飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
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万葉アルバム(関東):東京都、狛江市中和泉 玉川碑

2012年09月26日 | 万葉アルバム(関東)

多摩川に 曝(さら)す手作(てづくり) さらさらに
何(なに)そこの児の ここだ愛(かな)しき
   =巻14-3373 作者未詳=


 多摩川にさらさらと曝す(さらす)手作り(調布)のように、更に更にどうしてのこの娘達はこんなに可愛いのだろう。 という意味。

古代から多摩川流域では、麻や絹の生産が盛んで、奈良時代頃からは天皇に納める「調(みつぎ)の布」が生産されるようになった。


(調布:布多天神社の絵馬)
歌には、織った布を多摩川に晒す風景が詠まれている。当時から狛江の辺りは布織物が盛んで、作った布は、租庸調の調として中央政府に納められていた。それも、この地は、高麗からの渡来人が多く住み、植物繊維から布を織る技術を伝え広め、狛江付近には、調布、染地、布田、砧などの地名が散見される。当時この辺りの多摩川には、歌のとおり、布を晒す風景が日常的に見られたのであろう。


衣叩き(きぬたたき)
古代の技術で織られた布は、糸が太くごわごわと硬かったため、多摩川の清流に布をさらしながら、「砧(きぬた)」という木槌でたたく「衣叩き」という作業をして、つやを出し、柔らかくしたという。
記録によると江戸時代頃までは多摩川で布をさらし、衣叩きをしていたようで、多摩川にほど近い世田谷区砧の地名もここから来たものだと思われる。
(絵:諸国六玉川)

 碑表 <クリックで拡大>
 この万葉歌碑は狛江市中和泉4-14の歌碑公園(かつての玉翠園の前)に建てられている。
歌碑は万葉仮名で、刻されている。
”多麻河泊爾左良須弖豆久利左良左良爾奈仁曽許能児能己許太可奈之伎”

碑の説明版によると、
”文化2年(1805)に老中松平定信の揮毫で作られたが、文政12年(1829)多摩川の洪水により流され、大正11年(1922)に旧碑の拓本を模刻して再建された。”とある。

この歌碑の再建には数々の曲折がある。
この歌が刻まれている「万葉歌碑」は、文化2(1805)年、元土浦藩士の平井有三菫威(ひらいゆうぞうとうい)が建立しました。江戸幕府の老中を勤めていた松平定信(まつだいらさだのぶ)を初め、数々の文化人たちと交流があった平井は、「日本六玉川(むたまがわ)」の一つ、武州(武蔵国)玉川に名所がないのを嘆き、万葉集に詠まれた句を松平定信の揮毫により刻んだ。
「万葉歌碑」建立から24年後の文政12(1829)年、多摩川が大洪水にみまわれて堤防が決壊、歌碑も行方不明になってしまった。そのため残念ながら、当初建てられた歌碑の形や大きさ、建てられた正確な場所などは謎のままになった。
時は移り大正時代。
隠居後に「楽翁(らくおう)」と名を変えた松平定信を敬慕していた、三重県の羽場順承(はばじゅんしょう)は、楽翁の遺著や遺跡を追っていた。大正11(1922)年、羽場は旧(三重県)桑名藩士から、歌碑の拓本を手に入れた。
しかし玉川碑がすでに失われていることを知り、当時猪方村長をしていた石井扇吉、郷土史家の石井正義などに協力を仰いで、旧歌碑の発掘を行ったが、見つけることができなかった。
歌碑の再建を計画した平井は、やはり楽翁を敬慕していた実業家の渋沢栄一に協力を依頼した。
大正12(1923)年3月、渋沢は財界に募った2,150円に、自らの寄付金2,500円と、玉川史蹟猶興会費を加え、6,000円を超える資金を集めた。そして8月頃には、玉翠園前(現在地)に歌碑を再建、秋には除幕式を予定していたが、9月1日におきた関東大震災によって歌碑が倒れ、除幕式は延期になってしまう。しかし翌年、楽翁の命日にあたる4月13日には玉翠園で盛大な除幕式が行われた。


高さ2.7mの堂々たる歌碑の揮毫は、楽翁の拓本を復刻、碑陰記は旧碑のものに合わせ、後半には渋沢の撰文・書が刻まれている。

 碑裏 <クリックで拡大>
〔碑陰記・訳〕
日本で「玉川」と呼ばれる川は天下に全部で6つある。武蔵国にあるのはその1つである。しかし、水の道はしばしば変わってしまうので、現在訪ねてみても見つける事が出来ないのである。
平井菫威が「調布の玉川」旧跡を考証探索して何年か経つが、最近これを認定し、我が老公(松平定信)にお願いして、その古歌一首を書いてもらい、石碑に刻んで、これを多麻郡猪方村に建てた。これから後は、古跡に腰を下ろし、立派な石と共に世間に知られていくだろう。
微(わずか)な事でも大事なことは世に紹介し、幽(かすか)な事でも鮮明にしていく事が、孔子が著したものとも言われる「春秋」という歴史書の志である。菫威はきっとこれに学んだのであろう。
言うまでもなく老公の書は、この証拠を後世に残す事となった。

〔碑陰記後半・訳〕
武蔵玉川の地は、いにしえより苧麻蚕糸に富んでいて、里人はこれを織り、玉川にさらして朝廷に献納していた。これが万葉集に、玉川にさらす手作りの歌を残した由縁である。
文化年間(1804~1818年)の初めに松平楽翁公が、里人の願いによって万葉集の歌を書し碑を建てたが、文政12(1829)年の洪水で堤防が決壊して、この歌碑が流されてしまってから、今まさに百年におよぶ。
狛江の里人、石井扇吉、石井正義、羽場順承などがこれを惜しみ、何回か発掘を試みたけが遂に見つけることが出来なかった。よって「玉川史蹟猶興会」を興て旧碑の拓本を模刻し、それをもってこの地を明らかに表す。
余が楽翁公に私淑していて名勝保存の志があるので、援助を請いてこの碑を建て、その事由を碑陰に記す。
考えてみると玉川の地は万葉の時(7世紀後半~8世紀後半)には、東に一つ川沿いの村があるだけだったが、皇都の東京に決められてから首都に近いこの土地では、冠や帽子、裾や履き物と、常に美しい山水の景色が、相映ず。
今、また永遠に変わらない石の碑を建てて、名高い老中(楽翁)故人の立派な功績を伝へ、遠く奈良朝の昔の姿を懐かしむ。
これは、太平な時代の恩恵であろう。
この地でこの碑を見る者の心が動かされる事を願う。
大正11年12月27日
正三位勲一等子爵(しょうさんいくんいっとうししゃく) 渋沢栄一 撰ならびに書
石工 吉沢耕石(よしざわこうせき)刻


狛江付近の多摩川の流れ (2012/9)