それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

テレビ東京「キングちゃん 冷やし漫才王」:まるで総合格闘技の怖さと面白さ

2017-05-24 09:05:02 | テレビとラジオ
 「キングちゃん」が爆発的に面白い。

 この番組は、お笑いコンビ千鳥の冠番組だ。

 このシリーズは、実は第2期。第1期で終わるかと思われたが、まさかの復活劇なのであった。



 第一期の時点で、かなり面白かった「キングちゃん」。

 第二期では、ますます面白い。

 「キングちゃん」の番組内容は、実のところ、非常に説明が難しい。

 理由はふたつある。

 第一に、この番組は毎回相当に異なる企画内容で勝負してくる。

 第二に、企画内容が幾つかのバラエティのジャンルを混ぜ合わせているため、非常に複雑になっている。



 今回放送された「冷やし漫才王」も、一見すると非常に複雑だ。

 まず、今回の演者は千鳥をはじめ、腕の立つ漫才コンビ4組(銀シャリ、三四郎、麒麟、そして千鳥)。

 それぞれのコンビが、番組打合せと称して呼ばれたアイドルの女性の前で「ドッキリ」を仕掛ける。

 そのドッキリとは、コンビ間でケンカをするというもの。

 初めて共演するアイドルにとって、大人のおじさんがケンカしているのを見るのは、とても怖い。

 散々場を荒らして、空気を凍りつかせた後で、徐々に会話を漫才にしていく。

 そして、凍りついた空気を一気に暖かいものにしてフィニッシュし、その温度差で雌雄を決する。



 しかし、企画はもうひとつ複雑な要素がある。

 それはケンカの理由やケンカの際に使うワードを「大喜利」で決める、というものだ。

 キングちゃんは、その企画の多くがある種の「ドッキリ」なのだが、そのドッキリの内容を「大喜利」で決める。

 大喜利で出てくる回答は毎回あまりにも突飛だが、実際にドッキリを真剣に演じてみると、思いもよらない化学反応が生じる。



 同番組のプロデューサーがどこかで述べていたが、この番組は芸人さんにとってかなり怖いものだ。

 なぜなら、大喜利から演技まで、ありとあらゆるお笑いの技術をすべて瞬発的に要求されるからだ。

 企画は毎回意味不明に複雑で新しいため、そう簡単に慣れることができない。

 まるで毎回ルールの違う総合格闘技のようだ。

 演者にとっては本当に疲れる番組らしい。



 今回の「冷やし漫才王」では、麒麟の演技力や漫才の技術が爆発的に素晴らしかった。

 本当に凍りついた現場。そこから徐々に漫才に入っていく話芸。最終的に大きく笑うアイドル。

 信じられないほど機転のきく麒麟のふたり。

 めちゃくちゃなお題を沢山出されているにも関わらず、巧みな構成ですべてのワードを散りばめていく。



 もうひとり注目したいのが、三四郎の相田(メガネじゃない方、地味な方)。

 相田は、そのじわっとくる面白さに加えて、サイコパスの芝居が信じられないほど上手い。

 本当にやばい奴なんじゃないかと思うほど、上手い。

 声が微妙に良いものだから、ますますぐっと引き込まれる。

 何かの番組で「サイコパス演技選手権」とかもやってほしいほど、相田の活躍が面白かった。



 百聞は一見にしかず。ぜひ見てほしい「キングちゃん」。

 テレ東の公式サイトで、無料見逃し配信もしているので、ぜひ。
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ワイドナショー、松本人志のテロ等準備罪のコメントについて:批判するのは簡単だが・・・

2017-05-23 08:58:44 | テレビとラジオ
 ワイドナショ―と言えば、最近では芸能人の復帰の場として大活躍している番組である。

 芸人である松本人志がコメンテーターを務めることで、ニュースバラエティとして独特な存在感を示している。

 芸人を中心としたニュースバラエティは大阪では昔から非常に盛んで、それが大阪独自のポピュリズムを支えてきた。

 市井の人々にとって政治や経済のニュースは特段面白くない。

 面白くしてくれるのは、何と言っても一流の芸人であり、この組み合わせは非常に見やすい、というわけだ。

 小難しいニュースを説明してくれるより、芸人がその技術で面白おかしくし、特に極端な意見で盛り上げてくれた方が視聴者は見る、ということだろう。



 一流の芸人の技術は流石であり、私はテレビを見るだけでも唸ってしまう。

 自分の大学の講義であんなに盛り上げることはできない。

 自分は芸人になるための修練など、一秒もやったことがない。

 たとえやったとしても、一流の芸人の技術には遠く及ばないだろう。



 視聴者や観客の感情を動かす技術は、実際、非常に役に立つ。

 演説の天才であったヒトラーでさえ、オペラ歌手に発声を習い、技術の向上に努めた。

 仮にニュースの解説が得意な大学教員がいても、視聴者や観客の感情を動かす技術については素人にすぎない。

 たとえ、毎週数百人を相手に講義をしても、そう簡単に技術は上達しない。

 だから、大学教員が束になってワイドナショ―に立ち向かっても、負けは目に見えている。

 っていうか、勝負にすらならない。同じ土俵に立てもしない。

 

