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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

おしゃべり・・・・小学生のころ

2021-02-28 19:48:03 | 無題

 小学校に入学したのが昭和12年、日中戦争(̪支那事変)の始まった年です。学校に在る本は戦争ものばかりです。数が少ないからすぐ読みつくしてしまう。それでも、小学校3年生のころ、吉田先生が一冊の厚い子供向けの中身の本をお持ちになって、時間を割いて読んで下さるのです。それが本当に楽しく待ち遠しかった。この吉田先生が一度詩吟を聞かせてくれた。それが忘れられず、結局私の後半生を形成することになった。本を読みたくて父の書棚を調べたけれど、子供の読める小説はなかった。ただ、青色の装丁の大衆文学全集全7巻があり、これが小学生時代の読書の対象でした。此の当時蓄音機がありましたが歌は軍歌ばかり、ほかは浪花節でした。浪花節は良く聞きました。廣澤寅蔵の次郎長もの等を聞いて楽しんでいました。演歌が好きなのもこんな生活からきているのかも知れませんね。
 終戦が永山の一年生の時でした。終戦後の混乱は教科書を墨で塗りつぶすようなところから始まって、整然とした学校の雰囲気がこわれ、社会基盤もこわれて、ようやく新しい時代を感じられるようになったのは二年後くらいからだったと思います。新しい書物や、映画も復活し新しい時代が来たのですが、私は本を買うような余裕もありません。師範の本科に入ったころから、少しづつ本を読んだり映画を見たりして、新しい時代を受け入れるようになったのですが、故郷の青年団に入り、インテリぶって文芸誌を作ったり、演劇をやったり、フォークダンスを教えてあげたりすることに熱中した思い出があります。
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おしゃべり・・・友達

2021-02-27 18:58:22 | 無題

 本当の友達・・・いません。ライバルとして共に学び、教え合い助け合い何十年かの人生を、まさに苦楽を共にするような付き合いをしてきた友達を、親友=友達といえるのでしよう。私にはライバルとして張り合うような友達がいなかった。私がいけないのです。何事もとことん本気で追及する何物ももたなかったからなのです。人生の中の何年かという間の友達は何人もいます。多くの人がそうかもしれません。
 一人とても不思議な縁の友達がいました。先日稲苑大学のことを書きましたが、12期に応募して抽選で落ちて、13期になったということを書きました。その12期にいた方で「よしさん」で通っていた方です。
知りあったのは「いの平」でした。12期を卒業し、これからOB会で楽しめるという時に、OB会を退会したのです。高等学校は札幌西でした。卒業後国鉄に就職して定年まで勤め、定年退職後鍼灸治療士の資格を取ったという方です。足腰を鍛えるといって新聞配達の仕事をづけておられました。とても人を引き付ける性格の方で、私が詩吟をやり、漢詩を作ったりするのを認めてくれての友達だったのかもしれません。とにかく話が合い一緒すると私は10時に帰ることにしていましたが、いつも帰るまで話し相手になってもらっていました。あるとき、書き溜めていた随筆を持参して読んでみてくださいという。現役の時に書かれたものや、退職後のことを雑文と銘をつけて書いたものでした。読んで、そのまま返すのに何かもったいなくなり、「私の雑文集」というタイトルで、PCで印刷して冊子にしました。そして、次の日にでも「いの平」であって、差し上げようと思い電話を入れました。これが初めての電話でした。電話に弟さんが出て「兄は夕べ亡くなり今晩葬式なのです」という。え!といったきり言葉をつづけることも出来ない驚きでした。前の晩、やはり「いの平」に行っていて、他の友達と二次会に出掛け、その帰りぎわに滑って転び階段に頭を打ち他界したといいます。いい友達だったのですが、折角作って上げた雑文集も見てもらえぬままに別れてしまいました。
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 おしゃべり・・・山菜とり

2021-02-26 19:22:43 | 無題

 上川にいたころは学生時代、戦時中から終戦後の一番ひどい時代でした。米がなくてジャガイモとかかぼちゃが主食になることもしばしばでした。そんな中いちばん先に食べられる野草が ヤチブキ  でした。堅雪を渡って川淵に行くとまだあたりは雪なのに雪の解けた川縁に鮮やかな緑が姿を現しているのです。撮ってきてほしいといわれたわけでないが、取って帰ったものでした。本格的に山菜取りをしたのは結婚してからです。家内の義兄が月形にいて、山菜採りの名人みたいな人でした。月形近在の山菜場所をよく知っていて、時期になると誘ってくれました。アイヌネギから始まって、独活、蕗、竹の子、キノコまで毎年楽しませてもらいました。山間に入ってゆきます。鶯の鳴き声が沢一杯を包みます。あの声を聞くだけで 十分です。山菜もさる事ながら、あの鶯の声をもう一度聞きたいものだ。
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おしゃべり・・・・釣り

