それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

「笑ってはいけない」のブラック・フェイス問題

2018-01-04 18:02:20 | テレビとラジオ
 難しい。すごく難しい。この問題を論じるのは難しく、そして苦しい。

 しかし、私は考えなければならない。

 ブラック・フェイスは欧米では差別の象徴そのものだ。

 そして、日本でもそれを輸入した歴史があった。

 ブラックフェイスと人種差別については、すでにハフィントン・ポストのこの記事がすべてを語っている。



 だが、フィフィ氏のツイッター上での意見も大変興味深い。

 要するに、日本人であれ誰であれ、黒く顔を塗ったとしても、黒い肌が美しいと考えるならば、差別とは捉えないはず。という主張である。

 ハラスメントは、受けとる側の主観や文脈に依存する。

 たとえば、ある女性が「君は胸が小さいね」と言われたとする。

 この場合、胸が小さいことを美しいと考えるならば、受け取る側としてはハラスメントではない。

 逆に、胸が小さいことを気にしている場合には、ハラスメントになる。

 この場合、「小さい胸を気にしている人」が悪いのか。それとも「胸の大きさについて言及した人」が悪いのか。

 たとえば、ある男性が「君は童貞らしいね」と言われたとする。

 この場合、童貞は「貞操を守る素晴らしい人物」と捉えるならば、受け取る側としてはハラスメントではない。

 逆に、童貞を気にしている場合には、ハラスメントになる。

 童貞を指摘した人物が「童貞は素晴らしい!」と度々公言している場合でも、

 受け取る側が屈辱的だと捉える場合、それは受け取る側が悪いのだろうか。



 しかし、こうも考えられる。

 浜田氏が女性に扮装していることは、女性を差別していることを意味しない。

 浜田氏の女装が面白いのは、浜田氏の日常の格好と大きな隔たりがあるからである。

 同じことがエディ・マーフィの扮装についても言えるのではないか。

 多くの視聴者は、エディ・マーフィを笑ったのではなく、浜田氏の日常の格好とのギャップを笑ったのかもしれない。

 もしかすると、このように考え、大いに笑ったアフリカ系の人もいたかもしれない。



 では、このように考えず、自分の顔の特徴が笑われたと思ったアフリカ系の人は、この人の認識が悪いのだろうか。

 浜田氏やスタッフの意図を理解できなかった、あるいは理解できてもなお悲しい気持ちになった人が悪いのだろうか。



 では、もしドイツで、ヨーロッパ系のコメディアンが東アジア系日本人の顔だちを簡単なメイクで作って、侍の格好をして、

 他のコメディアンに笑われていたら、日本の人たちはどう思うだろう。

 どうも思わないかもしれないし、一緒に笑うかもしれない。

 ならば、もしその番組を見る直前に、ドイツのカフェで人種差別的な言葉を投げかけたられた後だったら、同じように笑えるだろうか。



 では、もしコメディプログラムではなかったら、どうだろうか。

 たとえば、日本に生きるアフリカ系の人をテーマにしたドラマで、主人公を演じるのが小栗旬。

 小栗はメイクなどを駆使して、日本社会に生きるアフリカ系の人を演じる。

 この場合、笑わせる話ではないが、問題はないだろうか。

 おそらく、なぜアフリカ系の俳優を使わないのか、という疑問が出るだろう。



 それとは別に、こういう論点もある。

 日本のメディアのなかでアフリカ系の人が一切映らないようにしたら、どうなるか。

 まったく日本に存在しないかのように、テレビもラジオも新聞も言葉や写真や映像を紡ぎ続けたら、どうだろうか。



 私は問題提起をしたい。

 たとえ、その問題提起が何らかの前提をはらむものであっても。

 私は中立を装うつもりはない。

 それでも、ここでは問題提起にとどめたい。

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