 では、最近話題のテロ等準備罪について、ワイドナショ―で松本氏がどのように発言したか見てみよう。


 松本「僕は、あのぉ、ちょい言うと、〔テロ等準備罪は〕いいんじゃないかなと思ってるんですけどね。

    あのぉ、やっぱり、冤罪もそりゃ多少そういうこともあるのかもしれないんですけど、

    なんか〔テロ等の犯罪を〕未然に防ぐことの方がプラスが多い気がするし、でぇ、段々ふるいにかける網目の大きさが変わってくるんじゃないんですか?」

 東野「今までちょっと網が大きすぎる?」

 松本「ちょっと・・・そうそう。」

 東野「もう少し細かくした方が。」

 松本「かなぁって。僕はちょっとずつ、ちょっとずつ。まさかドローン上げてるだけで〔テロ等を準備している人たちが〕捕まることはないでしょ?」


 このコメント自体、すごく面白いとかそういうわけではない。

 けれど、いつも芸人として見る松本が真剣に考えて一生懸命コメントしていることで、視聴者は真面目に聞くだろうと思う。

 芸人がニュースについてコメントする強みは、面白くするということだけでなく、普段の言動とのギャップが利用できるということもある。



 このコメントの内容には、落とし穴がある。

 誰も興味はないと思うけど、一応書いておく。

 冤罪はどうしても起きる、と松本は認識している。

 ただ、冤罪の被害とテロを未然に防ぐことで得られる社会的利益を天秤にかけてみて、後者の方が上回る、と結論している。

 問題は、少数者の権利や生活と、社会の多数派の利益をこのように天秤にかけることが可能なのか、ということだ。



 冤罪で逮捕される人数は、日本国民のごく一部だろう(昔の中南米の独裁政権みたいにならなければ)。

 けれど、人間だ。

 みんな同じ人間だ。

 人間である以上、生まれながらに自由を享受する権利がある。

 それを破壊すれば、法的な秩序は壊れ、行政権が肥大化していく。

 この時点で、大半の日本社会の人々がチンプンカンプンになって、気絶する。

 簡単に言えば、中国共産党の統治が理想的なので、そこに向かって邁進していくよ、ということだ。

 司法も立法もすべて行政権力によって掌握されて、コネや金が無ければ、大企業や地方の有力者にひどい目に合わされても、誰も助けてくれない国になる。

 福島の原発事故や沖縄の基地問題で明らかなように、一部の人間がどうなろうと東京が安全なら何も問題はない。

 政府にとっての利益は原子力政策や日米安保の維持なのだから、抵抗する人間や邪魔になる人間は出来る限り無視するのがいい。

 そういうふうに国家は動く。

 そうした事例が増えるだけだ。悲しいけど。



 けれど、ここからは全く逆のことを言うが、テロを防止することが重要であることには変わりない。

 テロを未然に防ぐには、どうしても市民の自由を制限することが必要になるかもしれない。

 だから、何かしらの法律は必要かもしれない。

 じゃあ、市民の自由や権利と、市民の安全をどのようにバランスすべきだろうか?



 本当に大事なのは、ここからだが、テレビにこのような深い議論を要求することはできない。

 すでにこの話の途中で、大半の視聴者は白目をむいて気絶しているか、ゾンビになって街を徘徊している。




 それでも続けるなら、こうなる。

 テロ等準備罪は、市民の自由や権利を侵害する可能性が高い以上、悪である。

 冤罪の危険は松本も認めるところだ。

 けれど、もしもテロ対策上、その悪に代わる手段が無いなら、それは仕方がない。そう言えるかもしれない。

 問題は、その悪がどれほどの悪なのか、

 そして、その悪に代わる手段が本当にないのかどうか、である。



 テレビ番組は、このふたつの問題について検討しなければならない。

 けれど、無理だ。

 解説できる研究者を誰がテレビ局まで連れてくる?

 その研究者がまともにテレビで話せるなんて保証がある?

