テニスとランとデジカメと

私の趣味3点+その他の紹介です。
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舶来ソング その3~浅草オペラでブームとなった「舶来歌劇」

2007年06月28日 | 歌謡曲
 「浅草オペラ」-かつて東京の歓楽街に、このように呼ばれた公演が一大ブームを起こしていたという。今はもう夢のあとで、現地に出向いてもそれと感じさせるものがない。その時代を知らない私は非常にノスタルジーを感じる。今ではわずかにCDやレコードで雰囲気を感じるしかないようだ。
 浅草オペラとは、1917年(大正6)から1923年(大正12)の関東大震災の頃まで、東京の浅草で上演され、人気を博したオペラ。西洋のオペラの歌を原曲とは関係ない日本の大衆演劇風の歌詞に置き換えた替え歌、それをつなぎ合わせた歌芝居のようなものである。このオペラが日本館など浅草六区(浅草寺西側の興行街)で大盛況を博した。そばやの出前のあんちゃんや八百屋のおばさん達がオペラ「ボッカチオ」や「カルメン」などを口ずさんでいたのである。
 舞踊家の石井漠、沢モリノ、高田雅夫、高田せい子、歌手の安藤文子、清水金太郎、田谷力三、原信子、羽衣歌子らが加わり、浅草オペラは活況を呈し、やがて一大ブームとなった。とりわけカルメン、椿姫、天国と地獄など、通俗的な場面が人気を博した。浅草オペラの熱狂的なファンはペラゴロ(オペラ+ゴロツキ)とも呼ばれた。
 浅草日本館の1917年の浅草オペラの常時公演では、佐々紅華作・作曲「カフェーの夜」。このオペラには「コロッケの歌」(今日もコ~ロッケ、明日もコ~ロッケ)や「おてくさんの歌」が使われた。「おてくさんの歌」は、シュランメルの「ウィーンはウィーン」、アイルランド民謡「庭の千草」、デンツァの「フニクリ・フニクラ」をつなぎ合わせたもの。
 1918(大正7)年に浅草の桃色座で日本バンドマン一座、河合澄子のカルメンによる、歌劇「カーメン」(ビゼーのカルメンを獏与太平が自由に編作したものらしい)。
 1919(大正8)年になると、芸術座(新劇)でカルメンを松井須磨子が演じブームとなった。公演中に、前年の11月に悪性の感冒のため四十八歳で他界した島村抱月の後を追い、自殺したのは有名な話である。

 浅草は明治の後期に日本初の活動写真が電気館で公開され、映画館が林立し、大正時代には浅草オペラが人気を博した。昭和の時代に入ってからは浅草レビューが花開く。榎本健一らが活躍した。戦後はストリップショーが隆盛し、ストリップの合間の寸劇コントから渥美清や萩本欽一、ビートたけしなどの芸能人が輩出された。

私のCDを紹介する。
(1)「決定盤!懐かしの浅草オペラ」(榎本健一、田谷力三、他)<キングレコード>
    この中で一番の傑作は、”ベアトリ姉ちゃん”
    有名な「ボッカチオ」の中のヒット・ソングだが、榎本健一・楠トシエ・友竹正則が
    掛け合いで歌っていくおもしろさがたまらない。
    田谷力三の”恋はやさし”・”波をけり”・”連隊の唄”・”岩にもたれた”、
    榎本健一の”ブンブン”・”桶屋の唄”、
    楠トシエ・友竹正則の”おてくさんと木座野”・”コロッケの唄”、などを収録。

 私は現在の浅草六区をぶらぶら散歩するのが好きである。最近いくらか復古調の兆しがあるようで、なんと浅草オペラの復活公演の企画もあるという。芸能ニュースに目が離せない日々が続きそうだ。

梅雨で全身サウナ状態、でもテニス

2007年06月25日 | テニス
 今日は朝から梅雨空が明るくなったと思うと、また暗くなり、小雨が降っては止んで、とりあえずテニスクラブに駆けつけた。霧雨が頬にかかるが、出来るまでやろうということでテニスを始めた。
 どうにか雨が収まったようで、そのため炎天下よりはずっと汗をかかず、プレーがし易い。今日はゲームを楽しみ、そしてコーチ指導でボレー対ストロークを行った。終わりの頃に小雨が降り出し、コートがぬかるみ滑りやすくなったが、午前中3時間のテニスがどうにか終えることが出来た。午後の部のテニスは中止となったらしい。終わって見ると全身霧雨でグショグショのサウナ状態、だが何となく満足感のあるテニスであった。今日は滑り込みセーフでラッキーだった。

(写真は我が家で咲いているサツキ)

