それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

Air Jam世代、50代を迎える:成熟することには価値がある

2018-01-30 12:59:01 | テレビとラジオ
 フルカワユタカのライブをニコニコ動画で観ていた。

 このライブが非常に豪華で、彼の先輩や同世代のミュージシャン(さらに後輩も)が沢山出演していた。

 昔、こっぴどく嫌われていたフルカワが、周囲に祝われているという衝撃的フェス。

 動画とはいえ、めちゃくちゃ感動した。

 その感動はつまるところ、フルカワユタカがもうすぐ「不惑」を迎えるということと無縁ではない。



 お爺さんがロックバンドをやっている、という一見不思議な現象は、もうすでに日本中で当たり前になっている。

 それどころか、ムッシュかまやつに至っては天に召されてしまったのだ。

 だから、お爺さんやお婆さんが演歌ではなく、ロックやソウルを嗜むということは、何も不思議なことではない。



 けれど、Hi-Standardをはじめとする、いわゆる「Air Jam世代」がもうすぐ50代を迎えるということには、少し戸惑っている。

 それは自分の高校生の時のロックスターが、まじで「お爺さん」のカテゴリーに片足を突っ込んでいる、という事実への戸惑いだ。

 フルカワのライブに出ていたLOW IQ 01も、当然、もうすぐ50代に入る。

 シークレットゲストだったブラフマンが、LOW IQ 01のサポートをフルカワが務めていることを「老人介護」などと(良い意味で)揶揄したらしいが、

 言わんとしていることは、よく分かる。

 かく言うブラフマンも、すでに40代に入っており、カテゴリーで言えば「初老」なのだ。



 40歳は「初老」であり「不惑」である。

 これを「不惑」と呼ぶのは、「四十にして惑はず」という論語の一節があるからだ。

 惑わないなんて絶対嘘だと思うけれど、それでもフルカワがもうすぐ40歳を迎えるこのタイミングで、

 自分を受け入れ、周囲に胸襟を開く様子を見ると、「ああ、本当に不惑ってあるんだなあ」と思ってしまうのである。



 ブラフマンのドキュメンタリー映画も、ちょうどこのタイミングで観たのだが、それもやっぱり「不惑」という言葉が浮かんでくる。

 バンドの過去、去って行った仲間、2011年の震災を経ての活動の意味。

 彼らは若さに任せた勢いだけのロックバンドでは、もうまったくなくて、

 ブラフマンもまた、家族とか色々な人間の営みを背負う、働くおじさんたちなのであった。



 50代で言えば、エレファントカシマシもそうだ。

 Air Jamでもないけど、しかしこの間、このバンドのドキュメンタリも見たもので、やっぱり衝撃的に格好良かった。

 フロントマンの宮本は、世間に認められないことに葛藤しながらも、異常なまでにストイックに音楽活動を続けていて、

 それがものすごく心に響いたのである。

 50代のおじさんが、爆発的なパワーで歌う。圧倒する。それだけで、涙が出そうになる。



 自分ももうすぐ誕生日を迎えて、30代半ばに差し掛かる。

 勢い任せに研究していた数年前の自分とは変わって、なんとか色々と闘い方を工夫している。

 40代のロックバンドが、やっぱりおじさんになっても格好よく、さらに50代のロックミュージシャンが、ますます格好いい様子を見ると、

 やっぱり感動してしまうし、勇気づけられてしまうのである。



 彼らは、少年と大人を行き来するような、あいまいな存在ではない。

 はっきりと大人で、おじさんだ。

 僕が90年代から2000年代に見た、とりわけ小沢健二に象徴されるような「曖昧さ」=「王子」というものは、もはや存在しない。