 話せたとして、面白い?

 面白かったとして、市井の人々に理解可能?

 結局、無理だ。

 無理ゲーなのだ。



 では、大学教員など、テロ等準備罪のことがよく理解できている人ができることは何だろう?

 私の答えはこうだ。

 松本人志よりIQの高い、テレビに出ている芸人さんに、無料でニュース解説の家庭教師をすることだ。

 イデオロギー色をできるだけ弱めた、合理的で分かりやすい解説。

 それしかない。

 誰も新聞のオピニオン欄なんか読んでないからね。
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Abema TV「バラエティ開拓バラエティ 日村がゆく」:通常のバラエティの構造がフリになっているというメタ的面白さ

2017-05-12 09:53:17 | テレビとラジオ
 Abema TVは無料のインターネットテレビである

 オリジナルの番組はまだ弱いと言われながら、着実に意欲的なバラエティを制作している放送局だ。

 最近、地上波と比べても遜色のない面白さだったのが、バナナマン日村の冠番組「日村がゆく」だった。

 今のところ、YOUTUBEの公式アカウントでも過去のプログラムを見ることが出来る。



 この番組は、放送の規制・コンプライアンスが厳しい現在のテレビ業界で、新しいバラエティのアイディアを模索することを目的としている。

 この番組の面白さはふたつある。

 ひとつは、普段見ているバラエティの構造が良い意味で裏切られるという面白さだ。

 例えば、第2回の「タイキックに代わる罰ゲームを探す」という企画では、そもそもなんでタイキックが選ばれているのか、罰ゲームとは何のかを深く分析している。

 タイキックはムエタイという格闘技の選手がいきなり出てきて、罰ゲームの主体を蹴ることだが、

 この企画では、ムエタイ以外の格闘技にこれ以上に面白く見ごたえのある技が何かあるのではないか、と考えた。

 ベトナムの格闘技、沖縄空手、忍術。それぞれの技を検討していく。



 ベトナムの格闘技では、アクロバティックな技が試される。

 しかし、技のかけ手と受け手の間にルールや信頼が必要だった。

 沖縄空手では、リアクションが取れない一方、非常に長く痛めつけられる技が試された。

 忍術では、「空気投げ」という非常に不思議な技が試された。

 これは殴り掛かってくる相手に直接手を触れないでバランスを崩させてしまうという、奇妙な技だった。



 この企画は「タイキック」がフリになっているから、すごく面白い。

 タイキックの面白さは、

 ムキムキのムエタイ選手が蹴る(一瞬)=明らかに痛い → 罰ゲームの主体が激しく痛がる(一時的)=面白い

 の構図で認識されている。

 一方、今回試した他の格闘技では、この構図が崩されている。だから、面白い。

 罰ゲームの流れのなかに「あるべきアクション」がないので、そこに意外性が生じ、笑ってしまうのである。



 そもそもバラエティ用の罰ゲームは、

 相手が嫌がることでありながら、

 見ている人が思わず笑ってしまうもので、

 しかも、テレビの倫理規範に抵触しない内容でなければならない。

 この番組では、そこまではっきりと罰ゲームの要素を明らかにしたうえで、

 その先に行こうと試みる。

 そのメタ的視点は、バラエティ好きにはたまらないものだろう。



 そこに加えて、この番組のもうひとつの面白さは、日村の高い技術力である。

 というか、何よりもそこがこの番組の強みだと言える。

 例えば、技をかけてくれる格闘家のいじり方、リアクション、番組スタッフへのツッコミ。

 この人がいる限り、なんでも成立してしまうのである。



 もちろん、この番組を作っているスタッフの企画力・発想力もすごい。

 この人たちは、テレビ的な成立している笑いを越えて、何が面白いか分からないけど面白い、という新境地に行こうとしている。

 なんたる意欲だろうか。

 冒険家だ。

 スタッフも日村も冒険家であり、探究者である。

 バラエティ番組好きには、強くおすすめしたい。
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映画『ゴーン・ガール』:それが結婚なのか!?

2017-05-07 18:29:05 | テレビとラジオ
 今更ながら映画「ゴーン・ガール」観ました。

 昔、Tさんがすごく面白かったと言っていた「ゴーン・ガール」。

 確かに面白かった。激しく面白かった。



 あらすじ。ミズーリ州に住む、とある夫婦の話。

 主人公ニックは妹が働くバーから帰ると、家にいるはずの妻エイミーは姿を消していた。

 誰かが押し入った痕跡があり、すぐに警察に連絡。

 血痕もあったことから、警察はエイミーが殺害されたのではないかと考え、捜査を行う。

 徐々にニックに疑いの目が向くと、徐々にある恐るべき真実が浮かび上がってくる。

 加熱する報道のなか、まさかの展開が!



