それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

椎名林檎:妻の嫌いと私の好き

2014-05-26 09:40:05 | テレビとラジオ
WOWOWで椎名林檎の企画番組が流れた。今度のアルバム「逆輸入」のプロモーション企画である。

招聘したアレンジャー陣と椎名が宴会をするというもの。

正直、あの3倍の時間にして、宴会の模様をノーカットで見たかった。



それはともかく、私の妻は椎名林檎が嫌いだ。おそらく積極的に嫌いなのだ。

他方、私は椎名林檎が好きである。itunesのなかにも彼女の曲が沢山入っている。

しかし、私は初めから「妻の椎名林檎嫌い」を積極的に受けれいれ、尊重している。

今回のプロモーション企画の番組を見ると、椎名林檎の人間としての難しさが良く出ている。

大人で成熟した女性を目指していた椎名はいつの間にか年齢を重ね、肉体的にも成熟した。

若い時分に良いもの、優れたものを爆発的に吸収し、その先にあるものを彼女はおそらく見ているのだろう。

彼女の活動には結果が伴ってきた。彼女の笑顔には、その自信が満ちている。

品のある女性をしたたかに演じながら、強固で一筋縄ではいかない彼女の自我が豪華なアレンジャー陣を前にちらちらと垣間見える。

どこか母性的で、しかし妖艶。にもかからず気品がある。なのに、どこか全て嘘っぽい。

芸能とはいわば、水商売。その水の感じが彼女の魅力そのものなのである。



ひとりの消費者として、私は彼女の音楽は素晴らしいと思う。彼女の音楽は大衆的だが、エキゾチックで妖艶。決してシンプルにパッケージ化されていない、どこかにはみ出る積極性がある。

その楽曲に独特の視線、あまりにも的確でしかし意表を突いた言葉が乗る。

音楽家としても作詞家としても、彼女はモンスターである。



彼女の一種の「アクター」としての嘘っぽさや面倒くささが嫌いだとしても、それは決して不思議ではない。

つまり、それは臭いにおいのチーズのような好き嫌いなのである。

悪趣味と捉えるか、美味とするか。それはどちらにも振れ得る。

マイノリティの主体性の獲得?:アウトデラックス

2014-05-16 10:00:22 | テレビとラジオ
近年のテレビでは、文化人を含めて「素人」をプロの芸人がボケとして扱い、面白くするものが増えている。

そうした仕組みを取っているバラエティ番組は本当に多い。

けれど、そのなかにあって、「アウトデラックス」のやり方はずば抜けている。

この番組には、自閉症スペクトラムのなかで、知的障害があまりない人たちが沢山出てくる。

また、社会不適応になりかけている、おかしな「癖」(へき)をもった人びとも多く出てくる。

これまでテレビ番組では、そうした人々は登場しないか、登場しても「正常」の振る舞いを強制されるなどしてきた。

それを「アウト」というカテゴリーを使って、「面白い人たち」として表象するのが、この「アウトデラックス」なのである。

そもそも、司会者がマツコデラックスとナイナイ矢部。

コミュニケーションに障害を抱える登場人物たちを見事にさばいていく。



この番組には、テレビのプロも素人も両方登場する。

しかし、この番組が面白い瞬間は、登場人物たちが自分の言葉を心の底から出した瞬間だ。

テレビのプロは、皆、自分の役割を知っていて、話術のテクニックを基に言葉を出す。

そのテクニックを楽しむのが、視聴者の醍醐味である。

だが、プロアマ問わず、登場人物が心の底から「これが面白いんです!」「それは受け入れられない!」などと叫ぶ場面は、作り手の意図を超えて、奇妙なリアリティを生み出している。

レギュラーメンバーのひとり、瀬戸一樹の言動が私にはとても素晴らしく思えた。

彼は同性愛者の芸人なのだが、必ずしも同性愛の部分を売りにしているわけではない(そこが「アウト」の要因のひとつではあるが)。

見た目には全く愛嬌がなく、ひどくニヒルで、いつも不機嫌である。

他の登場人物に対する言葉は、冷静で客観的でしばしば批判的である。

その彼が時たま見せる自身の葛藤、そこから出てくる言葉の数々は、今までのバラエティで見たことのない、「何か」だった。

彼の苦悩は、心に訴えかけるものがありながら、同時にすこぶる笑えるところもあり、とても一言では言い表せない何か面白い瞬間だった。



日本では多様性がひたすら否定される傾向にあるが、このアウトデラックスの姿勢は社会的にマージナルな人々を「アウト!」と言いながらも、実質「肯定」しているように見える。