 いつまでも王にならない王子も、いつの間にかジャンピング・イントゥ・お爺さんの様相だ。



 日本の社会が成熟しつつあるのかもしれない。

 この成熟に見合った落ち着きがほしいのかもしれない。

 だから、不惑でいいのだ。

 初老でいいのだ。

戸惑いの冬

2018-01-19 12:21:06 | 日記
 大学の教員として、最も戸惑うことがある。

 それがゼミの学生が自分を慕ってくるという現象である。

 私はそれをどう理解してよいのか分からず、いつも困惑する。

 たぶん、これを読んでいる人は、私がなぜ困惑するのか奇妙に思っていると思う。

 それは私も同じなのだ。なぜ困惑しているのか分からず、ますます困惑している。

 そこで私は自分のために、なぜ困惑しているのか書く。



 今まで誰かに慕われた経験がまったくなかったわけではない。

 たとえば、研究者としてある程度のキャリアになってくれば、後輩も沢山できて、ひとつのグループになったりする。

 私も思いがけないことから、母校でもない場所でそういうことが起きて、凄まじくかわいがる後輩が何人かできた。

 彼らとの関係はきわめて強靭で、私の転出で涙が出てしまうくらいに強固なものだった。



 しかし、私はひとつも戸惑わなかった。

 それは私と後輩たちが同じ目標を共有し、同じような苦労を共にし、お互いがお互いを尊敬し、厳しく批判しあってきたからだ。

 突き詰めれば、研究という営為のなかで生まれた関係である以上、関係の強さは研究によって担保されている。

 彼らとの関係は、相互の研究を勉強しあうことで再生産される。



 ところが、ゼミ生というのは、これとは全く違う。

 ゼミ生は私の研究をよく知らないし、私がどういう努力を普段しているのかも知らない。

 一方、私はゼミ生と個別の面談をする限りにおいて、彼らを知っている。

 だが、それも限定的だ。

 要するに、お互いのことをあまりよく知らないのである。



 にもかかわらず、一群のゼミ生が私をやたら慕うという現象が起きる。

 なぜ彼らは慕うのか。

 それは大学という制度が私を「先生」という立場にしたからだ。

 その立場は、元をたどれば、研究業績や教育業績によって基礎づけられているものだが、学生はそれを知らない。

 つまり、彼らの「学生」というアイデンティティに不可欠の「先生」だから、とりあえず慕うのである。



 恐ろしいのは、4年生ともなると就職先も決めて余裕があるので、私に何か恩返し的なことをしてやろうと画策する輩が登場することだ。

 たとえば、3・4年生全体を集めたコンパを開いてきたりする。4年生は流石に賢いので、出席率を上げる工夫をするので、参加人数も多い。

 そこで私にサプライズのプレゼント的なものを仕掛けてくるのである。

 アカデミアのルールとして学生からのプレゼントは拒絶するのが常だが、こういう場を設定されると私も拒絶できない。



 しかし、その恩返しというのが不合理なのである。

 彼らは試験を受けて入学し、ちゃんと授業料を払っているので、私は一生懸命、授業をするのである。

 もちろん、各自の要望に応えるために、カリキュラム以上のゼミをしたり、長時間の面談も行ったりするが、それもすべて仕事なのである。

 だから、そもそも恩など生じないのである。



 私を人間として尊敬するなら、恩師という言葉も当てはまるだろうが、私は人間としてクズ野郎だし、彼らに尊敬されたくもないので、恩師ではないのである。

 私の恩師は人間として凄い人で、大学の研究者じゃなくても尊敬せざるを得ない人たちだから、当然彼らは恩師なのであるが、私は違う。

 