 ここからネタバレします。

 要するに、この事件はエイミーの自作自演だったのだが、実はそれは映画の核心ではない。

 映画の冒頭では、エイミーとニックの結婚生活がどのように破綻していくかを描く。

 お金の問題、引っ越し、子どもをつくるかどうかをめぐって、などすれ違っていく。

 それはそれで非常に怖いのだが、しかし笑える場面も多い。

 ところが、実はニックが浮気をしていて、それが大きな引き金になったことが分かると、映画はどんどんサスペンス度を増していく。



 高学歴のエリート、エイミーは、自分の存在が決定的に傷つけられたことを復習すべく、

 自分が殺害されたとするシナリオをつくり、夫を貶めようとする。

 見事に罠にはまる夫。

 メディアで袋叩き、警察にも逮捕されるニック。

 エイミーのメディアコントロールが見事。

 もう無理かと思った矢先、有能な弁護士の助けを借りて、ニックも徐々に反撃を開始する。



 怖さはまだまだ加速する。

 エイミーは、過去の彼氏も自作自演の罠にはめて、犯罪者に仕立て上げていたことが判明する。

 本当にやばい奴じゃん、エイミー!

 ところが、ニックの頑張りなどもあって、エイミーの計画が徐々に予定から逸脱してい。

 ここでエイミーはちょっぴり頭のおかしい最初の彼氏(お金持ち)の助けを借りる(騙して)。

 が、ニックのテレビ出演を通じて彼を見直したエイミーは、この助けてくれた男性を見事に犯罪者に仕立て上げ、しかも殺害するのだ。



 遂にエイミーはニックの元へ帰る。

 悲劇のヒロインとして。

 ニックは彼女が何をしたのか知るものの、どうしようもない。

 ニックはエイミーに言う。

 「今はお互いに憤り、お互いを支配しようとし、お互いに傷つけあうだけじゃないか」

  →つまり、こんな関係、こんな生活は異常である、と。何せ妻は殺人犯であり、自分を殺人犯に貶めようとしたヤバい人なのだ。

 それに対してエイミーは言う。

 「それが結婚というものよ」

  →名言なのか!?いや、結婚がそうなったらダメだろ。

 最後には、エイミーがニックの保存されていた精子を使って妊娠!もう逃げられないニック!



 正直、ニックが悪い。かなり悪い。身から出たサビだ。

 けれど、エイミーもどうかと思う。

 途中で他の女性から言われていたけど、超エリートのエイミーがニックを選んだ時点で問題があったのかも・・・。

 だから、言いたい。結婚が上手く行かなくなったら、どっちにも責任あると思う、たぶん。

 比較的最近、すごいスピードで離婚した友人がいたり、婚約が解消になった友人がいたりで、いろんなことを考えてしまった。

 どっちのケースも比較的穏便に済んだから良かったってことで。
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テレビ東京「“池の水ぜんぶ抜く”!緊急SOS外来種から日本を守れ」:新しい教養の時代

2017-04-27 08:23:56 | テレビとラジオ
 テレビをザッピングしていて、思わずそのまま見てしまった最近のテレビが、「池の水をぜんぶ抜く」というバラエティだった。

 テレビ東京らしい、シンプルな企画。

 けれど、これが面白かった。

 実際、大きな反響があったらしい。



 なぜこの番組が面白かったのか。

 近所の池の水をぜんぶ抜いたら、一体何が出てくるのか。

 小さい頃、すごく気になった思い出がある人も少なくないだろう。

 それを実際やってみるのである。


 
 今回取り上げた池のひとつには、アリゲーターガーという魚がいた。

 この魚は、なんでも北アメリカ原産の大魚で、2メートル以上に成長するそうだ。

 見た目は完全にワニ。

 歯もすごい。

 小魚の間は、小指みたいな小ささで、本当に可愛らしい。

 それがどんどん大きくなってしまい、放流する人がいるらしい。

 日本だと昨年、大阪の河川で発見されたニュースがあった。

 そのアリゲーターガーがいる。

 そいつだけではなく、巨大なミシシッピアカミミガメもどんどん出てくる。

 コイも出てくる。

 とにかく、大きい生き物がどこにでもありそうな身近な池からどんどん出てくる。

 面白い。



 すぐに日本のナショナリズムに訴えかけるのは、テレ東の悪いところ。

 外来種、外来種、危険。

 その通りなのだが、この番組は外来種を放流した人間のおかげで面白くなってしまっている。

 それと、外来種ってどこまでの生物を指すのかも興味深い。

 番組では専門家が「最近ではコイも外来種だと判明しました」とのコメント。

 まあ、そうでしょうけど、多くの生き物は大陸から来たでしょうけど、それを言ってしまったら、キリがないぞ。

 そして、その線引きをする人間って何?

