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「神聖かまってちゃん」というホラー:時代の狂気の結晶、ゆえに最高の説得力

2011-02-21 18:12:01 | コラム的な何か
去年から音楽シーンを賑わせている「神聖かまってちゃん」。

ファンの熱狂ぶりがとりわけ目を引く。

そういうわけで、かまってちゃんのことを議論しているブログは非常に多い。そもそもネット上から火がついたバンドである。

全然かまってちゃんのことを知らない私がここに彼らのことを書くのは、おこがましい。

ただ、このブログは日記でもあるので、今ひとことでもいいから書いておくべきなのかなと思う。

というのも、彼らが今注目されているという現象そのものに重要な意味があるからだ。



「神聖かまってちゃん」という名前からしてタダモノではない。危ない匂いがかなりする。

彼らの楽曲の私なりの感想を一言で言うと、「ホラー」だ。

しかし、それは作り物の「ホラー」ではない。日本の若者の多くが共有している「狂気」からくる恐怖なのだ。

狂気と言えば、パンクバンドの「犬」(作家の町田康がボーカルだった)も相当な狂気を感じるし、当ブログが一押しし続けている「嘘つきバービー」もなかなかうすら寒いものを感じる。

しかし、かまってちゃんの「狂気」は常軌を逸している。というか、今の若者の「狂気」の集合体というか、純化されたもの(あまりにも適切に楽曲にされてしまったもの)、という感じがする。

そういうわけで、彼らの楽曲は特定の人々に、ものすごく高い説得力を持っている。

例えば、部屋に引きこもって「世界が終わればいいのにな」(マイルドに書いてみたが)と強く思っている人たち、とかに対してである。



彼らの楽曲の歌詞は、破壊力が尋常ではない。

例えば、「天使じゃ地上じゃ窒息死」という凄い題名の楽曲では、歌詞の90%が「死にたい」である。

安直に読めば、自殺願望とその葛藤がそのまま歌われている。曲もぴったりの疾走感と悲壮感が漂う陰鬱なものだ。

逆に、「夕方のピアノ」という楽曲では、「死ねー」が繰り返される。ライブでは、ファンが「死ねー」をコール&レスポンスするらしい。

こうした破壊的な歌詞に対して、楽曲は妙にきれいなものが多い。特に、いわゆる「裏メロ」と呼ばれる旋律が耳を引く。裏メロとは、大ざっぱにいえば、メインのメロディとは別に、メロディとうまくかみ合うようにできている旋律のことである。

彼らの楽曲は、たとえメインのメロディが破壊的で、叫びみたいなものだけで構成されている場合でも、裏メロは常にきれいだ。だから、余計ホラーなのだ。

ボーカルは音声をひずませているというか、加工しており、そこがストレートに怖い。ひずんだ男性の声だったり、高い女性の声だったりする。

その歌の不安定さ、声の不安定さは、アイデンティティの不安定さそのものに思える。

しかし、怖さの要因は、それ以上にボーカルの表現力が異常に鋭いことだ。この人のライブ映像などを見ていてもそうだが、眼や声が真剣で嘘がない。

ある意味、すごく誠実なのだ。受けを狙おうとか、そういうさもしい精神ではないのだ。

歌詞を冗談で書いているのではないんだな、本気で心から歌っているんだなと、視聴者や観客は思う。だから共感する人は共感するし、恐怖を感じる人は恐怖する。

普通にインタビューや自ら配信している映像から伝わる話し方を見ると、そういった感想が裏付けられてしまうかのようで、余計に衝撃を受ける。

彼らの頭脳である「の子」の話し方は、論理的だが、どこか破綻している。あるいは、破綻寸前の緊張感がある。

そもそも「の子」という名前も特徴的だ。「男の子」でも「女の子」でもない、というだけでなしに、そこには自分と自分をとりまく社会に対する「違和感」が凝縮されているような印象を受ける。私もその違和感にはとても共感できるのだが、全く彼ほどではない。



この「神聖かまってちゃん」と類似したホラー感を感じたものがもうひとつある。

それが「Kinder」という無料のホラーゲームである(現在は、Re:Kinderというリメーク版のみがプレイ可能だそうだ)。

このホラーゲームは、内容がストレートにホラーなのだが(詳細は述べないが)、私が感じたの恐怖というのは、むしろそのゲームの作者自身が抱えているかもしれない狂気で、そこが「かまってちゃん」のイメージとどうしても重なってくる。

このゲームの中では、主人公の子供たちがプレイヤーのプレイミスで、ものの見事に殺されてしまう。殺された方がなかなかすごい。何より設定上の世界観の閉塞性がすごい。そうした恐ろしい展開は、ゲームと言っても笑えないたぐいのレベルである。

それは欧米で流行っている戦争ゲーム(テロリストになって一般人を皆殺しにするという18禁ゲーム)とは、種類の異なる異常さである。そこには閉塞感がない。

「かまってちゃん」も「Kinder」も、ネット上に流れている若者の閉塞感や苦悩、狂気を結晶化したもののように思えて仕方ない。そのリアルさの恐怖こそ、この時代を象徴するものではないだろうか。

村上龍の『共生虫』は、私としては本当に見事にそうした若者の狂気とある種の強さを描いていると思うのだが、まだ描き切れていない狂気の側面もことによるとあるのかもしれない。

私は「神聖かまってちゃん」の楽曲を聴きながら、そう思わざるを得なかった。

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