錦糸町 精工舎とオリナス

2007年06月24日 | 散歩
 錦糸町。昭和41年(1966)に私は時計の精工舎に入社した。思い出の場所である。事務所棟2階の経理部が私の職場だった。
私の定年後、精工舎は解体され今はない。精工舎はセイコー・プレシジョンと名前を変えて平成8年(1996)南船橋に移転している。
この地には新しくショッピングモール「オリナス」が平成18年(2006)誕生している。
 今はない精工舎を偲び、オリナスを訪れた。


精工舎事務所ならびに工場の一部
私が入社した時、ほとんどこの写真と変わらないと思う。
精工舎は明治26年現在の墨田区太平に工場を移転し、その後昭和3年に鉄筋コンクリート3階建の懐中時計工場(東館)を竣工、同5年に掛・置時計工場(西館)と四方に時計塔を持つ三階建の事務所棟を完成。さらに昭和9年には南館(第二懐中時計工場)、12年には中央館(工作機械工場)と増築していった。

事務所棟は時計塔を中心に左右対称に建物が広がり、上部が丸くアーチを描いたアールデコ調の窓が近代工場の玄関らしく彩どりを添えていた。当時の錦糸町界隈の建築物はほとんどが木造家屋だったため、その中に白くそびえ立つ時計塔は地域のシンボルにもなっていた。


精工舎 平面図


セイコー時計資料館
時計塔のある事務所棟は昭和52年に新館ができたのを契機に56年セイコー時計資料館に生まれ変わり、以後工場がその役目を終えるまで各種資料が一般公開されていた。(セイコー時計資料館は現在、墨田区東向島3に移転している)世界最大級の時計工場としての保存が期待されたが、平成9年に工場が閉鎖となり、平成13年に東京都都市計画が決定、再開発により、錦糸町のランドマークとして親しまれてきた精工舎は平成14年(2002年)おしくも解体された。


オリナス正面
精工舎の時計塔のある事務所棟跡地付近からオリナスを見上げる。
時計塔ならぬ、新しい時計台がビルに併設されていた。
精工舎を偲ぶ、唯一の風景かも知れない。


オリナス3階南面から錦糸公園テニスコートを望む


オリナス南面は公園を望む休憩コーナーになっている


オリナス東側連絡通路


なつかしいお面売り場を見つけた


舶来ソング その2~女学生の愛唱歌になった「舶来唱歌」

2007年06月21日 | 唱歌
 1879(明治12)年10月、学校教材用の歌の作成・編纂、教師の養成機関として「音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり。東京芸術大学音楽学部の前身)」が文部省内に設置された。初代所長伊沢修二は、アメリカから自らが師事したルーサー・W・メイソンを招聘、歌集の編纂を行い、1881(明治14)年に日本初の官製唱歌集「小学唱歌集」が出来上がった。「小学唱歌集」の歌は、スコットランドやアイルランドの民謡が多く取り入れられた。「蛍の光」「庭の千草」などがそれにあたる。最初の「舶来唱歌」である。
 やがて明治後半から原曲の内容を生かした美しい訳詞をつけて歌う流れが起きる。直訳でなくメロディに合った日本語独特の文体がみごとに調和しているものが多い。特に堀内敬三は格調の高い文体で多くの舶来曲を訳詞した。戦前の女学生歌集で紹介され、女学校のコーラスで多く歌われた。戦後は広く学校や職場のコーラスなどの定番になっている。「舶来唱歌」の主な曲は以下のとおり。

(稲垣千頴 訳詞)明治14年 蛍の光(スコットランド民謡)
(野村秋足 訳詞)明治14年 蝶々(スペイン民謡)
(里見義 訳詞) 明治17年 庭の千草(アイルランド民謡)
(大和田建樹 訳詞)明治21年 故郷の空(スコットランド民謡)
(里見義 訳詞) 明治22年 埴生の宿(ビショップ)
(犬童球渓 訳詞)明治40年 旅愁(オードウェイ)
(近藤朔風 訳詞)明治42年 ローレライ(ジルヒャー)
(近藤朔風 訳詞)明治42年 野ばら(シューベルト、ウェルナー)
(近藤朔風 訳詞)明治42年 菩提樹(シューベルト)
(杉谷代水 訳詞)明治43年 星の界(コンヴァース)
(吉丸一昌 訳詞)大正 2年 故郷を離るる歌(ドイツ民謡)
(堀内敬三 訳詞)大正 3年 モーツァルトの子守歌(フリース)
(堀内敬三 訳詞)      春の日の花と輝く(アイルランド民謡)
(堀内敬三 訳詞)昭和22年 冬の星座(ヘイス)
(堀内敬三 訳詞)      ラ・スパニョラ(キアラ)
(津川主一 訳詞)昭和27年 希望のささやき(ホーソン)
(津川主一 訳詞)       夢路より(フォスター)

