TBS「水曜日のダウンタウン」で「アフリカ人ならどの国のアフリカ人だか分かる説」という放送が非常に問題含みだった。
これは単純な批判の話ではないから、慎重に読んでもらいたい。
番組では、ヨーロッパ系の人に他のヨーロッパ系の人たちの出身国を「見た目」だけで当てさせるとともに、同じことをアフリカ系の人たちでも行った。
東アジア系の人がヨーロッパに行くと、必ずと言ってよいほど、出身国を言い当ててもらえない。
そもそも、日中韓およびその他の国々について、それぞれの違いもあやふやで、なんとなく一緒だと思っている人がヨーロッパには多い。
おそらくこうした現象はヨーロッパだけではないだろう。
翻って我々の多くも、アフリカや中南米にまったく同じ状態である。
アフリカや中南米の国の名前を聞いても、それがどこにあるのか皆目見当もつかない場合が多いだろう。
その一方で、東アジア系の国々の違いには敏感で、見た目で国籍が分かるような気がすることもある。
そうした見た目と国籍に関する「感覚」は、社会に広く存在している。
さて、ここでもう一度欧米に話を戻そう。
よく東アジア系の小さい子どもが欧米で言われる嫌なことに、こういうものがある。
「釣り目が中国人、横に細長いのが朝鮮人、下に細長いのが日本人。」これをジェスチャー付きで囃し立てられるのである。
あるいは、私の経験したものでは、通りすがり欧米人に「今の日本人。顔がそういう感じだった。俺は分かるんだ。」とひそひそ言われたこともある(イギリスで)。
これらを聞いてどう思っただろう?
何にも思わないだろうか。それともちょっと嫌な気持ちがしただろうか。
逆のことを東アジア系の人も平気でやっていることも多い。
「あの黒人、肌が白っぽいね。」
「あの黒人、鼻が高くてヨーロッパ系っぽいね。」
「あの白人、ちょっと色が黒くて背が低いからスペイン人かな。」
こういうことを堂々と口にする人もいる。
あるいは、こういうのもある。
学校にアフリカ系の見た目の女の子が同級生にいたとして、
「何人のハーフ?」と聞いてしまわないだろうか。
あるいは「英語できる?」とか聞くこともあるかもしれない。
彼らは見た目から決して日本人とは認められない。
日本人の容姿は、すでに多くの人間のなかで決定済みらしいのだ。
見た目で国籍や出身国を判断しようとするのは、人間の傾向としてかなり強い。
だが、それは多くの場合、相手を不快にする。
とりわけアジア系やアフリカ系は、見た目で人種差別されてきた歴史がある。
疎外されたり、一方的に観察されたり、まるで実験動物か野鳥のようである。
同じ人間として尊厳を認められなかった悔しさを、これまで数多の人々が感じてきた。
何が言いたいのか。
この企画は、日本人が無自覚な、あまりにも無自覚な人種主義的偏見を助長している。
一見すると、アフリカ系の人がアフリカ系の人を見た目で判断しているため、軋轢が少なくなっている。
では、これをもしヨーロッパ系の人がアフリカ系の人にさせたらどうなるだろう?
それは植民地統治時代にすべて実験し終えている。
おかげさまで、(とりわけアフリカでは)科学的根拠がまったくない人種主義に基づく紛争が各地で勃発し続けてきた。
この企画の意図が純粋であるほど、これは大問題なのである。
歴史的に言って、人種主義に基づく大虐殺は、常にそうした純粋さによって支えられてきたからだ。
メディアはこうした間主観的な危険性に無関心であってはならない。
これは単純な批判の話ではないから、慎重に読んでもらいたい。
番組では、ヨーロッパ系の人に他のヨーロッパ系の人たちの出身国を「見た目」だけで当てさせるとともに、同じことをアフリカ系の人たちでも行った。
東アジア系の人がヨーロッパに行くと、必ずと言ってよいほど、出身国を言い当ててもらえない。
そもそも、日中韓およびその他の国々について、それぞれの違いもあやふやで、なんとなく一緒だと思っている人がヨーロッパには多い。
おそらくこうした現象はヨーロッパだけではないだろう。
翻って我々の多くも、アフリカや中南米にまったく同じ状態である。
アフリカや中南米の国の名前を聞いても、それがどこにあるのか皆目見当もつかない場合が多いだろう。
その一方で、東アジア系の国々の違いには敏感で、見た目で国籍が分かるような気がすることもある。
そうした見た目と国籍に関する「感覚」は、社会に広く存在している。
さて、ここでもう一度欧米に話を戻そう。
よく東アジア系の小さい子どもが欧米で言われる嫌なことに、こういうものがある。
「釣り目が中国人、横に細長いのが朝鮮人、下に細長いのが日本人。」これをジェスチャー付きで囃し立てられるのである。
あるいは、私の経験したものでは、通りすがり欧米人に「今の日本人。顔がそういう感じだった。俺は分かるんだ。」とひそひそ言われたこともある(イギリスで)。
これらを聞いてどう思っただろう?