 そこでクズ野郎の私はこう考えてしまうのである。

 彼らは私を恩師としたい、そういう欲望があるのだ、と。

 つまり、自分がよい大学生活を送った、という確証を得るために私を「恩師」に仕立て上げざるを得ないのだ。

 よい先生に当たったから、よい就職ができて、そして、よい卒業論文が書けたはずである。

 ならば、私はよい先生でなければいけない。

 ならば、感謝しなければいけない。

 みんなで感謝すれば、よい先生だったことになる。

 めでたし、めでたし。



 偽善的であれ、なんであれ、少しでもまともな人間は、そこでよい先生の振りをする。

 私もそうすべきだと思うのだが、如何せんクズ野郎なので、

 ひどくモジモジして、言い訳をしながらプレゼントを受け取って、誰よりも早くコンパを去るのである。



 そもそも私は先生を祭り上げるという権威主義の萌芽を常日頃から否定、批判してきた。

 その態度や姿勢がゼミ生に伝わっていない時点で、もう何かが失敗しているのである。

 そういう意味で、そういう感謝の場は、私への罰であり、私はそれを甘んじて受けなければならない。



 以上のことは何一つ冗談ではなく、来年こそもっとドライでプラクティカルなゼミにする工夫をする。

 そして、ゼミという制度そのものを疑うような、おかしくも真っ当なゼミにするのだ。

 ゼミに青春を持ち込むことができないよう、全力で制度設計してやる。

フルカワユタカ「Yesterday Today Tomorrow」:僕にとって本当に大切なアルバム

2018-01-11 10:44:46 | コラム的な何か
 フルカワユタカが新しいアルバムを出した。ソロになってから3枚目だ。

 でも、そういうことじゃない。

 どう言っていいか分からないけど、これは実質的には「1枚目」で、ここからフルカワユタカが始まるじゃないかっていう、そんなアルバムだ。



 でも、そういうことじゃない。

 ここに書きたいのは、もっと大事なことなんだけど、とてもまとめられそうもない。



 フルカワユタカは、Doping Pandaというバンドのフロントマンだった。

 あまり知られていないけど、すごいバンドだった。

 3ピースなのに、信じられないほどソリッドかつダンサブルなサウンドで、

 いち早くデジタルサウンドを消化して、どのバンドとも違うびっくりするような曲をつくっていた。



 ところが、フルカワは結果が出る前に天狗なってしまったというか、孤独をこじらせ、自意識をこじらせ、周りを嫌って嫌われていく。

 エンジニアとも袂を分かち、レコード会社とも喧嘩。

 そして、メンバーだけでアルバムをつくり、最後は解散。

 ひとりぼっちになったフルカワはソロになるものの、動員もセールスもガクンと落ちる。

 

 引退すら頭に浮かんだという、この時期のフルカワ。

 しかし、ここでベースボールベア(ベボベ)のサポートギターに呼ばれ、引き受け、それが大きな転機となる。

 ギターがまさかの脱退を経験し、ピンチに陥っていたベボベ。

 ベボベは、フルカワにとって事務所の後輩だった。



 しかし、ベボベはベボベで、フロントマンの小出がコミュニケーション出来ない人間だったため、フルカワとまったく仲良くなかった。

 ただ、後に脱退するギターの湯浅とだけ、フルカワは交流があった。

 そのため、湯浅の穴を埋めることには、フルカワなりの思いがあった。



 交流もなかったのに一緒に演奏しはじめたフルカワとベボベだったが、すぐに理解しあう。

 小出のギターアプローチとフルカワのアプローチが近かったことや、ベボベの音楽が非常によくできているとフルカワが気が付いたことが大きかったという。

 フルカワは、アーティストとして音楽をつくり奏でる意味を取り戻し、再び前に進み始める。



 同時にフルカワにうまく作用したのが、公式ブログの開始である。

 音楽サイトの依頼で始まった仕事だったが、それが大きな評判を呼ぶ。

 彼の後悔と邂逅。自分をゆっくりと受けれいれ、前に進もうとするフルカワの文章は、多くの人の心に届いた。

 そのことがフルカワの心にも変化をもたらしたという。



 あれほど、周りを遠ざけて、一人ぼっちになりたがったフルカワだったが、

 一人で音楽をつくるよりも、色々な人たちと相互作用しながら、音楽をつくる方が面白い、と考えるようになる。

 フルカワは確かにギタープレイにおいても作曲においても天才的だが、その一方で、ものすごく天然ボケな人でもある。

 フルカワ自身がついにそのことを受け入れたことも、音楽に大きな変化をもたらした。



 フルカワは初期のプロデューサーのもとを訪れ、もう一度、プロデュースしてほしいと頼んだ。

 ちゃんと説明もできないまま別離を迎え、不和な関係だったプロデューサーとの再会。

 彼を嫌いながらも尊敬していた周囲のミュージシャンの協力。

 