 私は子供の頃、東京世田谷三軒茶屋の明薬通り(明治薬科大学)に家が面しており、夕方学生達がコーラスしながら帰って行くのを眺めていたものである。その辺が私の原点で、そのあと高校の音楽でのコ-ラス、大学の頃の歌声喫茶、就職先のコーラス部とコーラスとの付き合いが多々あった。その中で「舶来唱歌」のジャンルの曲が一番思い出に残っている。

 私の「舶来唱歌」に関するCDを以下に紹介する。
(1)「ローレライ/世界の愛唱歌」<ビクター>
    東京混声合唱団やボニージャックスなどによるベストアルバム。
    立川清登・中沢桂・中村健・木村宏子らなつかしい歌手の声も聴ける。
(2)「女性コーラス愛唱歌全集~世界のうた1、2」(東京レディース・シンガーズ)<キングレコード>
    舶来唱歌は女性コーラスが一番ピッタリする。全40曲収録。
    東京レディース・シンガーズは1985年に創立された声楽専門家による合唱団で、
    現在日本最高の女性コーラスグループであろう。
(3)「歌のつばさに~世界のメロディー」(島田祐子/ボニージャックス)<ソニー>
    私の好きなボニージャックスの歌声も推薦できる。
(4)「翻訳唱歌集『故郷を離るる歌』」(藍川由美)<デノン>
    まさに舶来唱歌集。声楽家藍川由美の日本歌謡シリーズのひとつである。
    主要な舶来唱歌が収められている。中野振一郎のチェンバロ伴奏が日本語本来の
    持ち味と良くマッチしている。
(5)「なつかしき愛の歌~堀内敬三の名訳詞による欧米名歌集~」(東敦子)
    オペラ歌手が歌うのも、スケールの大きさを感じる。
(6)「堀内敬三の名訳による懐かしの名歌集」(グループ・ロブ)<ビクター>
    堀内敬三の名訳ばかりを集めた芸大卒業生グループの歌。












舶来ソング その1~懐かしき良き時代の「舶来歌謡」

2007年06月14日 | 歌謡曲
 「舶来歌謡」というのが、昭和初期あたりに大変流行した。舶来をハイカラとかモダンとかに置き換えて見ると、当時ハイカラさんとかモダンガールとか出現していた時代である。「舶来歌謡」というのは当時欧米でヒットしていたタンゴやシャンソンやポピュラーソングなどに日本語訳詩をつけて歌謡曲風に味付けしたものである。欧米文化が入り込みつつある時期にこの歌謡曲はもてはやされた。
 戦後も欧米文化が町にあふれ出すと同時に、この種の歌謡曲は憧れと希望をもってもてはやされた。私は戦中生まれで昭和初期は知らないが、舶来歌謡は何故か懐かしい響きを感じる。あの頃は実に音楽が巷でスイングしていたのである。今思うと何とも羨ましい時代だと思う。私は学生の頃から音楽の時間で取り上げる曲やラジオから流れるメロディで知らず知らず口ずさんだり聴いていたようである。
 最近、当時の復刻CDや後のカバー曲のCDなどを良く聴いている。これがなんとも耳に心地よいのである。今日はこれらを紹介したいと思う。

(1)「歌・舶来小唄」(ボニー・ジャックス)<ソニー>
 大好きなボニージャックスのくせのないハーモニーが舶来歌謡にピッタリである。舶来歌謡の主だったのが収録されている。日本に移入されヒットになっているが、移入元の本国では全く関心がなく忘れられている曲も少なくなかった。
 全曲目を紹介すると、
  1 メヌエット(ボッケリーニの有名なメヌエットをハミングコーラスで)
  2 蒲田行進曲(昭和4年の映画主題歌で原曲は米ミュージカル、
     その後松竹キネマの所歌。1982年映画化)
  3 モン巴里(昭和4年シャンソンからの移入)
  4 ラ・スパニョーラ(イタリアの曲。戦前移入され三浦環らが愛唱した。
     私は東敦子のソプラノを愛聴している)
  5 月光値千金(1930年代にジャズが大挙して日本に入ってきた時代の曲。
     ディック・ミネが歌っている)
  6 ラモーナ(米無声映画の主題歌からの移入。昭和11年ディック・ミネが歌う)
  7 これぞマドロスの恋(1931年(昭和6年)のドイツ映画「狂乱のモンテ・カルロ」の主題歌。
     昭和9年奥田良三の歌で普及)
  8 アイルランドの娘(1929年米映画主題歌。1931年日本公開、ディック・ミネが歌う、
     古き佳き時代の雰囲気をもつ)
  9 アマポーラ(1922年メキシコの曲。昭和12年淡谷のり子が歌った。
     大変美しい曲でポピュラー演奏のスタンダードナンバー)
  10 りんごの木の下で(1905年アメリカの曲。日本でディック・ミネが歌いヒット)
  11 上海リル(昭和9年公開映画の主題歌。そのあとディック・ミネが歌った)
  12 カプリ島(イタリアのカプリ島をタイトルにしたタンゴだがイギリス製。
     ディック・ミネ、淡谷のり子らが歌った)
  13 モンパパ(エノケンが歌っていた)
  14 山の人気者(イギリスからの移入。灰田勝彦が歌った。
     本国では廃れてしまっている)
  15 ビア樽ポルカ(チェコの曲。1939年世界中で大ヒット。昭和15年藤山一郎が歌った)
  16 ダイナ(アメリカのジャズ。昭和10年ディック・ミネでヒットした)
  17 タイガーラグ(アメリカの古いジャズ曲)
  18 エストレリータ(1913年メキシコ。ポピュラー演奏のスタンダードナンバーになっている、
     大変美しい曲)
 
