たまゆらの あふせはかなく すぎゆきて ふたたびここに 見ることもがな
*今日は百合の賢治への返歌からとりました。あのシリーズは結構好評です。
わたしたちのツイッターは、結局はたったひとりでやっているものなんですが、なかなかにヴァラエティ豊かでしょう。
この原稿を書いているのは10月の下旬なので、これが発表される頃にはまたツイッターの様子も変わっていることでしょうね。媒体は一つとはいえ、参加している霊魂がたくさんいますから、次々にいろんな要素が飛び込んでくるのです。
ちなみに、賢治への返歌を詠んでいる百合は、ひとりではありませんよ。もうみんなややこしいから、だいたいは百合か桐に自分の歌を放り込んでいるのです。自分個人の名前を使用しているのは今のところわたしと大火と、すぴかと沙羅と葡萄式部と、あとは蘭くらいですかね。蘭はまた来ると思いますよ。
しばしのあいだの逢瀬は、はかなくもすぐにすぎてしまった。ふたたびここであなたにあうことができないだろうか。
切ない恋の歌のようですが、これは男女の間の描写ではなく、賢治と桜の花の間の描写です。
春に桜の花に見とれている賢治と、その目の憂いを清めようかとするように美しく咲いてくれる桜の情感です。美しいですね。
春の桜と言えばもう、天女のような美女です。そんなこの世のものとは思えない美しいひとと、賢治が目を交わしあっている図などを思い浮かべると、また美しい。
わたしたちは女性と恋をすることはできないのですが、それと似た情感を楽しむことはできます。再び会うことはできるだろうか、と桜の花の精に尋ねられたら、賢治はまた美しい歌を返してくれるでしょう。
そういう恋のやりとりを美しくやることはできる。それは美しい愛ですから。
賢治に返歌をたのみたいところだが、それは無理なので、わたしが賢治の気持ちを借りて、なんとかしてみましょうか。
散る花の うすき紅をぞ たまのをの ながきちぎりと たよりてもみむ 夢詩香
いかがですか。