それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

某大学について

2018-05-25 08:06:06 | コラム的な何か
 話題になっている例の事件については、多くの人が書いていて、すでにツイッターも大喜利になっているので、ここに書くつもりはなかった。

 なかったのだが、件の大学について少しだけ書いておく。



 例の大学は非常に面白い組織だ。

 まず、学生数が日本で一番多い。マンモス大学の王である。

 数が多いゆえに入学式は日本武道館。

 OB・OGは有名人だらけ。



 それより何より、経営状況がすごく良いのである。

 私立大学の事業活動収入ランキングでは、2015年度一位だった。

 実際、私の分野の大学教員に聞いても、あの大学の評判はすこぶる良い。

 理系の場合も研究設備が相当整っていると聞く。

 教員もいわゆる生え抜きから外様まで色々在籍しており、バランスがいい。

 事務職員も生え抜きが多いのだろう。そして、その生え抜きの職員たちも教員をバカにしたり、圧力をかけたりしていないのだろう。
 

 
 その一方、経営のトップについては黒っぽい噂も聞く。

 特に理事などをめぐる学内の政治闘争は、熾烈をきわめるという。

 で、その政治闘争の主体が、どうも体育会関係のOB(OG)ネットワークらしい。

 だから、この理事は相撲部とか、○○はアメ○ト部とか、まあそういうことになっているそうだ。

 それは別にどうだっていいのだが、問題はさらにその関係者がいわゆる反社会勢力を利用して、その闘争を展開しているという噂である。

 最初、その話を聞いたときは「そんなわけないだろ」と、単なるゴシップとして受け止めたのだが、

 興味深いことに、4,5年前にアップされた某ネット記事で、この大学の文脈とは別のかたちでその噂を裏付けるように見えてしまう写真が出ていた。



 まあ、実際のところはよく分からないし、知りたくもない。

 ここでの話は、今回の事件とは実際何の関係もない。

 ただ、大学経営って凄まじい政治闘争なんだなあ、ということは頭に入れておきたい。

 考えてみれば、加○学園も政治力のお手本のような話だったわけで(違法かどうかは全く別にして)。



 そういうわけなんだけど、最後に言っておきたいのは「危機管理」って言葉の難しさね。

 たとえば、某大学の危機○理学部が、凄まじく揶揄されているじゃないですか。

 ただ、個々の教員からすれば、この話で公に意見を述べることほど、危険なことはないわけでね。

 つまり「危機管理」ってみんな簡単に口にしているけど、主語が大事なのね。

 そのうえで、その主体が何を目標にしているかってこと。

 某監督にとっての危機管理は、主語が監督個人で、

 選手を守るとか、大学の評判を守るとか、そんなことを目標にしていないわけで。

 だから、それはそれなりに合理的な行動ではあって。

 で、あとは政治力を全開にして、学内の圧力と闘うだけ。

 そうやって考えると、みんな、個人個人が自分を主語にして危機管理するしかないって教訓が引き出せる。

 言わずもがな、選手も。

アマゾン・プライム「有田と週刊プロレスと」:話の熱量と技術が心を動かす

2018-05-23 08:44:00 | テレビとラジオ
 ゴールデンのバラエティ番組の場合、台本に沿って大人数の人たちが流れをつくっていくことが多いが、

 昨今では、逆に一人の人間がじっくり自分の話したいことを話す、という番組も非常に熱い。



 いとうせいこうとユースケ・サンタマリアのトーク番組「オトナに!」や、

 惜しくも終了してしまったレキシとダイノジ大谷の情報バラエティ「アフロの変」などは、まさにそういう番組だった。

 ラジオで言えば、TBSラジオの「ウィークエンド・シャッフル」、その後継番組「アフターシックス・ジャンクション」なんかも、そういう番組だ。



 そのなかで、非常に評判が良かったのが、アマゾン・プライムの「有田と週刊プロレスと」である。

 くりぃむしちゅーの有田が、雑誌「週刊プロレス」のバックナンバーを一冊与えられ(どの号か有田は本番まで知らない)、

 そこから、一人のゲストとともに、プロレスについて語る番組だ。

 なぜ、この番組がそんなに面白いのか。

 重要なのは、ゲストの大半がプロレスを知らない人だということ。

 この番組では、有田がその人のためにプロレスの文脈を説明する。

 この番組を面白くしているのは、その説明における有田の熱量と話術が、信じられないほど凄いからだ。



 プロレスに興味がない人、プロレスを知らない人ほど、この番組に激はまりすること間違いなしである。

 有田の説明は、何より分かり易い。

 黒板を使って、丁寧に説明してくれる人間関係と歴史。

 凄まじいクオリティの選手のモノマネ。

 その場にいたかと錯覚するほどの、臨場感あふれる場面描写。

 プロレスの試合映像は一切放送されない。

 この番組の肝は、有田の話術一本。



 アシスタントの倉持明日香(元AKB)のプロレス愛と、多すぎない知識量も見事!

