小樽キリスト福音館メッセージ要約

小樽キリスト福音館で毎週行われる福音メッセージの要約をお届けいたします。

2013年12月15日のメッセージ

2013-12-29 13:08:30 | Weblog
2013年12月15日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:第1列王記13章1-34節

テーマ:背信の罪を犯し続けるヤロブアム

ポイント
金の子牛の祭壇を築き、自らその上に立って香をたいたヤロブアムの態度に対して、神は一人の預言者を遣わし、神の怒りを告げさせました。選民イスラエルの王であるヤロブアムの身勝手な政治は、自分ばかりか、北王国イスラエルの民をも不幸にしました。

聖書の箇所

ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。すると、この人は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。『見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。」その日、彼は次のように言って一つのしるしを与えた。「これが、主の告げられたしるしである。見よ。祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」(1-3節)

ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして、「彼を捉えよ。」と言った。すると、彼に向けて伸ばした手はしなび、戻すことができなくなった。神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いをして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手はもとに戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手はもとに戻り、前と同じようになった。(4-6節)

解説

レハブアムのもとから離れたイスラエルの人々は、ヤロブアムをイスラエル全家の王としました。ヤロブアムは、ダンとベテルに金の子牛の祭壇を築き、自らその上に立って香をたき、だれでも好む者は、それを立てて高きところの祭司としました。これは、聖書の教えに対する権力の介入です。

こうした彼の態度に対して、神は一人の預言者を遣わし、神の怒りを告げさせました。おごり高ぶったヤロブアムは、「彼を捕えよ」と命じたところ、その手は枯れてしまいます。元通りになるように神に願ってくれとたのみ、手は元通りになりましたが、依然として彼は態度を改めようとしませんでした。

一般的に、人間の世界においても、道徳的、人道的な道理に反した歩みを続けるならば、国家であっても個人であっても、蒔いた結果を刈り取らねばなりません。まして、全能の神の御旨に従わなかったならば、恐ろしい結果となります。

選民イスラエルの王であるヤロブアムの身勝手な政治は、自分ばかりか、北王国イスラエルの民をも不幸にしました。指導者として、リーダーとしてたてられている器は、この章から神様の教訓を学びましょう。

*****************教会員の感想****************

□神の言葉に聞き従う大切さがわかりました。


以上


2013年12月8日のメッセージ

2013-12-22 12:24:21 | Weblog
2013年12月8日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:第1列王記11章41-12章20節

テーマ:へりくだりを忘れたとき

ポイント
ソロモンの後を継いだレハブアムは、長老の言うことよりも、若い側近の進言を受け入れました。その結果、イスラエルの民は離れていきます。権力にとどまり、権力をもって民を支配しようとしたレハブアムの誤りは、私たちにとって大きな警句になるといえましょう。


聖書の箇所

ソロモンがエルサレムで全イスラエルの王であった期間は四十年であった。ソロモンは彼の先祖たちとともに眠り、彼の父ダビデの町に葬られた。彼の子レハブアムが代わって王となった。(42-43節)

人々は使いをやって、彼を呼び寄せた。それで、ヤロブアムはイスラエルの全集団とともにやって来て、レハブアムに言った。「あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきとを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」(3-4節)

ヤロブアムと、すべての民は、三日目にレハブアムのところに来た。王が、「三日目に私のところに戻ってきなさい。」と言って命じたからである。王は荒々しく民に答え、長老たちが彼に与えた助言を退け、若者たちの助言どおり、彼らに答えて言った。「私の父はおまえたちのくびきを重くしたが、私はおまえたちのくびきをもっと重くしよう。父はおまえたちをむちで懲らしめたが、私はさそりでおまえたちを懲らしめよう。」王は民の願いを聞き入れなかった。それは、主がかつてシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムに告げられた約束を実現するために、主がそうしむけられたからである。(12-15節)

解説

知恵を誇り、財をほしいままにしたソロモンも、その栄華は40年と続きませんでした。彼の後を継いだのは彼の子レハブアムでした。「父上がわれわれに負わせた重いくびきを軽くしてください」という願いを出したイスラエル人に対して「三日過ぎてから私のところに来なさい」と告げます。

