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逗子:長者ヶ崎から蘆花記念公園

2016年06月01日 | 散歩
 遠出の日帰り散策。逗子市の泉鏡花・徳富蘆花なじみの故地を訪ねた。
松戸8時出発。


逗子駅10時20分

<秋谷の立石>
 「長者ヶ崎」の南に続く秋谷海岸がある。入り江や岩礁など、変化の多い海岸線を持つ三浦半島のなかでも、比較的単調で、女性的ななだらかな弧を描いた海辺を作り出している。
その単調な海辺に、ひときわ異彩を放っているのが、秋谷の立石と名付けられた高さ約12メートル、周囲約25メートルの巨岩であろう。海岸に近い海中に孤立して、足元に広がる岩礁とともに波に洗われ、古くから秋谷海岸の景勝とされてきた。
明治四十一年(1908年)に書かれた泉鏡花の「草迷宮」は、この秋谷海岸一帯を舞台にしたもので、鏡花特有の幻想的で美しい世界を描いている。
 

秋谷の立石と碑


秋谷の立石
秋谷海岸から立石を望む

<子産石>
子産石(こうみいし)
国道134号線沿いの「子産石」バス停のすぐそばに直径1mの子産石がある。
子を産み出す石ということから、主婦の紙、安産の神が宿す石として崇拝されて、子供に恵まれない女性が子産石をなでた手で腹をさすると懐妊するとか、妊婦が石で腹をなでると安産になるなどの伝承が残っており、
裏の海岸で昔から何故か丸い石が砂浜や岩場からぽろっと出て来て崇められている。


泉鏡花:草迷宮の一節
「あの、岩一枚、子産石(こうみいし)と申しまして、小さなのは細螺(きしゃご)、碁石(ごいし)ぐらい、頃あいの御供餅(おそなえ)ほどのから、大きなのになりますと、一人では持切れませぬようなのまで、こっとり円い、ちっと、平扁味(ひらたみ)のあります石が、どこからとなくころころと産れますでございます。」





白壁の向こうに海が、ギリシャ風景色

<長者ヶ崎>
 三浦半島の中央丘陵部の尾根が、相模湾の海上に向かって、大きく崩れ出したように突き出ている。泉鏡花は「草迷宮」でこの地を蛇に譬えつつ、おどろおどろしくみずみずしく描いている。鏡花は長者ヶ崎とは呼ばず大崩壊(おおくずれ)と呼んでいる。


長者ヶ崎が見える
 三浦の大崩壊(おおくずれ)を、魔所だと云う。
 葉山一帯の海岸を屏風(びょうぶ)で劃(くぎ)った、桜山の裾(すそ)が、見も馴(な)れぬ獣(けもの)のごとく、洋(わだつみ)へ躍込んだ、一方は長者園の浜で、逗子(ずし)から森戸、葉山をかけて、夏向き海水浴の時分ころ、人死(ひとじに)のあるのは、この辺ではここが多い。(青空文庫「草迷宮」より)


六代御前の墓
平清盛の曾孫にあたる平家最後の嫡男である六代御前の墓。12歳で捕らえられ、命だけは助けてもらい修行に専念するも、26歳で殺されたという。


旧脇村邸
昭和9年に三井物産常務取締役であった藤瀬氏の別荘として建てられ、 当時の景観が残る歴史的な建築物。その後、東京大学教授の脇村氏が購入し、住んでいた。


旧森村邸から逗子市郷土資料館へ、ハイキングコースをたどる
裏山の急な登り道、この裏道は思った以上のアップダウンが続く険しい道で、やっとこさ資料館に到着した。

<郷土資料館>


郷土資料館の建物は、大正元年に横浜の実業家の別邸として建築されたと伝えられ、大正6年からは、徳川宗家第16代当主家達
の別邸として使われた由緒あるものという。


室内から逗子湾の展望
天候しだいでは、江ノ島の向こうに富士山を遠望できるというが、今日はあいにく望めない。


展示コーナー
逗子ゆかりの文学作品に関する展示のほか、実際に市内で使われていた調度品などの民俗資料、市内の遺跡から出土した資料などを展示。


桜貝の唄の展示


不如帰の掛け軸
この掛け軸は徳富蘇峰の書によるもので、逗子湾に建つ不如帰の碑は、この書を写したもの。


蘆花記念公園入口、路上に寝そべる猫たち


右が蘆花・独歩ゆかりの地碑
左は徳冨蘆花の狂歌「青いくも白い雲同じ雲でもわしや白雲よわかまゝ気まゝに空をとぶ」碑
田越川沿いに建つ。ここは明治の文豪徳冨蘆花、国木田独歩が一時期を過ごした貸し家業「柳屋」があったところ。

渚橋わきのレストランで遅めの昼食をとり、逗子駅にから帰路、松戸へ。

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