 プロレス弱者のゲストのチョイスや、週刊プロレスのバックナンバーのチョイスも、なるほどと唸ってしまう。

 番組スタッフのプロレス愛も半端ないことが分かる。



 しかし、何よりプロレスそのものが持つ魅力も忘れてはならない。

 暴力が嫌いな人、体育会系が苦手ない人。大丈夫。それもこの番組は面白いはず。実際、僕もそうだから。

 プロレスのポイントは、「本当のルール」がきわめて不明瞭だということにある。

 どういうことか。



 まず、プロレスの場合、勝敗はどこでいつ決まるのか?

 試合のなかで?試合の前?

 試合の前だとしても、それはどういう政治力学で決まるのか。

 スター選手は、どういう基準を満たすとスターになるのか。

 選挙をするわけでもない。試合の勝敗だけでも決まらない。

 人事を決める人たちのなかでの評価と、ファンの評価も一致しない。



 次に、プロレスの「良い試合」とは何か?

 技が多い?派手?いや、そういうわけでもない。

 お互いが技を全力で受け合い、掛け合う試合が良い試合?

 説得力のある試合こそ良いという人もいる。説得力って何?

 

 暗黙のルールで「本当に」蹴ってはいけない場所や、かけてはいけないタイミングや技があるらしいのだが、

 それはプロレスを沢山見ないと分からない。



 で、何が言いたいのか。

 プロレスには、人間が社会のなかで直面するあらゆる現象が凝縮されている。

 複雑で不透明で、勝敗や人事には多様な諸力がいちいち作用している。

 リングの世界と、裏の世界。メディア上の世界と、そこに描かれない世界。

 嘘と本当が混ぜこぜになっている。しかし、それでもリングで選手たちが傷つき、命がけで試合をしていることは本当。



 この虚実ないまぜの世界に垣間見える、誠実さや途方もない努力は驚くほど美しく、見るものを勇気づけてくれる。

 プロレスの世界で評価されるのは、肉体的な努力だけではない。

 社会的関係を司る努力もそれ以上に重要だ。

 それゆえに、様々なプロレス専門用語が芸能界の専門用語となり、テレビを通じて一般人が口にする普通の言葉になっている。

 たとえば、「ガチ」とか、「しょっぱい」(=つまらない)とか。

 あるいは、AKBのシステムも明らかにプロレスの影響を受けているようにしか見えない(実際、秋元さんは大のプロレス好き)し、

 ももクロのパフォーマンスにもプロレスの影響が色濃い。

 

 要するに、プロレスは教養になってしまっている。

 そして、それに値するほどの内容だということ。

 もしそれを知りたいのなら、そう、有田のこの番組が何よりおすすめなのだ。

誰もプロフェッショナルなんか知らないし、知りたくもない。

2018-05-22 13:49:46 | テレビとラジオ
 昨日、ある登山家の方の訃報を聞き、そして彼についての登山家コミュニティの意見を知って、なんだかモヤモヤしている。