 そういうところも面白い。



 この番組を見て、多くの人が思い出すのが「鉄腕ダッシュ」かもしれない。

 植物から生物まで、とにかく捕まえたり、育てたり、食べたりする、日テレのあの番組。

 こちらも自然科学味の番組だ。

 最近では、外来種を美味しく食べる企画も始まった。



 また違った種類の自然科学で言えば、Eテレ「ピタゴラスイッチ」。

 「大人のピタゴラスイッチ」は、ますますぐっとくる。

 自然科学もいいけど、人文学もという人には、テレ東「なんでも鑑定団」がある。

 もっとラディカルな芸術バラエティを、という人には、Eテレ「びじゅチューン」。

 芸術の古典が不思議な歌とアニメに昇華される、謎に満ちた魅力的プログラム。

 社会人類学や国際政治がお好み、という方にはTBS「クレイジージャーニー」がある。

 大学の授業の映像資料にも使えてしまうほどの面白い旅の様子が見られる。

 日本の地理・歴史・地学なら「ブラタモリ」。



 以前にもこのブログで書いたが、近年のテレビは「新しい教養の時代」に入っている。

 「教養」の時代が終わったのは、もうかなり前だが、今は今で別のかたちの「教養」が楽しまれている。

 堅苦しい報道番組でもドキュメンタリでもなく、軽い気持ちで見て、ハッピーに楽しめる教養バラエティ。



 最近の番組作りについて、「視聴者はバラティのなかでお役立ち情報を求めている」なんて声もよく聞く。

 けれど、教養の面白さは、あまり役立たないところにある。

 役立つかどうかというプラグマティックな話ではなく、

 もっとピュアに知的に面白いこと。それが教養だ。

 人類がなぜ大学までつくって、学問なんてものを体系化してきたのか。

 それは何かに役立つからだけではない。

 そんな動機で続けられる学問は、あまり存在しない。

 大半のものは、「いつか何かのかたちで役に立つかもしれないけど、よく分からない」代物だ。

 そうではなくて、本当の面白さはもっと単純でバカみたいなことなのだ。

 知った時に「ハッ」と驚く、それが教養の魅力なのだ。

 世界も人間も知的な驚きに満ちている。

 高校や大学でそれが発見できなかった人にも、今の日本のテレビは優しく、知的面白さを伝えてくれている。
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Base Ball Bearのアルバム『光源』:過去とどう向き合うか

