繰り寄せてとることから、「長き」にかかるのですが、枕詞はそういう人間の日常の経験から生まれてきたものです。
人が好んで繰り返してきた生き方の文様から染み出てきたものでしょう。
蓴菜の根を手繰る時それがとても長いように、長々と無事でいるあの月を恨んでは、あんなものはないほうがよいと言ってしまい、とうとう馬鹿は終わってしまったことだ。
人間の馬鹿というものは、自分よりいいと感じるものが、不幸にならなければ許せないもののようです。いつでも他人ばかり見ていては、うらやみねたみ、その人の不幸を願う。だれしも嫉妬の感情など多かれ少なかれ持っているものだが、馬鹿というものはそればかりのために生きてしまう。
一生を人を妬んでばかりいて、その人を不幸にするためだけに生きてしまう。人と比べて、あまりにも自分が苦しいからです。
しかし人間とは簡単に不幸にはならないものだ。それなりのことをしている人には強さがありますから、粘り強い。いいことをするためにまじめに勉強している人は、見えないものの加護もありますから、そう簡単にはつらいことにならないのです。
馬鹿はそういう人を見ると、余計に腹が立つ。そして余計にがんばって、不幸にしてやろうと思う。熱心にやる。やりすぎる。夢中になる。
あいつが不幸にならないのが嫌だ。許せないと言って、果てしなくやり続ける。そればかりやる。
そしてそれが全く通用しないとわかると、あんなものは消えてしまえと、叫ぶのです。自分よりいいものが、自分たちの思い通りに不幸にならないのは、許せないのです。
だが実際、その人が消えてしまうと、困るのは馬鹿の方なのだ。なぜなら見えないものの加護が厚い人ほど、多くの人を助けることができる力を持っているものだからだ。
その人を消してしまうと、自分を助けてくれる人もいなくなるのです。馬鹿はそういうことがまるでわかってはいない。
なぜ、不幸になれと言って思い通りにならないのか。その人がいなくなっては困るからなのです。
無知というのは哀れというほかはない。
何もできない、何もしない人ほど、他人に夢中になる。そして他人を破壊するためだけに生きてしまう。そのことがどんなに自分を馬鹿にしているか、何もわかってはいない。
すべてが終わってからでは遅いのだ。何も勉強してこなかったことのツケが落ちてきたとき、馬鹿はもうこの地上のどこにもいくところがないことに、ようやく気付くのです。