2021-02-25 19:21:07 | 無題

 大雪山の麓、上川郡上川村字東雲というところが私の育ったところだ。このは全部水田農家で戸数は20軒に満たなかったと思う。ただ別に、安足間発電所がありその従業員の官舎が一棟二戸6棟が一塊であって、ここの方たちがいわばインテリー層と思われるだった。そのの小学校長が父だった。
 この小さなは水に恵まれていて、石狩川の本流が流れ、更に愛山渓を源とする安足間川が流れのはずれで石狩川と合流していた。更にこの二つの流れの真ん中を水力発電の水路が掘られている。石狩川、安足間川のどちらにも支流が流れこんでいて、その支流が私たちの釣りの場所だった。釣れるのはヤマメと雨鱒、イワナ(おしょろこま)です。小学校の5年生くらいからヤマメ釣りを覚えた。
 自分ではヤマメ釣りは名人だとおもっていた。奉職してから先々で友達をヤマメ釣りに誘ったけれどまともに競争できる人はいなかった。それが、札幌に来て覆らされた。仕掛けが違うのです。その仕掛けを使うと素晴らしいのです。それ以来、今までの仕掛けを捨てて、この仕掛けをまねしてやってきました。
 札幌に来た頃は浜益まで出掛けていましたが、赤井川を教えられ、其れからは毎年赤井川に出かけていました。6月ころは越年ものの良いサイズのものが釣れます、10月になると新子が釣れるのです。
あのヤマメ・・・私たちの小さい時はヤマベと読んでいました、漢字で書くと山乙女と書きますがきれいな魚です。もう釣りをやめて何年になるのでしよう・・・。
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おしゃべり・・・囲碁 段はもらわなかった

2021-02-23 19:05:59 | 無題

 囲碁・将棋・・・趣味の定番、囲碁は2段でうってもいいといわれたが、初段の免許ももらわなかった。奉職した沼田高校で英語のNA先生と、囲碁友達となった。二人とも初心者で白黒を奪い合いながら楽しんだ。7~8 ,年で4~5級になったころ、沼田で北空知囲碁大会が開催されていました。4勝または5勝一敗で予選通過となります。有段者の部と級位の部があり、二人で挑戦したこともありました。徹夜の大会になります。プロ棋士がいらっしゃっていて、何人も一度に相手にして打ってくれる。有料だけど、負けても点数に関係なく勝と一勝をもらえるだから三勝するとプロの先生にお願いすることになります二人とも結局予選通過できなかった思い出があります。
 美唄東に転勤になったら、強い方が沢山いらっしゃいました。中で5段をお持ちの方がいて、良く相手にしてくれたのですが、5目おいて相手にしてもらうのですが、かなわないのです。あるときの勝負で初めに「5目勝つからね」といわれてほんとに5目負けたことなどいまも思いだされる。札幌西陵に転勤になって、一番の友達だった友成先生は6段で、四目でいいよといって、四目置きで相手にしてくれた。ほとんど勝てなかった。それでも、初段の免許申請してあげるといわれたけれど、断りました。二段で打ってもいいよといわれていたけれど、定石の勉強もしていない状態では免状が泣くと思って断った。碁盤は自分で買った練り物一台と美瑛の義弟に貰った新品のトドマツの7寸の厚さにきれいな木目の入ったものがあったけれど、使うこともなく詩吟のお弟子さんで強い方がいましたので、二台とも進呈しました。退職後暫く老人福祉センターの囲碁・将棋の部屋に通いましたが詩吟が忙しくなりやめました。今は誘われても打てないでしょう。
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おしゃべり・・・・マージャン