2017-04-18 10:39:48 | コラム的な何か
 Base Ball Bearのアルバム『光源』が話題になっている。

 とにかく良く出来ている。

 これまでのアルバムと比べると、極端にグルーヴ感が増した。

 ベースラインはいずれも練りに練られたもので、ドラムとギターがそこに有機的に結びついている。

 「有機的に」と言うのは簡単だが、コード進行やグルーヴが効果的に発出するように構成するのは、きわめて難しい。

 じっくりと考え抜かれた編曲は、聴けば聴くほど味わい深い。

 何より演奏技術が格段に上がっている。一音一音の深さ、音圧がこれまでよりもはるかに良くなっている。



 そういう音楽的なことは聴けば分かるのだが、このアルバムで衝撃的なのは歌詞(歌詩)の世界なのである。

 それを言葉で説明するのが、今回の目的なのだが、非常に難しい。



 このアルバムから全体を通じて見えてくるのは、「過去の記憶とどう向き合うか」ということだ。

 曲全体で特徴的なのは、過去の強烈な成功体験と失敗体験がまだら状になっていることである。

 強烈な成功体験も失敗体験も、現在の自分を支配する。

 そこから逃れるのは、とても難しい。それが思春期に起きれば、「青春の呪い」になる。

 いつまでも青春について考えてしまう可哀そうな人間になってしまうのである。

 たとえ思春期を無難に過ごしたとしても、成功体験や失敗体験から無縁でいられる人は少ないのではないか。

 このアルバムの普遍性はそこにある。


 
 失敗体験について言えば、「あの時、あの選択をしていれば・・・・・・」と人間は考えがちだ。

 もし世界が複数あって、並行して存在していたらどうだろう。

 別の世界の自分は違う選択をして、違う結果を享受していたはずだ。

 並行世界まで考えるかどうか別にして、違う運命について考えてしまうことはよくある。



 逆に成功体験もそれはそれで、現状の評価や判断に大きな影響を与える。

 影を落とすと言った方がいいかもしれない。

 懐かしむだけで止められればいいが、今を生きることを阻害することもありえる。



 過去を振り返るとき、いつも考えてしまう。「あの時のあの選択」は選ばされたものだろうか、それとも選んだものだろうか、と。

 われわれは因果律に支配されているのだろうか、それとも自由意志で運命を切り開いているのだろうか。

 人間の自由意志は儚く、もがきながら選択を続けている。

 意志の自由を高らかに謳うのは、とても困難だ。

 だからこそ、過去がいつまでも追いかけてきてしまう。



 このアルバムは、そうした人間の弱さを愛しいものとして読み替える試みである。

 自分の選択は運命全体から見れば確かに小さいものだが、それが大きな変化を生む場合もある。

 そう考えれば、運命の正体は自分なのであって、良い変化であれ、困った変化であれ、それを受け入れていくしかない(本作では「逆バタフライエフェクト」)。

 もちろん、過去の記憶を胸の内に残していたっていい。それを原動力にしていくことも、ひとつの正解ではないか(本作では「SHINE」)。



 このアルバムを聴き終ってみると、結局何も変わっていない自分がいる。

 いや、よくよく見ると、少しだけ違う。

 過去が確かに過去であることを受け入れている。

 つまり、確かに時間が経過したのだと理解している。

 今は過去ではない。

 でも、過去は確かにあった。

 そして、もう一度、今が始まる。
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放送大学「錯覚の科学」:世界を見ている僕の脳みそが本当はすべて幻想を映し出しているのだとしたら

2017-04-14 10:45:28 | テレビとラジオ
 ライトノベルみたいな副題を付けてしまった。

 でも、ここで伝えたいこの番組の魅力はそこに凝縮されている。

 放送大学でやっている「錯覚の科学」というプログラムが面白いのである。

 主任講師は菊池聡さん(信州大学教授)。

 認知心理学がご専門とのこと。



 この番組にはハッとさせられる瞬間が沢山ある。

 例えば、左右の両手それぞれで人差し指だけを上に立てて、顔の前にもってきて欲しい。

 それで右手だけ前方にめいっぱい伸ばし、もう左手は肘を曲げて顔の前に。

 つまり、恋ダンスのポーズ。

 この状態で、両指の長さを比べてほしい。

 どうなっている?

 はい、普通に右手の人差し指が短く見えるはずだ。

 遠近法だから。



 では、両手の間隔をそのまま左右にちょっとだけ開いて。

 両方視界に入るギリギリまで。

 それで、もう一度、2本の指の長さを比べて。

 距離で言えば、左指が顔に近い。

 だから、本来ならさっきと同じように右手の人差し指が短く見えるはずなのだが、そうはなっていないはずだ。

 どうなっている?

 限りなく同じ長さに見えているのではないか。



 その理由は、人間が脳内で指の長さの認識を補正しているからだという。

 人間(ある程度生きてきた人間)は、指の長さを経験的に学び、よく知っている。

 遠くにあっても、どれくらいなのか知っている。

 だから、遠くに見えた時にも、近くで見た時の記憶がその映像を補正して認識している。

 2本の指が近い時は、両方を比較するので、遠近法の認識が強まり、長さの差が認識されるが、

 2本の指が遠い時は、長さの差が認識できなくなる、という。



 つまり、光の反射から見えてくる映像と、

 記憶によって構成されている映像が、

 人間の脳内では、常にミックスされ、編集されていることが分かる。

 この構造はややこしいので、もう少し詳しく考えてみよう。

 まず、人間は物体を「距離」という物差しで認識しようとする。

 小さく見えたら遠くにある。これは遠近法。

 ところが、遠くにあると認識すると、

 「遠くにあるから小さく見えるけど、本当はもっと大きい。なぜなら、以前に近く見たら大きかったから。」という補正が働く。

 本当はもっと大きいという記憶の認識が、脳内で映し出されている映像を補正して、少し大きく認識させるのである。


 小さく見える=遠い → 記憶の補正 → 本当は大きい=大きく補正


 ということなのだ。これを無意識に瞬間的にやっているのだ。

 怖い!!怖いよ!!

 僕が見ている世界は「本当の世界」なの?

 完全に『ソフィーの世界』だ!

 あの本に出会った結果、僕は社会科学の研究で身を立てることになったわけだが、

 それを認知心理学で考え直したら、またあの時のゾワゾワ感が!!

