小樽キリスト福音館メッセージ要約

小樽キリスト福音館で毎週行われる福音メッセージの要約をお届けいたします。

2010年11月7日のメッセージ

2010-11-28 08:00:00 | Weblog
2010年11月7日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:ヨシュア記1章1-18節

テーマ:ただ強くあって~すべての律法を守りおこなえ

ポイント
モーセの後継者であるヨシュアはわたしたちと同じ弱さを持った普通の器でしたが、モーセと主に従順に仕え、指導者としての資質を磨きました。私たちもヨシュアに習って、主に従順に仕えたいものです。

聖書の箇所

さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」(1~3節)

「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこでも、あなたが栄えるためである。(7節)」

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ、雄雄しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(9節)

解説

ヨシュアは、エフライム族、ヌンの子で、モーセに従いエジプトを脱出し、さまざまな戦いでも先頭にたって活躍した人です。エジプトを脱出したイスラエルの青年男子の中で、カナンの地に入り得たのはヨシュアとカレブだけでした。モーセの霊的な薫陶を受けたヨシュアは指導者としての資質を磨き、モーセの後継者となりました。

ヨシュアは最初、「ホセア」(「救い」という意味)と呼ばれていましたが、モーセにより、「ヨシュア」(「主は救い」という意味)に改名されました。ギリシャ語では、このヨシュアは「イエースース」と呼ばれていますが、これは当然イエスのことです。

エジプトの奴隷状態から民を導き出したのは解放者モーセですが、ヨシュアは約束の地に民を入らせ、土地を占領し、分与し、勝利と安息を与えたという点で、モーセの事業の完成者といえます。主イエス・キリストの救いのみわざは、モーセとヨシュアによる救済の融合としての意味を持っているのです。

主はヨシュアに「強くあれ」と言っているのは、彼が弱さを感じていたことを、「雄々しくあれ」と言っているのは、彼がおびえていたことを、「おののいてはならない」と言っているのは、途中で仕事を放棄してしまうかもしれないとヨシュアが本気で考えていたことを意味しています。

ヨシュアは、わたしたちと同じ弱さを持った普通の器でしたが、モーセと主に従順に仕え、指導者としての行動を学びました。私たちもヨシュアに習って、主に従順に仕えたいものです。

*****************教会員の感想****************

□「強くあれ」という神様からの励ましを感じました。

以上


2010年10月24日のメッセージ

2010-11-21 08:00:00 | Weblog
2010年10月24日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:ヨハネ5章1-18節

テーマ:哀れみの心に満ちておられるイエス様

ポイント
イエス様は、三十八年もの間病気にかかっている人に「よくなりたいか」と聞き、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じました。皆さんは、問題を他人や環境のせいにして、あきらめていないでしょうか。日々、御言葉を握りしめ、いつでも立たせてくださる神様に期待しながら歩みましょう。

聖書の箇所

その後、ユダヤ人の祭があって、イエスはエルサレムに上られた。そて、エルサレムには、羊の門の近くに、へブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。(1-5節)

イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」(6-7節)

イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。(8-9節)

解説

エルサレムのベテスダの池とありますが、ベテスダとは「哀れみ」という意味があります。その中に三十八年もの間病気にかかっている人がいましたが、文脈から、この病気が完治することは絶望的であってことが推測できます。彼は自分の運命を諦めてしまい、避けえないものとして受け取っていたように思えます。

彼に対するイエス様の質問「よくなりたいか」は突然で、人を驚かせるものでした。病気が治らずにいたほうがよいと考える病人は少ないことから考えると、このように言って近づくことは馬鹿げたことのように感じるかもしれません。しかし、この言葉を細かく調べると、イエス様は「あなたは病気を癒してもらおうという意思を持っていますか」と尋ね、この人の心をしらべていたことがわかります。