 何枚も皮がむけたフルカワの新しいアルバムは、発売前からかなり話題になっていた。

 リード曲がYouTubeで公開されると、それがものすごく良かったのだった。

 そして、僕も昨日そのアルバムを最初から最後まで聴いた。

 音のひとつひとつ、言葉のひとつひとつが、僕の心の奥に届く。

 僕も彼と同じだった。

 だから。

 すごく特別なアルバムになった。

「笑ってはいけない」のブラック・フェイス問題

2018-01-04 18:02:20 | テレビとラジオ
 難しい。すごく難しい。この問題を論じるのは難しく、そして苦しい。

 しかし、私は考えなければならない。

 ブラック・フェイスは欧米では差別の象徴そのものだ。

 そして、日本でもそれを輸入した歴史があった。

 ブラックフェイスと人種差別については、すでにハフィントン・ポストのこの記事がすべてを語っている。



 だが、フィフィ氏のツイッター上での意見も大変興味深い。

 要するに、日本人であれ誰であれ、黒く顔を塗ったとしても、黒い肌が美しいと考えるならば、差別とは捉えないはず。という主張である。

 ハラスメントは、受けとる側の主観や文脈に依存する。

 たとえば、ある女性が「君は胸が小さいね」と言われたとする。

 この場合、胸が小さいことを美しいと考えるならば、受け取る側としてはハラスメントではない。

 逆に、胸が小さいことを気にしている場合には、ハラスメントになる。

 この場合、「小さい胸を気にしている人」が悪いのか。それとも「胸の大きさについて言及した人」が悪いのか。

 たとえば、ある男性が「君は童貞らしいね」と言われたとする。

 この場合、童貞は「貞操を守る素晴らしい人物」と捉えるならば、受け取る側としてはハラスメントではない。

 逆に、童貞を気にしている場合には、ハラスメントになる。

 童貞を指摘した人物が「童貞は素晴らしい!」と度々公言している場合でも、

 受け取る側が屈辱的だと捉える場合、それは受け取る側が悪いのだろうか。



 しかし、こうも考えられる。

 浜田氏が女性に扮装していることは、女性を差別していることを意味しない。

 浜田氏の女装が面白いのは、浜田氏の日常の格好と大きな隔たりがあるからである。

 同じことがエディ・マーフィの扮装についても言えるのではないか。

 多くの視聴者は、エディ・マーフィを笑ったのではなく、浜田氏の日常の格好とのギャップを笑ったのかもしれない。

 もしかすると、このように考え、大いに笑ったアフリカ系の人もいたかもしれない。



 では、このように考えず、自分の顔の特徴が笑われたと思ったアフリカ系の人は、この人の認識が悪いのだろうか。

 浜田氏やスタッフの意図を理解できなかった、あるいは理解できてもなお悲しい気持ちになった人が悪いのだろうか。



 では、もしドイツで、ヨーロッパ系のコメディアンが東アジア系日本人の顔だちを簡単なメイクで作って、侍の格好をして、

 他のコメディアンに笑われていたら、日本の人たちはどう思うだろう。

 どうも思わないかもしれないし、一緒に笑うかもしれない。

 ならば、もしその番組を見る直前に、ドイツのカフェで人種差別的な言葉を投げかけたられた後だったら、同じように笑えるだろうか。



 では、もしコメディプログラムではなかったら、どうだろうか。

 たとえば、日本に生きるアフリカ系の人をテーマにしたドラマで、主人公を演じるのが小栗旬。

 小栗はメイクなどを駆使して、日本社会に生きるアフリカ系の人を演じる。

 この場合、笑わせる話ではないが、問題はないだろうか。

 おそらく、なぜアフリカ系の俳優を使わないのか、という疑問が出るだろう。



 それとは別に、こういう論点もある。

 日本のメディアのなかでアフリカ系の人が一切映らないようにしたら、どうなるか。

 まったく日本に存在しないかのように、テレビもラジオも新聞も言葉や写真や映像を紡ぎ続けたら、どうだろうか。



 私は問題提起をしたい。

 たとえ、その問題提起が何らかの前提をはらむものであっても。

 私は中立を装うつもりはない。

 それでも、ここでは問題提起にとどめたい。

映画(Netflix)「BANKING ON BITCOIN」:国家とリバタリアン

2018-01-02 11:50:29 | テレビとラジオ
 Netflixで配信されているドキュメンタリ映画「BANKING ON BITCOIN」(2017年)が非常に面白かった。