2021-02-22 19:01:23 | 無題

 退職の年、北大で肺の無料検査をしてくれるというのを聞き、応募しました。普通の検査にない内視鏡まで入れての検査を無料でやってもらいました。結果、肺気腫です。煙草やめなさい。と診断されました。でもすぐタバコをやめないでいたのですが、たまたまテレビで病院の廊下を酸素ボンベを引きづって何人もの人が歩いている姿が放映された。これを見て即座にタバコをやめました。60歳の時です。それ以来、北大の呼吸器科へ毎月検査に出かけることになりました。担当が西村先生でした。当時はまだ教授になっていませんでしたが、途中から教授に出世され、定年退職の時まで世話になりました。途中西村先生が指導されていたCOPDコホート研究会の協力員になるよう頼まれて5年間お手伝いして、感謝状をもらいました。西村先生の退職と同時に、かかりつけの病院を渓仁会に移してもらいました。
 60で肺気腫、お気づきだと思います.麻雀なのです。大学生のころから覚えて虜になりました。煙草はつきものです。そのつけが肺気腫だったのです。麻雀は強かった。でも、タバコをやめると同時に麻雀もやめました。麻雀の自慢をする人と随分お会いしていますが、その話し相手にはなりませんでした。
 それにしても随分長生きしています。肺気腫で最近は歩くこともままならなくなっていますが、それでも詩吟の教室一つはちゃんとキープしています。ただコロナでカラオケができなくなり、生きがいの一つを失っています。
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おしゃべり・・・・パークゴルフ

2021-02-20 19:56:55 | 無題

 退職して2年目くらいからパークゴルフに取りつかれた。ゴルフはお金もかかるし、相棒もいないので初めから諦めていた。そこでパークゴルフを知り、はまりました。町内会でもやっている人は殆どいなかった。朝6時に稲積公園に行き、一時間ほど遊び、帰宅して朝食が終わると森林公園に出かけて、時によっては午後まで通して遊んだりしていました。そのうちに山口西(バッタコース)ができて、バッタクラブというクラブもできたと聞いて、早速仲間入りしました。このバッタクラブは会員200名くらいいまして、私の町内会から他に三人の四人が入会しました。毎月大会が開催されます。長いこと在籍していましたが、優勝したのは1回だけでした。パークゴルフをやりはじめて、これは運動にもならないと思ったりしていましたが、85歳を超えたあたりから、今度は18H回るのがやっとになってきました。88歳の時やめることにしました。それでも道具一式車に積んだままで、まだ未練が残っているようです。しかし、酸素ボンベ引っ張って行く気にはなれません。そこそこ活躍しましたが上手にはなれなかった。いい友達もいたのですが、今は名前も思いだせなくなっている。
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おしゃべり・・・

2021-02-19 19:38:06 | 無題

 手稲文化協会のある都市の新年会、手稲アカシヤ俳句会の俵先生が面白い人がいるから紹介する、といって連れてきた方、男性でとてもおしゃべりなのです。私が詩吟をやっていることを俵先生から訊いてきていて、漢詩は好きです。特に杜甫の詩は好きです、という話になって、私も杜甫は好きですというとすかさず「客中の作」あれいいですねと来た。「蘭稜の美酒鬱金香/玉椀盛り来る琥珀の光・・・」此の詩の玉椀が玉杯でないのは平仄の問題で、しかし、玉椀の方がいいという。そして近くに有った紙に詩を書き始めた。暗記はできても書くことは一寸むつかしいのですが、それをすらすらと書き上げたのには驚きました。お酒も強く、いい友達になれそうな気がしました。俵先生は星置というところに住居を構えておられますが、私の「いの平」の飲み仲間で、私がさそうと必ず来てくれました。それで彼も呼んであげて、何回か「いの平」で一緒に飲んだりしていたのですが、突然来なくなった。話を聞くとアカシヤ俳句会が解散してしまったということでした。そのあとしばらくして電話が入って、文化協会の短歌サークル樹華会に入りました。牧野先生を囲んでの一席設けるから来てくださいという誘いだった。彼の短歌は何首か見ていました。しかし、どれも本歌取りで、古今集の歌をしのばせたものがほとんどで、みんな本歌取りでしようといったことがありました。そんなことがあってしばらくしてから、私の隣のご主人が樹華会の会員なので、彼の話をしたら今会長になっているという話でした。それから間もなく樹華会が解散してしまったのです。会員も少なくなってようやく維持されていた会ですが。彼が入って会をつぶしてしまったのです。俳句の会、短歌の会二つとも彼が入ってつぶれました。その後たまたま私がよく行く昼カラに短歌の雑誌などを持ってきて、得意になっているのに出合いました。しかし、私はどうも彼に同調するものがなく、離れました。しばらくしてその店から来店お断りされたということです。どうしているのかわかりませんが、確かに勉強をしているのは判りますが、自分本位に過ぎるところが皆様と会わなかったのかと思います。
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おしゃへり・・・町内会の思い出