彼の答えから、自分の病気が治らないのは、自分のために誰も何もしてくれないからだと考えていたことがうかがえます。彼の身体だけでなく、意思も麻痺してしまっていたのです。イエス様が、池のほとりにいた多くの病人の中から、特にこの人を選ばれたのは、身体も精神もまったく助かりようがない人を回復させることにありました。

今まで何も出来なかった人に対して「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命令することは、何か嘲笑しているように思えるかもしれませんが、このきびきびした言葉は、麻痺した身体だけでなく弱くなった意思に対して挑戦するものです。イエス様は、ただ心を重くして諦めるのではなく、新しく自分自身で行動するという道を彼に対して示したのです。

皆さんも他人や環境ばかりをみつめ「~のせいでできない」とあきらめていませんでしょうか。日々、御言葉を握りしめ、いつでも立たせてくださる神様に期待しながら歩みましょう。

*****************教会員の感想****************

□他人のせいにせず、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」という言葉を胸に歩みたいと思います。

以上


2010年10月17日のメッセージ

2010-11-07 08:00:00 | Weblog
2010年10月17日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:ネヘミヤ13章1-13節

テーマ:絶えざる改革(目を覚ましていなさい)

ポイント
イスラエルの民は、指導者ネヘミヤがエルサレムを留守にしていた10年前後の間に、異邦の民と同じような生活習慣に戻ってしまいました。私たちも、世の中に流されやすい者です。占いや週刊誌などに惑わされることなく、日々の神様との交わりを大切にしましょう。

聖書の箇所

その日、民に聞こえるように、モーセの書が朗読されたが、その中に、アモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。それは、彼らがパンと水をもってイスラエル人を迎えず、かえって彼らをのろうためにバラムを雇ったからである。しかし、私たちの神はそののろいを祝福に変えられた。彼らはこの律法を聞くと、混血の者をみな、イスラエルから取り分けた。(1-3節)

これより以前、私たちの神の宮の部屋を任されていた祭司エルヤシブは、トビヤと親しい関係にあったので、トビヤのために大きな部屋を一つあてがった。その部屋にはかつて、穀物のささげ物、乳香、器物、および、レビ人や歌うたいや門衛たちのために定められていた穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一、および祭司のための奉納物が保管されていた。(4-5節)

その間、私はエルサレムにいなかった。私は、バビロンの王アルタシャスタの三十二年に、王のところに行き、その後しばらくたって、王にいとまを請い、エルサレムに帰って来たからである。そのとき、エルヤシブがトビヤのために行った悪、すなわち、神の宮の庭にある一つの部屋を彼にあてがったことに気づいた。私は大いにきげんを悪くし、トビヤ家の器具類を全部、その部屋から外に投げ出し、命じて、その部屋をきよめさせた。そして、私は、神の宮の器物を、穀物のささげ物や乳香といっしょに、再びそこに納めた。(6-9節)

解説

イスラエルの歴史において、バビロン捕囚は選民イスラエルにとっては屈辱的な出来事でした。しかし、神の哀れみによって、エルサレムに神の宮を再建することができました。およそ100年の年月をかけて、エズラやネヘミヤによる宗教改革が行われ、イスラエルの民の喜びははるか遠くまで聞こえるに至りました。

しかし、指導者ネヘミヤがエルサレムを留守にしていた10年前後の間に、イスラエルの民は再び異邦の民と同じような生活習慣に戻ってしまったのです。しかも、神殿において礼拝をつかさどる大祭司自らがこの世と妥協するという罪を犯していました。

新約時代に住む私たちは「万人祭司」として、一人ひとりが神の住まわれる宮とされています。キリストを信じる私たち一人一人がこの世に流される信仰者であってはなりません。あなたを導くのは、神様であって、占いや週刊誌などこの世の価値観ではありません。神様への進行に立ち続けるためには、日々の神様との交わりが大切になります。

*****************教会員の感想****************

□少し油断すると、この世の価値観に流されている自分に気づきました。

以上