何にも思わないだろうか。それともちょっと嫌な気持ちがしただろうか。
逆のことを東アジア系の人も平気でやっていることも多い。
「あの黒人、肌が白っぽいね。」
「あの黒人、鼻が高くてヨーロッパ系っぽいね。」
「あの白人、ちょっと色が黒くて背が低いからスペイン人かな。」
こういうことを堂々と口にする人もいる。
あるいは、こういうのもある。
学校にアフリカ系の見た目の女の子が同級生にいたとして、
「何人のハーフ?」と聞いてしまわないだろうか。
あるいは「英語できる?」とか聞くこともあるかもしれない。
彼らは見た目から決して日本人とは認められない。
日本人の容姿は、すでに多くの人間のなかで決定済みらしいのだ。
見た目で国籍や出身国を判断しようとするのは、人間の傾向としてかなり強い。
だが、それは多くの場合、相手を不快にする。
とりわけアジア系やアフリカ系は、見た目で人種差別されてきた歴史がある。
疎外されたり、一方的に観察されたり、まるで実験動物か野鳥のようである。
同じ人間として尊厳を認められなかった悔しさを、これまで数多の人々が感じてきた。
何が言いたいのか。
この企画は、日本人が無自覚な、あまりにも無自覚な人種主義的偏見を助長している。
一見すると、アフリカ系の人がアフリカ系の人を見た目で判断しているため、軋轢が少なくなっている。
では、これをもしヨーロッパ系の人がアフリカ系の人にさせたらどうなるだろう?
それは植民地統治時代にすべて実験し終えている。
おかげさまで、(とりわけアフリカでは)科学的根拠がまったくない人種主義に基づく紛争が各地で勃発し続けてきた。
この企画の意図が純粋であるほど、これは大問題なのである。
歴史的に言って、人種主義に基づく大虐殺は、常にそうした純粋さによって支えられてきたからだ。
メディアはこうした間主観的な危険性に無関心であってはならない。
それも人類の歴史ですよ
それを悪い事と捉えてるのはアナタですよ
日本人の自分は目が細かったとしても何にもやましい事はないです
恥ずかしくもないです
例えば、マーク・マゾワーの『暗黒の大陸:ヨーロッパの20世紀』では、単なる人類の歴史であるはずの身体的差異は「客観的」とされた科学(優生学や人類学)と結びつき、特定の集団の迫害に展開してしまったことが描かれている。
では、一体、あなたの議論と私の議論の隔たりは、どうすれば解消できるのでしょう?われわれの間には、何か見落としているものがあるはずです。
あの場にいた人たちは企画をわかってて来てる人たちだから差別だとか不快だとか思わなかっただろうけど
町でいきなりひそひそ話されていたら不快になるだろうなとも思った
これから気をつけよ~
誰がどのような意図で区別を行うのか、区別された側がどのような文脈で受け取るのか、というところに重要なポイントがあり、
ちょっと間違うと、すごい嫌がらせになってしまう危険があるのですよね。私も気を付けます~
かなり的外れな指摘w
白人、黒人、黄色人が互いに相手を見分けるのが困難なのは”わざわざ”議論するまでもないわけで、
だから同じ人種なら本当に見分けるのは容易なのかっていう実験でしょ?
我々は人文地理を語ってはいけないのでしょうか
ところで、街でひそひそ言われるという例えの嫌さの原因は、その内容の性質ではなく、不躾な態度にあるようにも思えます。
ともかく、我々はこのことについて語れるほどには知らないというところでしょうか。