どんな有名な人でも、市井の人でも、みんな何らかのかたちで「アウト!」なのであり、それは単なるスペクトラムにすぎないのだと、この番組は伝えている。

もちろん、この番組が全てのマージナルな人を扱っているわけではない。

そこには新たな境界線、つまり、アウトデラックスですら呼べない本当の「アウト」と出られる「アウト(=セーフ)」の人々の境界線が登場している。

そうだとしても、僕はこの番組は素晴らしいと思うのだ。

いかなる社会においても、境界線はなくならないのだから、それに果敢に挑戦し、引き直し続けることしか、今我々に出来ることはない。

井戸端会議というメタ視点がドラマを救う:THE ドラマカンファレンス

2014-05-08 08:29:36 | テレビとラジオ
「THE ドラマカンファレンス」という番組がCSでやっていた頃、僕は久しぶりにドラマを見ていた。TBSの「クロコーチ」だった。

ドラマカンファレンスが終わって(完全に番組として終了して)、僕はドラマを見るのをやめた。仕事が忙しいのは理由にならない。



ドラマカンファレンスとはCSでやっていた番組で、一般の女性視聴者とともに、鈴木おさむと、つんく♂が現在放送中ないし放送予定のドラマについて井戸端会議する、というものである。

一般の女性視聴者は本当に一般人である。

見た目も一般人だし、経歴も一般人だし、発言も批評には届かないクオリティだった。

けれど。僕は彼女たちの井戸端会議がとても好きだった。

彼女たちのドラマの見方は、各々で偏っている。恋愛ドラマ至上主義だったり、特定の俳優への思い入れであったり。

けれど。僕は彼女たちの井戸端会議がとても好きだった。

ドラマカンファレンスは、ドラマの見方には様々な角度があり、「面白くないこと」も「びっくりするくらい面白くないなら、逆に面白い」ということがあり得る、と教えてくれた。



ドラマカンファレンスは放送する前の段階での予想が、非常に特徴的だった。

見てもいないのに、あーだ、こーだ、と言い合うのである。

失礼極まりないのである。

けれど。それが良かった。

それはまるで競馬の予想のようであり、来年のワインの出来を占うかのようでもあった。

ドラマに期待する/しない、予想を裏切る面白さ/つまらなさ、という新たな基準を加えた。

それがドラマカンファレンスだった。



ドラマカンファレンスには、TVドラマへの愛情が溢れていた。

アメリカの有名なドラマシリーズと比べれば、日本のドラマは低予算だ。

脚本のクオリティも本当にマチマチだし、平均すると結構ヒドイ。

脚本学校で何を教えているのか不思議に思うくらいだ(本当に)。

けれど、いや、だからこそ、面白い時の喜びはひとしおである。

それに、ここはアメリカではなく、日本。やはり日本の社会を描くのは日本のドラマなのである。

つまらないドラマもある。でも、ドラマを見ることは決してつまらないことではない。と、ドラマカンファレンスは主張した。



ドラマカンファレンスは、危険な試みだった。

ドラマを真正面から批判するし(視聴者代表が個人的に)、放送局をまたいでドラマを扱う。

放送局も企業も得をしない、と思われるかもしれない。

だからCSにしか出来ない試みだった(ネット番組でも可能だろう)。

けれど。それは間違っている。

TVドラマにはドラマカンファレンスが必要だ。

井戸端会議があるからこそ、ドラマの新たな視聴者層を掘り出せる。



同じことがTBSラジオのウィークエンドシャッフルにも言える。

パーソナリティの宇多丸が映画を批評することで、映画の見方が変わった人が大勢いる。

おそらく、あのラジオによって、見捨てられかけた良質な邦画・洋画が集客できたりした。

僕らはドラマや映画を見る行為を「論じたい」のだ。

ドラマや映画を見ている我々を「見る」メタ視点が欲しいのだ。

それが井戸端会議。

もう一度、あのドラマカンファレンスを。

「童貞」から深夜ラジオを解放した革命家:久保・能町

2014-05-06 12:46:11 | テレビとラジオ
久保ミツロウと能町みね子のコンビの魅力を説明せよ、と迫られると、正直難しい。しかし、その魅力はかなり強烈だ。

久保は代表作「モテキ」で知られる漫画家で、能町は新進気鋭のエッセイストである。

ふたりはラジオ番組オールナイトニッポンの火曜パーソナリティを務め(2014年3月で終了)、現在は「久保みねヒャダこじらせナイト」に作曲家の前山田健一とともに出演している。



久保も能町も女性である(能町は元は「男性」であったが、それはふたりの魅力とあまり関係がないように思える)。

遠回りにも思えるが、深夜ラジオと女性の関係から考えてみる必要がある。

深夜ラジオで、ミュージシャンではない女性がパーソナリティを務めるのは、かなり珍しいと私は思う。

どういうわけか、深夜ラジオは「男性」の領域である。

しかし、これは不自然なのである。

なぜなら、女性がラジオを聴かないわけでもないし、女性が深夜に寝ているわけでもないからである。

ならば、なぜ深夜ラジオのパーソナリティにミュージシャン以外の女性が少ないのだろうか?