 先生!!!!
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テレビ東京「勇者ああああ」:ゲームの記憶をめぐる最高にくだらなくハッピーなバラエティ

2017-04-14 10:23:38 | テレビとラジオ
 昔はゲーム関連番組がどこかで必ずやっていた。

 例えば、「大竹まことのただいま!PCランド」など、ゲームを紹介する番組が結構あった。

 子どもの頃、よく見ていた。

 ゲーム画面というのは、見ているだけで何かワクワクするものがある。

 今の子どもにとっても同じだろうか?



 それが徐々に消えて、いつの間にかゲーム番組というものについて考えなくなった。

 高校生になってからは、ゲーム自体もまったくやらなくなった。

 音楽に熱中するという、どこにでもいる高校生になっていた。

 

 ところが、私は留学を境にもう一度ゲームに目覚めた。
 
 寂しくなった時に、ニコニコ動画のゲーム実況にはまったのである。

 ゲームを買うお金もない、プレイする時間もない(ただし、共用のテレビだけはあった)。
 
 娯楽が奪われた孤独な博士課程の英生活のなかで、ゲーム実況は救いだった。

 「ゲームセンターCX」という番組を知ったのも、その流れからだった。

 よゐこの有野氏がレトロゲームをプレイしてクリアを目指す番組。

 ただそれだけなにに、すごいスポーツを見ているような、そんな感動があった。

 一時期、休載になってしまっていたマンガ『ハイスコアガール』も、レトロゲームへの注目を集める大きな役割を果たした。
 


 そんな流れのなかで、「勇者ああああ」である。

 今、ノリにノッている芸人アルコ&ピース(以下、アルピー)の冠番組だ。

 この番組の良さは、最高にくだらないということだ。

 ゲームにチャレンジするということよりも、ゲームをやって面白かった記憶や空間をもう一度面白がる番組だと言っていい。

 小学生の時にゲームが面白かったのは、ゲームそれ自体の内容だけでなく、ゲームを取り巻く空間や人間関係があったからだ。

 自分ひとりとゲームの空間。

 友人数人とゲームの空間。

 気になる異性とゲームの空間。

 くだらない時間だったけど、頭にこびりついている記憶がある。

 友人が常にとても少なかった私でも、ゲームをめぐる記憶はそれなりに楽しげだ。



 「ゲームああああ」は、学生の時のくだらないノリを大人が本気でやっている。

 そこは一流のテレビスタッフだから、企画は超くだらないが、しかしよく練られている。

 「射撃のプロふたり(クレーン射撃と猟師)がガンシューティングをやったら、どっちが勝つか?」
 
 「ストリートファイター2の波動拳を4人連続で出し続けて相手を倒せなかったら、電気ショック」

 「ゲームが趣味だというアイドルが本当にゲーム好きかどうかを確かめる」

 そこにいちいちアルピーの「ゲームあるある」や「ゲーム物まね」が入ってくる。それがとても懐かしくて、嬉しくなる。

 人間にとって、テレビゲームとは何なのか考えさせられるような、考えさせられないような、そんなくだらなくて最高の番組である。
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「でんぱの神神 最上もがが新人マネージャーを本気で大改造」:社会で生きる人になる、ということ

2017-04-09 17:23:18 | テレビとラジオ
 でんぱ組.incの冠番組「でんぱの神神」の企画が面白かった。というか、ちょっとだけ、何かに感動した。

 今回の企画は題名のとおり、でんぱ組のメンバーである「最上もが」が、入ったばかりのマネージャーを改造する話である。

 何故これが面白かったのか説明する。

 まず、理解してもらいたいのが、でんぱ組の特徴。

 メンバーはそれぞれ、引きこもりだったり、夢に破れたりした女の子たち。

 彼女たちは秋葉原のメイドカフェ(みたいなお店)で働き始め、アイドル・グループを結成し、デビューへの道を歩み始めた。

 そのため、メンバーによっては、はじめて社会に出て自立した生活をはじめた人もいる。

 彼女たちにとってアイドルの活動はあくまで仕事であり、それは人間としてとても大事な労働として認識されている。

 極端な話、アイドル活動によってリハビリをしていた捉えるメンバーもいる。



 で、そのなかのリハビリ系のメンバーとも言える「最上もが」が新人マネージャーを改造するというのだから、面白い。

 注目すべきは、最上の両面性だ。

 部屋に引きこもってインターネットゲームをやっていた過去がある一方、グループのなかでは、最も時間に厳しく、真面目で、プロデューサーからは「マネージャーにしたい人」という評価を得ている。