 要するに、ビットコインがどのように発明され、広まったのかを追跡するドキュメンタリなのだが、そこにはヒリヒリするものが色々見えて面白かった。



 そもそもビットコインとは何か。

 まず、その仕組みも概念も非常に難解である。

 ただ、ど素人の私が間違いを恐れず、映画から学んだことを大ざっぱに説明する。

 ビットコインとは、一種の通貨だ。

 しかし、われわれが紙幣・貨幣というかたちで手にする通貨とは、大きく異なる。



 たとえば、日本円について考えてみよう。

 日本円はすごく乱暴に言えば、日本の国家がつくったもので、それを日本の銀行が買い取って市場に流通させている。

 いわば、日本円の信用は日本の国家が支えている。

 裏を返せば、国家が通貨の量などを一定程度管理することで、圧倒的な経済権力を維持している。

 この構造では、国家と銀行は一体で、市民はその権力の末端に存在する。



 ビットコインは、この構造と戦うために生み出された。

 これがこの映画の肝である。

 ビットコインは、国家や銀行の権力から自由に、市民が利用できるはずだった。

 ビットコインは、誰でもコピーしたり、増やしたりすることはできない。

 高度な技術を持った人々が一定の条件をクリアし、コストをかけることで、生み出すことができる(これを「マイニング(採掘)」という)。

 では、それはどういう条件なのか。

 その条件のひとつが、「ビットコインが過去誰によって、どのように取引されてきたのか、その歴史をすべて取引台帳に記録すること」である。

 しかし、それにはコンピュータを長時間起動させ、作業させる必要がある。

 普通にやれば、電力消費の方が大きくなってしまい、赤字になる。

 ならなかったとしても、月にほんのわずかな額しか稼ぐことができない。



 それはともかく、こうして一般人が大量にビットコインの「取引台帳」を作成していくことで、実はビットコインの信用が生み出されるのだ。

 ここがビットコインの「価値」の核らしい。



 そうなると、日本円に見られるような「国家と銀行の権力」から、通貨と使用者が自由になれることが分かるだろう。

 国家が通貨の量を決めることもないし、銀行が流通の主要なアクターとなることもない。

 ということは、つまり一体なんだ。

 まず、銀行口座が必要なくなり、すべて携帯やパソコンに蓄積できる。

 一般市民は自由に通貨をやりとりでき、国境すらも超える。

 現在、お金が国境を越えるのは非常に手間だ。コストがかかる。

 ところが、ビットコインにはそれがない。



 開発者たちは当然、そのことを理解していた。というか、それが目的だった。

 ビットコインの開発は、たった一人で行われたわけではない。

 そもそも同様のアイディアで、様々な人々が開発の実験を行い、その蓄積のうえに実現したものだった。

 こうした一群の開発者は、「サイファーパンク (cypherpunk)」と呼ばれるグループに属する。

 サイファーパンクとは、「あらゆるデータのやり取りが、国家権力によって管理され、支配され、歪められていることに対抗すべく、特殊な暗号テクノロジーを開発しようとする立場の人々」を指す(と、私は理解した)。間違っていたら、ごめん。

 ビットコインもそうした運動のひとつだった。



 そして、それが動き出すきっかけになったのが、2008年のリーマンショックだった。

 金融界が暴走して、一般市民につけが回され、中産階級が没落し、大パニックになった。

 ところが、金融界の偉い人々は逮捕されることもなく、いつも通り、天文学的数字の報酬をもらって逃げていった。

 市民たちは怒り、ウォール・ストリートを占拠した。

 そして、米大統領選挙で、ウォール・ストリートの手先とみなされたクリントンを落とした。

 (結果的に富裕層を優遇するトランプになったのは皮肉なことだが・・・。)

 ビットコインは、通貨を市民の手に取り戻し、国家と金融界に打撃を与える可能性があった。



 流通が始まると、ビットコインが実際に機能することが分かってきた。

 しかし、問題はここからだった。

 このサイファーパンクの理想を歪めた、3つの勢力が存在する。

 1.アメリカの金融界、2.アメリカ政府、3.反社会勢力

 金融界は当然、ビットコインを目の敵にした。

 なぜなら、銀行などの金融アクターが排除され、一般市民に力が宿ってしまうシステムだからだ。

 アメリカ政府も、そうなることをやはり恐れた。

 しかし、彼らはバカではない。もし金が儲かるなら、それを利用したい。

 そこで一定期間泳がせておくことにした。



 ビットコインは急速に広まった。

 最大の理由は、反社会勢力が利用したからだ。

 ビットコインとともに重要だったのが、完全な匿名で取引できるインターネットの特殊なシステムだった。

 それもサイファーパンクの運動の成果なわけだが、それが反社会勢力を喜ばせた。

 とりわけ、麻薬の取引が横行した。それがテロと結び付けられ、激しいバッシングの対象になった。

 確かにこれは当然と言えば、当然なのだ。

 国家の管理がないということは、犯罪者もたくさん野放しになる。

 犯罪者だらけになると、健全な商取引も困難になる。だから、国家が存在し、法が執行される。そのおかげで市場が維持されるのだ。

 ビットコインと匿名サイトは、そのシステムからの逸脱を意味した。



 アメリカ政府と金融界はこれをテコにして、ビットコインの関係者を次々に資金洗浄などの罪で処罰した。

 そして、ビットコインを国家が管理できるようにライセンス制にしたのだった。

 笑えるのは、次の展開だ。

 ライセンス制が始まると、ビットコインの犯罪を摘発し、管理を進めたアメリカの高官たちが次々に退職して、ビットコイン関連のビジネスを開始したのだ。

 こうしてビットコインもまた、国家と金融界の一部となった。

 しかし、それでもビットコインは既存の権力構造から逸脱する可能性を内在している。

 というのが、この映画の結論だ。



 ビットコインの顛末は、少しだけMP3の普及の歴史と似ている。

 技術者、リバタリアン、犯罪者。

 これらの組み合わせがMP3の普及においても活躍した(これについては、本ブログで書評したS・ウィットの『誰が音楽をタダにした?』を参照)。

 これらはまだ新しい潮流の一部にすぎない。

 同じような現象が、他にも生じているに違いない。