 登山家コミュニティの意見では、その方の挑戦は、大学野球の選手がメジャーリーグのホームラン記録に挑戦するようなものだから、

 登山という試みの性質上、生命を落としてしまうかも、という話だった。そして、実際にそうなったという話。

 テレビなどのマスメディアや、よく分かっていないスポンサーが彼を死に追いやったという意見もあった。



 テレビというメディアはすごく怖い。

 その怖さは、しばしば人間を手段にして、何でもやってしまうところにある。

 台本をつくって、必要な部品として人間をかき集める。

 芸人さん、アイドル、文化人などなど。

 その文化人の枠内に、研究者が存在している。

 社会科学の研究者、自然科学の研究者、人文学の研究者、そして(研究をしていないという意味で)研究者ではないが、「研究者」という肩書きで出てくる人たち。



 番組に研究者という部品が必要になった時、テレビ局はその部品が純正のものか、それとも模造品なのか気にしない。

 それよりも、番組の台本にぴったりはまる部品がほしい。 

 研究者でも「もどき」でも、収録で話したことは切り刻まれて、ちょうど良い部品に加工され、番組の一部となる。

 民放のバラエティ番組になってしまえば、もはや特定の役割を演じさせられ、台詞を言わされてしまう。

 そういうわけで、多くの大学教員にとって、テレビに出ることはリスクとなる。

 それでもテレビに出る人は、使命感のある人か、(メディアの扱いに長けた)相当な実力者か、天真爛漫な人か、承認欲求が非常に強い人かのいずれかである。



 (研究コミュニティにいないという意味で)一般の人々は、テレビに出ている専門家が、専門家コミュニティでどれほどの存在なのか知る由もないし、知りたくもない。

 何なら「専門家コミュニティは、鼻につく貴族のような連中」ということで、目の敵にしている人もいる。

 昨今、エリートや専門家といった存在は、とにかく攻撃の的とされ、一般人の感覚こそ優位しており、彼らは嘘つきで既得権益を不公正に消費している悪者であるとされがちである。

 これは日本に限らず、先進国であれば、ほぼすべての地域で類似の現象が見られる。

 自然科学も社会科学も同じで、極端な話、近年では「地球は平面である」という主張を繰り広げて、専門家コミュニティに戦いを挑んでいる人たちもいるという。

 ここまでではないとしても、私たちはマイナスイオンをはじめ、無数の似非(自然)科学に楽しく翻弄されている。



 人間個人の世界観と物語、

 大企業が打ち出したい世界観と物語、

 政治政党が打ち出したい世界観と物語、

 マスメディアが打ち出したい世界観と物語、

 たくさんの欲望をかなえてくれる、似非専門家。それはまるでドラえもん。

 本当か嘘かなんて、どうでもいい。

 僕たちが欲しいのは希望であり、夢であり、愛だ。マッチ売りの少女が束の間みるような、暖かい世界。

 似非専門家は、少女が消費するマッチ。

 輝きを放って、そして、消えた。

漫画「BLUE GIANT」:色々言いたいことはあるけど、それでも感動したと言いたい

2018-05-13 06:40:02 | コラム的な何か
 「BLUE GIANT」を読んでいる。ジャズの漫画だ。

 私のゼミ生が熱心に薦めてきて、じゃあ読んでみようかなあとなった。

 妻の評価は「まあまあ」といったところで、その理由も納得のいくものだった。

 しかし、私は読んでいて何度か涙が出た。なんでそうなったか、少しだけ書いておく。



 この漫画の問題は、ストーリーが早すぎることと、10巻に至っては若干安易に流れてしまっていることだ。
 
 すごく重要な人物の登場でも、さらーーっと通り抜けてしまう。

 また、脚本で一番やってはいけないとされる「物語上邪魔になった人物を交通事故に合わせる」というやつをやっていること(ネタバレになるから、詳しくは書かない)。



 そうした内容への不満はあるのだが、しかし、この漫画は音楽漫画に私が求める、非常に重要なポイントを押さえている。

 それは音楽を演奏している時の感覚や葛藤、その先に目指すイメージだ。

 私自身、ブラックミュージックを大学の時にやっていたから、よく分かるのだが、

 この領域の音楽の場合、途中で「自分の壁」が出てくる。

 どういうことかと言うと、ソロでアドリブをかましている時、どうしても「いつもの手癖」や「ありきたりなフレーズ」に悩まされる。

 自分自身を驚かせるような、新しい何かを生み出せない葛藤が生まれる。 

 フレーズはいつもと同じでも、違う弾き方、歌い方はありえる。

 何かを変えたい。新しい境地に行きたい。

 何を変えればいい?新しいアイディアとは何だ?