ひとつは、女性芸人が絶対数において少ないということがある。

もうひとつは、深夜ラジオから「女性」という存在がいつの間にか排除されてきたのかもしれない。

すなわち「童貞」の対概念として「女性の排除」が必然的に構成されてきたのではないか、ということなのである。

深夜ラジオにおける「童貞」概念は、性的欲望の抑圧からの逃避の鍵概念だった。

「(実物の)女性の排除」は、深夜ラジオが不可避的に欲していたものではないか、と私は推測するのである。



久保と能町が「こじらせ女子」という概念を全面に押し出したことは、ひとつの革命だった。

深夜ラジオの中核的概念だった「童貞」に対して、女性が主体として構成され得る新たな概念を提示したのだから。

「こじらせ女子」は無論、彼女たちの発明品ではない。

しかし、深夜ラジオにその概念を持ち込んだのは、偉大な功績なのである。



ここで明らかなことは、女性も永遠に続く(日本の)日常のなかで様々な「自意識」に苦しんでいる、ということであり、その代弁者がメディアのなかに求められている、という当たり前の現実である。

自意識と抑圧と戦う現代人の心性は、言うまでもなく女性にも(そして第三の性にも)、ことによれば彼女たちにこそ存在する。

さらに言えば、男性/女性という二分法を超えて、これまでメディアのなかで見逃されがちだった「新たな自意識の領域」を久保と能町はメディアに持ち込んだのではないか。

久保と能町がその全ての需要を引き受けるなどということはないし、彼女たちには全くその意識はないはずである。

だが、少なからぬ私は彼女たちが提示する視点や問題意識に強く共感している。



彼女たちのオールナイトニッポンは終わった。

だが、まだTVプログラム「久保みねヒャダこじらせナイト」が残っている。

それが我々の目の前にある発見されたばかりのフロンティアなのである。

独特のバディ感、「東京エンカウント」

2014-05-06 09:36:28 | テレビとラジオ
番組のなかで演者がただひたすらゲームをする番組がここ10年でちらほら登場した。

「ゲームセンターCX:有野の挑戦」はそのはしりである。

演者がただゲームをするだけ、と侮ることはできない。

ゲームをすることで人間ドラマが見えてくる。それが新しいタイプのゲーム番組の魅力なのである。

「ゲームセンターCX」はあまりにも人気が出て、ゲームはもちろん、遂には映画まで出来てしまった。



「東京エンカウント」も演者がゲームをただひたすらする番組である。

プレイするのは、声優の杉田智和と中村悠一である。

この番組はアニメ専門チャンネルでしか見ることができない。だから、おそらく日本全体ではほとんど知られていない番組である。



この番組はかなりマニアックである。

プレイするゲームの主力は、どういうわけかSNKのゲームばかり。もちろん、それ以外もプレイするのだが、みんなが知っている、一度はやったことのあるレトロゲームはかなり少ない。

演者の杉田と中村は、ゲームマニア。ちょっと詳しい、というレベルではないくらい、ゲームをやってきた二人である。腕前もかなりのものだ。

これに対して、「ゲームセンターCX」の場合、プレイするのはレトロゲームで、30代~50代の心にぐっとくるコンテンツが目白押しである。

また「ゲームセンターCX」の場合、演者の有野晋哉(よゐこ)はゲームが下手。その彼が難しいゲームを努力と信念で克服する様がこの番組最大の魅力である。

このように見てみると、「ゲームセンターCX」がかなりポップなのに対して、「東京エンカウント」は本当にマニア向けの番組に思える。



しかし、である。この「東京エンカウント」は私のようなゲーム弱者にも面白いのだ。

なぜなのか?

理由は、演者ふたりの「バディ感」にある。

バディ感とは、ふたりの「相棒」としての関係性が見ていて魅力的、という意味である。

例えば、小説で言うと「シャーロック・ホームズ」はバディ感が満載である。

もっと本番組に近いところで言えば、「あぶない刑事」のタカとユージがそれだ。

杉田と中村は、良いコンビネーションを見せる。

ゲームの腕前、かけあい、ビジュアル。どれをとっても最高なのである。

杉田のボケを中村がさばく。杉田の言葉のセンスには、声優特有の痛い感じがない。

また中村のドライな感じが杉田の雰囲気とぴったりなのだ。

何よりふたりの声が良い。声優だから、もちろん声はプロのそれだ。

ゲーム内でのアドリブのアテレコは、流石としか言いようがない。

もちろん、ゲーム内でのコンビネーションも最高だ。必ずしもうまく行きすぎないのが、また丁度よい。



残念ながら、「東京エンカウント」は24回をもって1年前に終わってしまった。

しかし、である。

一度の特番を経て、「東京エンカウント弐」が遂に復活した。

もし興味が出た人がいたならば、ぜひとも一度くらいは見てほしい番組である。