 その彼女が新人マネージャーを改造する動機は何か。

 それは現在の主力マネージャーである「なめこちゃん」の負担を減らしたい、という理由である。

 なめこちゃんは、新人も育成しなければならないし、多忙なでんぱ組の管理もしなければらないし、大変だという。



 新人マネージャーの改造は、まず服装や髪形の改良から始まるのだが、注目すべきなのは、この新人マネージャーと最上の会話である。

 新人くんは若干22歳の男性で、メガネのもさっとした人物。

 その彼が一流の美容室で髪を切ってもらっている間に、最上は言う。

 「まず、挨拶ができるようになるといいねぇ・・・。挨拶ができると、周りも仕事がしやすくなるし、自分もすっきりするからね・・・。」

 社会生活の基本、挨拶!芸能界ではちゃんと挨拶できないと、本当に大変なことになるという挨拶!

 また、最上は仕事を覚えるうえでメモを取る重要性を切々と伝える。

 自分もアイドル活動をはじめて、メモを取ることで上手く学習できたという。

 自分の経験談と教訓をナルシズムなしに静かに理屈で教える、最上もが!

 人に何かを教える最上の雰囲気や挙動は、理屈抜きで萌える!

 でんぱ組や最上の文脈を想起すると、ますます感慨深い!



 新人くんのキャラクターも好感がもてる。

 口数は少ないが、真剣に話を聞く様子。

 メガネも服装も超ダサいけど、メガネを外したら顔が整っていて、身長もまあまあある。

 髪形や服装で、まるで別人物。

 むしろ、今まで何故その格好だったのだ、新人くん(まあ、人のことは言えない私ではある)。

 いや、この変化のギャップ、萌え要素満載!



 一番印象に残ったのは、新人くんが口にした最上の最初の印象。
 
 静かに放たれた「謎でした・・・」の言葉の後に続いたのが、

 「仲間想いで、熱い人でした」との感想。

 新人くん!そこだ!視聴者が聞きたいのは、それだ!

 最上の熱い部分。

 彼女の魅力はそこだ。

 普段冷めていて、やや理屈っぽく、ツンデレな彼女。

 でんぱ組加入後も、メンバーを信用していなかったと口にしていた彼女。

 そうした不信感は、誰かを信頼したい気持ちの裏返し。

 信じ始めたら、仲間想いの熱い人。

 そういうことなのか、新人くん?



 この企画はまだ前編。来週は後編があるぞ!乞うご期待!
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アニメ「サザエさん」の終焉:上部構造と下部構造の崩壊

2017-04-07 11:26:35 | テレビとラジオ
 もうずっと前から、本当にずっと前から、アニメの「サザエさん」は日本社会の現状と乖離していて、どう見たら良いのか分からない。

 家族の構造はもちろん、割烹着を着ているお母さんがいて、お酒やお醤油を裏口に宅配しているお店が存在し、

 携帯電話がなく、パソコンやインターネットの類がない世界。そして、世田谷の一軒家に住む中流家庭という、なかなか飲み込みにくい設定。

 当たり前だ。すべて昭和の世界なのだから。原作がそうなのだ。

 どこにでもある日常を鋭い視点で描いた原作は、ほのぼのとした家庭の風景に置き換わり、そして化石化した。

 そして、スポンサーが倒産しようとしている。あの、日本を代表するメーカー東芝が崩壊した。

 奇しくも、日本が大好きだった原発ビジネスの世界的な崩壊の波を受けて。

 経産省と一緒になって進めてきたのに、仲良く心中しようとしている。

 ちょっぴりマルクス風に言えば、「昭和の家族と社会」なるイデオロギー(上部構造)が破たんしつつあり、

 遂にはスポンサーの破綻で下部構造まで揺らいでいる。



 でも、フジテレビはこれを手放さない。手放せない。

 それもなんだか切ない。

 僕たちもアニメ「サザエさん」という日常を手放したくないのだろうか?

 「サザエさん」で顕在化している無理な部分を僕たちは見ないふりをして生きていけるだろうか?

 日本の沢山のシステムで同じようなことをやっている。

 破たんするまで僕たちは続ける。

 崩壊寸前の古き良き日常というファンタジー。

 僕は革命を求めているんじゃない。

 ただ、「サザエさん」を昭和の世界に帰してあげたいだけなのだ。

 僕たちは僕たちの日常を生きよう。

 僕にとっては、まるで現実的ではない「小林さんちのメイドドラゴン」の方が、よほど現実的だったよ(ご存じない方はぜひ見てみて)。
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