ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

すみれ

2017-06-02 04:19:16 | 短歌





琴をだき 月の岩戸に まどろみて ゆめのなかばに すみれを植ゑよ






*男の手によるきつい作品を読んでいると、たまにはかのじょの作品を読みたくなるでしょう。あの人はとても穏やかで優しい人ですから。

これは2012年の作品です。確か別館の歌集に発表したものですね。昨日の歌と同じく命令形で終わるが、こちらのほうがやはりだいぶ優しい。

貝の琴を抱き、わたしは月の岩戸の中にまどろんでいる。その見ている夢の半ばに、すみれを植えなさい。

命令形にしているのは、命令しているというより、すみれを植えるということの意味を強めているという感じです。それほどきつい感じで命令しているわけではない。命令形にはこういう使い方もあります。ですから「すみれを植えなさい」と訳すよりも、「植えてしまった」とか、「植えられてしまった」とかに訳す方が、作者の意図に近いでしょう。あの人は、あまり人に命令するような人ではありませんから。

瑠璃の籠には、ベテルギウスという星が、朱いすみれに変身して、黄泉路の半ばで見張りをしているという設定がありました。最初ベテルギウスは、決してかのじょを黄泉路に通そうとしなかったが、後の方で、もう黄泉路を通っていきなさいと進言している。

あなたは疲れすぎている。もう終わらなければならないと。

ベテルギウスという人は、そういう、冷たい決断を下せる星なのです。死んだ方がいい場合は、死になさいと言える人なのです。

わたしたちはそれぞれ、ほかのだれにもできないことができる。わたしはベテルギウスという星の存在に感謝していますよ。わたしなら、絶対に、死になさいなどとかのじょに言えませんから。たとえそれがかのじょのためであっても。

かのじょは生きている間、ほとんど彼に関する記憶はなかったが、なんとなくわかったので、すみれに化けたベテルギウスが、死を勧めているという詩を書いたのです。

ああ、とうとうあなたが来たのか。それではもう、わたしは終わりなのか。

わからなくてもなんとなくわかる。最後はいつも、この人がやって来るのだと。

すみれと言う花に、終わりという意味を託したのにも意味がある。なぜならすみれという花は、とても厳しい花だからです。かのじょのように、人間に甘い愛を注ぐ存在を、苦く思っている花だからです。自己存在というものには、いろいろなものがいます。自分とは違う、あるいは、自分とは真っ向から反対の立場に立つ、そういう存在もたくさんいるのです。

そういう存在もいなければならない。なぜなら自分にはできないことができる人がいなければ、世界は成り立たないから。世界が成り立たなければ、自分もまた生きていけないから。

すみれを植えるということは、自分が死ぬことによって、自分とは対するものを立て、それによってみんなを助けていくという、みんなの活動を、認めるということです。

もう自分は消えていくのだということを、あの人はこの頃からもう感じていたのです。

命令形にしたのは、かのじょへのそういう要求が、ほとんど命令だったからです。つまり、命令をしていたのは、本当はかのじょではない。

すみれに化けたベテルギウスなのです。






『短歌』 ジャンルのランキング
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 湯女の踵 | トップ | あをきさうび »
最近の画像もっと見る

短歌」カテゴリの最新記事