(2)「メモリアル大全集」(ディック・ミネ)<テイチク>
 舶来歌謡を沢山歌ったのが、ディック・ミネである。各新譜レコードをリマスターしてCD化したので、思ったほどノイズがない。ディック・ミネの若い時の声はなかなか甘く軽やかな声で舶来歌謡に合っている。この歌手はレパートリーが広かったようで、ジャズ、ポップス風から流行歌、演歌まであり、ヒット曲には”愛の小窓”・”人生の並木路”・”旅姿三人男”などがある。

(3)「浪漫街道1~17」(堀内博雄と東京軽音楽倶楽部)<コロムビア>
 舶来曲を含め、タイトルを見ただけで懐かしさがこみ上げてくる曲ばかりを集め、ベテランのスタジオ・ミュージシャンが集まってできた楽団による演奏。的確な編曲が心地よい。当初CD2枚の予定が大きな反響の後押しで、なんと17枚のシリーズになったということである。演奏は次々とリード楽器が交替し、それぞれの名手たちの腕を存分に引き出す工夫がこらされている。

(4)「なつかしき愛の歌 もう一つの日本歌曲」(東敦子(ソプラノ))<ポリグラム>
 ソプラノ歌手が歌うのも曲の良さをきわだたせるものである。「舶来歌謡」より、よりクラシック調の「舶来歌曲」といったジャンルも明治から大正・昭和初期とさかんに歌われた。このCDでは今回のテーマ「舶来歌謡」に該当するのは”ラ・スパニョーラ”だけで、あとは「舶来歌曲」で”君よ知るや南の国”・”ホフマンの舟歌”などなど。「舶来歌曲」は次回のテーマで取り上げたい。



 



私の好きなピアニスト 上原彩子

2007年06月11日 | クラシック音楽
<プロフィール>
1980年香川県高松市生まれ、岐阜県各務原市出身。今年27歳。
幼少時からピアノを始め、1990年よりヤマハマスタークラスに入会。数々のコンクールで優勝を果たし、2002年、第12回チャイコフスキー国際コンクールピアノ部門で日本人として初めてかつ女性として世界で初めての優勝を果たし、クラシック音楽界のみならず各方面で話題を呼んだ。音楽大学に入らず、ずっとヤマハで勉強したというのも異色の存在である。
以後、世界各地の著名なオーケストラとの共演を重ねている。また、日本人ピアニストとして初めてEMIクラシックスとレコード契約を結んでいる。

細めの指から豊かで精緻な音色が奏でられ、表情豊かな演奏は既に上原スタイルを形づくっている。上原の演奏はCDで聴くよりTV,DVDで観て聴いたほうが良い。

(2003/2 NHK-3CH放映)
2002/11 チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 円光寺雅彦/東京フィルハーモニーo
(2004/5 NHK-1CH放映) ピアニスト!上原彩子・23才
(2006/11 NHK-BS2放映)
2006/11 モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番 ルイージ/ウィーン交響楽団

ウィーン交響楽団と競演したモーツァルトの協奏曲は大変すばらしく、何回も繰り返し観て聴いている。

実際のコンサートは未だ観てないので、コンサート情報を時々チェックしている。



南千住 尾花(うなぎや)

2007年06月02日 | 散歩
 うなぎで有名な「尾花」、南千住駅から線路際歩いて5分程のところにある。
土曜日のせいか、店の中庭をぐるりと回るような待ち行列ができていた。
約1時間待って、やっと食事することができた。
うなぎは天然ものだそうで、柔らかくふっくらした仕上がりである。
写真にはないが、うなぎの白焼きも美味であった。




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