 本番こそ最高の練習で、そこで直面する壁こそ、成長にもっとも近い壁なのだ。



 この漫画は、ブラックミュージックのその独特の壁が良く描けている。

 そして何より、それを越えた時の感覚が、新しい地平に行けた時の、観客を巻き込んだ「おーーーーー」という感じが見事に描けている。



 主人公は天才なのだが、物語の(国内編)前半はそれを開花させるまでのプロセスが面白い。

 だが、(国内編)後半は事実上、主人公とトリオを組むピアニストが中心になる。

 彼は天才的ではあるものの、自分の壁を乗り越えるうえで、かなりの苦労を強いられる。

 それは彼の精神世界の問題そのもので、そことどう向き合い、取っ組み合うのかが見どころだ。

 その過程を読みながら、私は昔のことを思い出しつつ、何度か泣いた。



 この漫画を読みながら、自分が大学生の頃に親しくしていた、ジャズピアニスト志望の青年のことを思い出さざるをえなかった。

 それにまつわる記憶は、正直、あまり思い出したくない。

 だから、その思い出の箱を開けるのは、嫌だった。

 でも「ブルージャイアント」を読みながら、以前とは違う気持ちで過去を振り返ることができた(ような気がする)。



 私が親しくしていたピアニスト志望の青年は、自分の壁を越えようと、ライブで毎回苦闘していた。

 特に、アマからプロへ移行しようとした時期は、本当に毎日激しく闘っている様子だった。

 そんなある日、彼が大きく変わる事件が起きる。

 いつものように、地元のミュージシャンとライブをやっていた時、彼はやはり壁にぶつかっていた。

 しかし、その前から、彼には自分を変える方法がひとつ見つかっていたのだ。

 それは呼吸法だ。

 詳しくは書かないが、彼は新しい呼吸法でピアノをプレイすることで、新しい境地に進もうとした。

 ところが、その呼吸法は若干危険というか、訓練が必要なものだったらしく、

 ソロの途中で、なんと彼は突然気絶してしまう。

 ブラックミュージックをやったことがない人は分からないかもしれないが、

 この領域の音楽は、実のところ、普通では考えられないようなことが身体に起こる。

 私は吹奏楽やオーケストラでも演奏したことはあるが、ブラックミュージックのうまくいった時の興奮は異常で、

 いわゆるシャーマン的な、呪術的なものなのである。

 それゆえ、ある意味で危険と言えば危険なのだ。

 さて、気絶した彼はその後、どうなったのかと言うと、それが不思議なのだ。

 演奏が終わり、みんなが彼に気絶したことに気付いた時、観客も含め、心配の後に爆笑になったわけだが、

 驚いたのは、気絶以前と気絶以後の演奏が、まるで別人のようになったということなのである。

 音色の輝きがまるで違うのだ。



 で、その彼は最終的にプロになって、今、東京で活動しているのだが、

 「ブルージャイアント」との関連で言えば、彼や彼の周りの音楽家たちが究極的に目指すものは、漫画とは異なるように思う。

 「ブルージャイアント」では、ジャズが古典音楽化し、聴き手が減って、ポップスなどとの距離があることを一つの問題として措定している。

 そして、主人公たちがその垣根を越え、同時にジャズの根源に帰りながら、人気を博すという流れを目指している。

 けれども、私が知っているプロの人たちは、もっとすごいというか、別の精神世界での高みを目指しているように思える。

 売れる売れないというよりも、もっと本質的かつ反資本主義的な世界。

 私は当事者ではないので、詳しくは書けない。

 詳しく知りたい人は、ぜひ東京のアンダーグラウンドのジャズシーンを見てみてほしいのだが、

 みんなが想像できないほど純粋な人たちが、そこにはいたりする。

 「ブルージャイアント」が示す目標は、悪く言えば即物的だ。

 物語にも、そういう価値観とは異なるプレイヤーがぜひ登場してほしいと思っている。

理系と文系の「成果」についての相互の誤解

2018-05-08 06:45:25 | 日記
 日本の大学が、文科省の政策などを原因に没落し始めて久しいが、

 困ったことに、貧窮し始めた研究者がお互いにいがみ合う場面が見られるようになった。

 特に理系の研究者が、文系の研究者の様態を誤解したまま、少しズレた批判をすることが多々あって、非常に心を痛めている。

 そうした批判がなぜ出てくるのか、それらに理がないのか、などについてちょっとだけ触れておく。



1.ナショナルな影響

 文系の研究は、自分が所属する社会の影響を強く受ける。
 
 どういうことかと言うと、イギリスで重要とされる研究は、必ずしも日本では重要ではなく、

 日本で重要とされる研究は、必ずしもイギリスでは重要とされない。

 もちろん、これは理系でもありえることだろうが、文系の場合、これがかなり強烈だ。



 たとえば、法律について考えてみよう。

 イギリスの法律と日本の法律を比較する研究は当然存在する。

 しかし、日本の民法の細かい研究は、当たり前だが、イギリスではほとんど意味がない。

 悲しいかな、歴史的な経緯もあって、日本におけるイギリスの法律の研究以上に、イギリスにおける日本の法律の研究は価値がない。

 あるいは、軍隊の経営管理の研究も、同様に日本とイギリスでは価値が異なる。

 イギリスは世界各地で実践を経験しているため、軍隊の経営管理に関する研究には価値がある。

 ところが、日本は自衛隊が軍隊なのかどうなのか不明確なうえ、事実上、実践を経験していないので、(とりわけ学会では)軍隊の経営管理に関する研究にはまったく価値がない。

