フルカワユタカのライブをニコニコ動画で観ていた。
このライブが非常に豪華で、彼の先輩や同世代のミュージシャン(さらに後輩も)が沢山出演していた。
昔、こっぴどく嫌われていたフルカワが、周囲に祝われているという衝撃的フェス。
動画とはいえ、めちゃくちゃ感動した。
その感動はつまるところ、フルカワユタカがもうすぐ「不惑」を迎えるということと無縁ではない。
お爺さんがロックバンドをやっている、という一見不思議な現象は、もうすでに日本中で当たり前になっている。
それどころか、ムッシュかまやつに至っては天に召されてしまったのだ。
だから、お爺さんやお婆さんが演歌ではなく、ロックやソウルを嗜むということは、何も不思議なことではない。
けれど、Hi-Standardをはじめとする、いわゆる「Air Jam世代」がもうすぐ50代を迎えるということには、少し戸惑っている。
それは自分の高校生の時のロックスターが、まじで「お爺さん」のカテゴリーに片足を突っ込んでいる、という事実への戸惑いだ。
フルカワのライブに出ていたLOW IQ 01も、当然、もうすぐ50代に入る。
シークレットゲストだったブラフマンが、LOW IQ 01のサポートをフルカワが務めていることを「老人介護」などと(良い意味で)揶揄したらしいが、
言わんとしていることは、よく分かる。
かく言うブラフマンも、すでに40代に入っており、カテゴリーで言えば「初老」なのだ。
40歳は「初老」であり「不惑」である。
これを「不惑」と呼ぶのは、「四十にして惑はず」という論語の一節があるからだ。
惑わないなんて絶対嘘だと思うけれど、それでもフルカワがもうすぐ40歳を迎えるこのタイミングで、
自分を受け入れ、周囲に胸襟を開く様子を見ると、「ああ、本当に不惑ってあるんだなあ」と思ってしまうのである。
ブラフマンのドキュメンタリー映画も、ちょうどこのタイミングで観たのだが、それもやっぱり「不惑」という言葉が浮かんでくる。
バンドの過去、去って行った仲間、2011年の震災を経ての活動の意味。
彼らは若さに任せた勢いだけのロックバンドでは、もうまったくなくて、
ブラフマンもまた、家族とか色々な人間の営みを背負う、働くおじさんたちなのであった。
50代で言えば、エレファントカシマシもそうだ。
Air Jamでもないけど、しかしこの間、このバンドのドキュメンタリも見たもので、やっぱり衝撃的に格好良かった。
フロントマンの宮本は、世間に認められないことに葛藤しながらも、異常なまでにストイックに音楽活動を続けていて、
それがものすごく心に響いたのである。
50代のおじさんが、爆発的なパワーで歌う。圧倒する。それだけで、涙が出そうになる。
自分ももうすぐ誕生日を迎えて、30代半ばに差し掛かる。
勢い任せに研究していた数年前の自分とは変わって、なんとか色々と闘い方を工夫している。
40代のロックバンドが、やっぱりおじさんになっても格好よく、さらに50代のロックミュージシャンが、ますます格好いい様子を見ると、
やっぱり感動してしまうし、勇気づけられてしまうのである。
彼らは、少年と大人を行き来するような、あいまいな存在ではない。
はっきりと大人で、おじさんだ。
僕が90年代から2000年代に見た、とりわけ小沢健二に象徴されるような「曖昧さ」=「王子」というものは、もはや存在しない。
いつまでも王にならない王子も、いつの間にかジャンピング・イントゥ・お爺さんの様相だ。
日本の社会が成熟しつつあるのかもしれない。
この成熟に見合った落ち着きがほしいのかもしれない。
だから、不惑でいいのだ。
初老でいいのだ。
このライブが非常に豪華で、彼の先輩や同世代のミュージシャン(さらに後輩も)が沢山出演していた。
昔、こっぴどく嫌われていたフルカワが、周囲に祝われているという衝撃的フェス。
動画とはいえ、めちゃくちゃ感動した。
その感動はつまるところ、フルカワユタカがもうすぐ「不惑」を迎えるということと無縁ではない。
お爺さんがロックバンドをやっている、という一見不思議な現象は、もうすでに日本中で当たり前になっている。
それどころか、ムッシュかまやつに至っては天に召されてしまったのだ。
だから、お爺さんやお婆さんが演歌ではなく、ロックやソウルを嗜むということは、何も不思議なことではない。
けれど、Hi-Standardをはじめとする、いわゆる「Air Jam世代」がもうすぐ50代を迎えるということには、少し戸惑っている。
それは自分の高校生の時のロックスターが、まじで「お爺さん」のカテゴリーに片足を突っ込んでいる、という事実への戸惑いだ。
フルカワのライブに出ていたLOW IQ 01も、当然、もうすぐ50代に入る。
シークレットゲストだったブラフマンが、LOW IQ 01のサポートをフルカワが務めていることを「老人介護」などと(良い意味で)揶揄したらしいが、
言わんとしていることは、よく分かる。
かく言うブラフマンも、すでに40代に入っており、カテゴリーで言えば「初老」なのだ。
40歳は「初老」であり「不惑」である。
これを「不惑」と呼ぶのは、「四十にして惑はず」という論語の一節があるからだ。
惑わないなんて絶対嘘だと思うけれど、それでもフルカワがもうすぐ40歳を迎えるこのタイミングで、
自分を受け入れ、周囲に胸襟を開く様子を見ると、「ああ、本当に不惑ってあるんだなあ」と思ってしまうのである。
ブラフマンのドキュメンタリー映画も、ちょうどこのタイミングで観たのだが、それもやっぱり「不惑」という言葉が浮かんでくる。
バンドの過去、去って行った仲間、2011年の震災を経ての活動の意味。
彼らは若さに任せた勢いだけのロックバンドでは、もうまったくなくて、
ブラフマンもまた、家族とか色々な人間の営みを背負う、働くおじさんたちなのであった。
50代で言えば、エレファントカシマシもそうだ。
Air Jamでもないけど、しかしこの間、このバンドのドキュメンタリも見たもので、やっぱり衝撃的に格好良かった。
フロントマンの宮本は、世間に認められないことに葛藤しながらも、異常なまでにストイックに音楽活動を続けていて、
それがものすごく心に響いたのである。
50代のおじさんが、爆発的なパワーで歌う。圧倒する。それだけで、涙が出そうになる。
自分ももうすぐ誕生日を迎えて、30代半ばに差し掛かる。
勢い任せに研究していた数年前の自分とは変わって、なんとか色々と闘い方を工夫している。
40代のロックバンドが、やっぱりおじさんになっても格好よく、さらに50代のロックミュージシャンが、ますます格好いい様子を見ると、
やっぱり感動してしまうし、勇気づけられてしまうのである。
彼らは、少年と大人を行き来するような、あいまいな存在ではない。
はっきりと大人で、おじさんだ。
僕が90年代から2000年代に見た、とりわけ小沢健二に象徴されるような「曖昧さ」=「王子」というものは、もはや存在しない。
いつまでも王にならない王子も、いつの間にかジャンピング・イントゥ・お爺さんの様相だ。
日本の社会が成熟しつつあるのかもしれない。
この成熟に見合った落ち着きがほしいのかもしれない。
だから、不惑でいいのだ。
初老でいいのだ。