2021-02-18 19:26:32 | 無題

 手稲のこの家に住み始めて53年になる。半世紀こえているのですね。家を建てた当時のことを書いている暇がない。
 48歳でこの地に現在の家を建てて暮らしてきたのです。町内会にもいろいろ世話になりました。来たころの町内会長さんは星野さんで、車をお持ちでなくもっぱら自転車で走り回っておられた。私はこの歳まで町内会というものに全く縁がなかったのです。この地に住まうようになり、間もなく星野会長と知りあった。星野会長は自転車で毎日のように町内会を回り、外に出ている方がいれば立ち止まって話しをするような方で、町内会の全戸をご存じだったと思います。町内会の顔役のような佐々木徳松さん久木さんがいて、星野会長は佐々木徳松さんから名指しで指名され町内会長になったということでした。どういうわけか私は星野会長に気に入られていました。そのうち何年かして星野会長が突然入院ということになりました。その時副会長にさせられて、会長の入院している間、それまで見てきたとおりの形で役目を果たしまし。右も左もわからないままの副会長でした。一年で終わり、総会やれやれと思っていたら、役員選出のところで佐々木徳松さんが突然立ち上がり次の副会長は村川さんにやってもらいますというのです。全く考えても見ない氏名に面喰いました。そんな役員選出の時代だったということです。結局二年副会長をやりました。それから数年してある日の夕方若林さんがおいでになり、新年度から町内会長をやることになったが、私に副会長をやって助けてほしいというのです。副会長なら大分町内会にもなれているので引き受けました。その時、役員は同じくらいの年齢の方が多く、しかも酒好きで、仕事の仲間にもってこいでした。それまでいろいろ気にしていたことをどんどん改め、町内会の活動は面白いといってみんな出てくれるようにと頑張りました。
 どうせやるなら、楽しい町内会にしていこうということで、今までやっていたことも、できるだけ楽しいものにするよう努力しました。夏休みの朝の体操にしても、役員全部が率先して出て、皆様を誘いにぎやかなものにしました。又、盆踊りなども、町内会の婦人部に頑張ってもらい、今までにない盆踊りらしい盆踊りにしてみたり、新年会も余興出演者を募集したり勧誘したりして、盛り上げました。とにかく二年の約束を4年続けてやってあげました。そのあと、会長になれと随分責められたのでが、私の本職は詩吟だったので、詩吟に影響の出る会長職は最後まで引き受けないで終わりました。
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おしゃべり・・・・テレビに出そこなった話

2021-02-17 19:23:33 | 無題

 社交ダンスの会が崩壊して、仲間が集まって先生無しのサークルで遊んでいたころの話です。ある日一本の電話が入り、老人福祉センターに「元気なお年寄りを紹介してほしいと話したら、詩吟の村川先生を紹介くださいました。是非一度お会いできる機会を持ってください」という、民放のテレビ局でした。話だけと思ったので、ダンスの日なら話の時間が採れますので、ダンスの日にお会いすることにしました。手稲中央会館でダンスをしているところへ4人くらVTRの機材を持っていらっしゃいました。いろいろ質問されました。その後踊って見せてくださいといわれ、丁度ワルツの稽古をしているときでした。そばに小野ママが来ていたので、一寸踊ってといって、会場半分くらい回ったところで結構ですといわれ、戻ってきました。戻るとすぐに「ミヤネ屋」ってご存知ですよね、といわれた、反射的に「いえ、知りません」とはっきりいいました。すると rえ!」といって、挨拶をしてお帰りになった。私はほとんど昼間のテレビを見ることがなかったので本当に知らなかったのですが、ミヤネ屋が うりだしたころで、その関係のテレビ局だったのかと思います。断定はできないけれど、ミヤネ屋につながる番組で、それを知らなかったからか、ダンスが下手だったからかのどちらかが原因でテレビに録画されたけれど放送されずに終わったという情けない話です。当時私は詩吟の教室4つ、ダンス、カラオケ、パークゴルフをやり、PCでブログを毎日書く、さらに文化協会の事務局長もやっているという将に元気いっぱいの老人だったのです。まあ情けない姿をさらすことがなくて良かったのでしょう。
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