レハブアムは、ソロモンに仕えた長老に相談しますが、「あなたが、この民のしもべとなって彼らに仕え、親切なことばをかけなさい」というアドバイスをよしとせず、厳しいことばをもって答えることをすすめた若い側近の進言を受け入れました。「父はむちであなたがたを懲らしめたが、わたしはさそりを持って懲らしめる」ということばを聞いた民の代表は、レハブアムに反逆し、イスラエルの国は南北に分かれてしまいます。

主イエスは「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は仕える人となりなさい」と言われました。権力にとどまり、権力をもって民を支配しようとしたレハブアムの誤りは、私たちにとって大きな警句になるといえましょう。

*****************教会員の感想****************

□上の人ほど、へりくだる必要があるのですね。


以上


2013年12月1日のメッセージ

2013-12-08 13:33:50 | Weblog
2013年12月1日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:第1列王記11章1-14節

テーマ:ソロモンに対する主の怒り

ポイント
ソロモンは一方において神を愛し、他方において外国の女を愛していました。しかし、我々は誰一人「自分はソロモンのようではない」などと言い切れる者はいません。わたしたちは、主イエス・キリストによって、絶望から救われているのです。

聖書の箇所

ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。」と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。ソロモンが年をとったとき、その妻たち彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。こうしてソロモンは主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。(1-6節)

解説

列王記の記者は、ソロモンの生涯を表して「主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった」と記しています。信仰の世界には二者に仕えるということはありえません。しかし、ソロモンは一方において神を愛し、他方において外国の女を愛していました。

もちろん、この世に生きている我々は、この世から出ることはできません。肉はいつも生きていて、我々の思いを惑わそうとします。そういう我々は、ただ神のみを愛することができるでしょうか。その意味では、我々は誰一人「自分はソロモンのようではない」などと言い切れる者はいないでしょう。

使徒パウロはそういう自分に対して「わたしはなんというみじめな人間だろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫んでいます。まさに神に前には絶望するほかありません。しかし、パウロは絶望せず「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」と賛美しています。今日の箇所から、イエス様はどのようなことを語ろうとしているか、祈りつつ学びましょう。

*****************教会員の感想****************

□私たちもソロモンを笑えないことがわかりました。


以上


2013年11月17日のメッセージ

2013-12-01 16:29:14 | Weblog
2013年11月17日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:第1列王記9章1-9節

テーマ:神の前に正しく歩む責任

ポイント
神殿を完成させたソロモンに対して主は、祝福の言葉と警告の言葉が語られました。大切なのは、荘厳な宮を建てることでもなければ、栄華を極めた宮殿を建てることでもなく、神の御前に正しく歩むことです。

聖書の箇所

主は彼に仰せられた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正しさをもって、わたしの前に歩み、わたしのおきてと定めとを守るなら、わたしが、あなたの父ダビデに、『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれない。』と言って約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上に永遠に確立しよう。(1-5節)

もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしにそむいて従わず、あなたがたに授けたわたしの命令とわたしのおきてとを守らず、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、わたしが彼らに与えた地の面から、イスラエルを断ち、わたしがわたしの名のために聖別した宮を、わたしの前から投げ捨てよう。こうして、イスラエルはすべての国々の民の間で、物笑いとなり、なぶりものとなろう。(6-7節)

解説

Ⅰ列王記9章1-9節の前半には、祝福のことば、後半には警告のことばが記されています。前半の祝福のことばは、神殿奉献に際してのソロモンの祈りへの答えです。神はソロモンの祈りと願いを確かに聞いたと言われました。自分の祈りが神に聞かれている人は幸いです。私たちの心が神に向かっているなら、神の目は常に私たちの上に注がれています。

次に、もしソロモンとイスラエルの民が偶像礼拝に走るのなら、神の裁きが下ることが語られます。その裁きには、イスラエルの民がカナンの地を追われ捕囚に引いて行かれること、神殿が神から見捨てられることが含まれています。

大切なことは、荘厳な宮を建てることでもなければ、栄華を極めた宮殿を建てることでもなく、神の御前に正しく歩むことです。私たちは、見える神殿の建築としての「奉仕」には熱心になりやすい者たちです。見えざる神殿である「主との個人的交わり」に対してはおろそかになりがちであることに注意したいものです。

*****************教会員の感想****************

□見える神殿にこだわりすぎないことが大切なのですね。


以上