 

 だから文系の場合(一部の経済学分野などを除き、という注釈がいるが)、英語の学術雑誌の価値は理系の場合よりも、圧倒的に低いのである。

 要するに、文系の場合、普遍的に共通して重要なイシューが圧倒的に少ないのである。

 私自身、イギリスで博士号を取得するまでは、そのことを軽く見ていた。

 ところが、行ってみて、そして帰ってきてみて、二度のカルチャーショックを経験し、

 このことが研究者個人の行動にきわめて大きな影響を及ぼしていることが分かった。



 インターナショナルな査読論文というものはある。

 あるのだが、アメリカかヨーロッパのいずれかの社会的・学術的文脈を前提にしている。

 そこに投稿し、掲載されるのには非常に労力がいる。

 にもかかわらず、日本での評価にはあまりつながらない。

 それゆえ、海外博士号も研究の意義を日本の文脈に合わせてうまく売り込まないと、評価されないことも少なくない。

 私自身、この点ではやはり苦労した。



 だから、文系の場合、英語でアメリカかヨーロッパの「インターナショナル」な学術誌に投稿することは、

 注意深くやらないと、日本の学会での評価につながらないため、無駄骨になる。

 それゆえ、文系の研究者があまり英語論文を出そうとしないのは、出すことに強いインセンティブがないからなのである。

 ここが理系の研究とかなり違うところで、よく誤解されてしまう。

 でも文系の研究者が皆、サボっているのではない、ということは理解してもらいたい。



2.本の価値

 もうひとつ理系の研究者に批判されてしまうことがある。

 それが「本」をめぐる評価である。

 この点については、微妙に理系からの批判にも理があるのだが、以下に説明しておきたい。



 日本の学会特有の問題があって、それは「本」の評価が異常に高いことである。

 しかし、(日本の)学術本には査読(他の研究者からの審査)がない。

 にもかかわらず、ある特定の本は評価される。

 評価の基準は幾つかある。

 ①有名出版社かどうか

 ②何らかの学術賞を取っているか

 ③学会で評価されているか



 ①以外、すべて事後的な評価になる。

 そもそも有名出版社だったら、何なのか。

 いや、実はこれが事実上の査読なのである。

 有名出版社の場合、出版にこぎつけるには、複数の編集者による「査読」を通らなければならない。

 学術的な意義はどうか。そして、何部売れそうか。

 学術的意義だけでなく、商業的なハードルも越えなくてはいけない。

 英語の本の場合、商業的なハードルは若干低いのだが、研究者による査読がある(場合がある)。

 これに比べると、日本の本は実に奇妙な評価基準であると言わねばならない。

 しかし、日本式の有力編集者による「査読」は、かなり実を伴っている。

 それゆえ、実質的に機能している。だから、どうしても評価基準として捨てられないのである。



 もちろん、②・③は事実上のピア・レビューなので、納得してもらえるとは思う。

 ただ、ここで重要なのは、その価値を示すには、出版それ自体だけでなく、学会での評価を示す別の証拠を出さなければいけないということだ。



 本について、もうひとつ誤解されていることがあって、

 それは何かというと、論文に比べて、期待される内容のレベルが圧倒的に高いということだ。

 どういうことかというと、まず理系について考えてみたい。

 理系の場合、インターナショナルな学術誌のなかでも、ランクの高い学術誌での掲載は、自動的に価値が高いはずである。

 ところが、文系の場合、論文一本で明らかにできることに限りがあるため、

 どうしても最終的に本(モノグラフ)のかたちで論じることが求められる(一部の経済学や心理学などの領域を除く)。

 本(モノグラフ)の場合、要求される内容の量がとんでもなく多い。

 論文のなかでは簡単に触れるだけで済んだ部分も、長尺で論じなくてはならない。

 だから、誤魔化しがきかない。

 しかも、日経新聞を読んでいる層全体に理解してもらえるくらいの分かり易さを要求される。

 文系の研究の場合、広くエリートに理解してもらえることを目指す必要がある。

 本はその点、売れる必要があるため、必然的に分かり易くせざるをえない。

 それゆえ、文系の場合、本(モノグラフ)の評価が高いのである。



 理系の研究者から見ると、本の評価が高いことが理解できないため、

 文系の人たちが査読を嫌がって本を出していると誤解してしまうことがある。

 違うんだ、そうじゃないんだ。