2008年7月6日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:桐山塁
(垂穂キリスト教会)
テキスト:ヨハネ11章17-45節
テーマ:復活の信仰
神様は無限のお方、有り余る恵みをもって私たち一人ひとりを愛してくださいます。み言葉をもって私たちに話しかけてくださいます。先日、私は、イスラエルに一週間行くことを許されました。そのとき、ガイドの方が面白いことをおっしゃっていました。現地のラビは子供達に御言葉をよく教えるそうです。昼も夜もです。「乳と密の流れる地」という言葉がありますのが、ラビは子供たちにみ言葉を教えるときに、黒板に蜂蜜をたらすそうです。聖書には厳しいことばや戒めの言葉もありますが、本来はこのように蜜が流れるような言葉です。
今日は、ラザロの復活の箇所から、はちみつをかけたような言葉を分かち合いたいと思います。イエス様はマリアとマルタのファミリーと深い交わりをもっていました。ラザロが病気になった、という報告を受けたときにイエス様は不思議な行動をとります。すぐにラザロのところに行かずに、その場所に2日間とどまっていました。どうして行かなかったのでしょうか。イエス様がマリアとマルタのところに着いたときには、ラザロが死んで4日がたっていました。これはラザロが人間の力ではどうすることもできない状態にあることを意味しています。
さて、マルタとマリアは対照的な性格をしています。マルタは外交的でよく働き、思った事をすぐに口にする性格です。ですからイエス様が来たときには飛んでいってすぐに出迎えました。これに対しマリアは内向的で静かな性格で、イエス様が来たときにも家にとどまっていました。イエス様が到着したとき、マルタは「ここにいてくださったら、ラザロは死ぬことがなかったでしょうに」と言いました。また、彼女は、イエス様が神様に願う事なら何でもかなえられるということ知っていた、と述べています。しかし、マルタの信仰は知識や理性による信仰でした。何か起こったときには知識によって理解しようとする信仰です。その証拠にマルタは「信じています」ではなく「知っています」と言いました。
こうしたマルタの性格をイエス様はよくわかっていました。23節で「あなたの兄弟はよみがえります」と伝えます。死んでから4日もたったラザロが復活しますと断言したのです。これに対し、マルタは「終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」といいました。マルタはすぐに生き返るとは思っていなかったのです。彼女はここでも「知っています」と答えています。
しかし、イエス様はあきらめません。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と伝えます。ここでマルタに変化がおき始めました。知識による信仰から一歩踏み出そうとしています。イエス様の問いかけにたいして「はい。主よ。」と答えました。これは私たちの信仰生活に欠かせない言葉です。「はい。主よ。」です。マルタは、イエス様を自分より上に上げました。それまでの「知っています」という態度ではありません。
28節で、マルタはマリアを呼びます。「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。とそっと言った」とあります。これまでのマルタであれば「そっと」は言わなかったでしょう。態度が変わってきた証拠です。主を認めるとき、私たちの態度は変わるのです。
ここでマリアは「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と、マルタと同じことを言っています。しかし、マルタとは違って、マリアは、イエス様の足もとにひれ伏して言いました。自分を低くしたのです。すばらしい信仰です。主の前に正直に心の叫びを伝えました。私たちも主の前に、幼子のように、ありのままになっていいのです。心を開いて主の前に出る。私はこのことがわかるまで時間がかかりました。それまでは、主の前には襟を正して出なければいけない、と思っていました。しかし、今は、自分をそのまま出していいことがわかりました。
33節で、イエス様は涙を流されます。これは私たち人間と同じ感情をお持ちになっていることを表しています。イエス様は100%人間であると同時に、100%神様なのです。ですから、私たちの苦しみや悲しみを理解してくださるのです。苦しみや悲しみの中にいる兄弟姉妹がいらっしゃるかもしれません。しかし、イエス様がいます。私たちの苦しみや悲しみを理解してくださる方がいます。イエス様は、孤独の中で、さげすまれ、迫害され、多くの痛みを体験されました。イエス様が先にすべての苦しみや悲しみを通られたのです。「誰もわかってくれない」と感じている方がいらっしゃるかもしれません。でも、イエス様はわかってくださいます。
死に対して、イエス様は向かっています。死んだラザロを悲しむ人々を見て、死に対して憤りを感じられました。死を押し返し、立ち向かっているイエス様がいらっしゃいます。イエス様は、墓に来られて「その石を取りのけなさい。」と言われました。それに対して、マルタは「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」と言いました。マルタの信仰がまた揺れています。イエス様は彼女に対し「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」と告げます。
私たちは、栄光を見たら信じることが多いのですが、イエス様は「信じるなら、栄光を見ることができる」とおっしゃっています。信仰の歩みはとてもエキサイティングです。不可能にみえることが可能になります。復活を信じる信仰です。人間的なところに根ざした信仰は弱いのです。不可能なときにも、祈り、希望を持っていくことが大切です。
イエス様は、ラザロを死から復活させました。それを見て、多くの人々がイエス様を信じました。ラザロを見てイエス様を信じたように、私たちの姿を通して、人々はイエスキリストを信じるのです。皆さんはそのように召されています。私たちの職場や家庭で、私たちが光ることを主は願っておられます。この教会を通して主の働きがあることを願っています。
イエス様は私たちの救い主です。救う力を持っています。この方を見上げ、ゆだね、とびこんで歩みましょう。困難な中にいる方は、イエス様のところから見てください。大丈夫です。死んだようなところに命を吹き込まれるお方です。復活の命が注がれます。みなさんの信仰が強められ、清められ、この小樽の地に、真の光がのぼり、小樽の地の人々がイエス様は主ですという日が来ることを信じています。アーメン。
*****************教会員の感想****************
□「知っています」ではなく、「信じます」という姿勢が大切になることに気づかされました。蜜のしたたるようなみ言葉を味わいながら生活したいと思います。
以上
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:桐山塁
(垂穂キリスト教会)
テキスト:ヨハネ11章17-45節
テーマ:復活の信仰
神様は無限のお方、有り余る恵みをもって私たち一人ひとりを愛してくださいます。み言葉をもって私たちに話しかけてくださいます。先日、私は、イスラエルに一週間行くことを許されました。そのとき、ガイドの方が面白いことをおっしゃっていました。現地のラビは子供達に御言葉をよく教えるそうです。昼も夜もです。「乳と密の流れる地」という言葉がありますのが、ラビは子供たちにみ言葉を教えるときに、黒板に蜂蜜をたらすそうです。聖書には厳しいことばや戒めの言葉もありますが、本来はこのように蜜が流れるような言葉です。
今日は、ラザロの復活の箇所から、はちみつをかけたような言葉を分かち合いたいと思います。イエス様はマリアとマルタのファミリーと深い交わりをもっていました。ラザロが病気になった、という報告を受けたときにイエス様は不思議な行動をとります。すぐにラザロのところに行かずに、その場所に2日間とどまっていました。どうして行かなかったのでしょうか。イエス様がマリアとマルタのところに着いたときには、ラザロが死んで4日がたっていました。これはラザロが人間の力ではどうすることもできない状態にあることを意味しています。
さて、マルタとマリアは対照的な性格をしています。マルタは外交的でよく働き、思った事をすぐに口にする性格です。ですからイエス様が来たときには飛んでいってすぐに出迎えました。これに対しマリアは内向的で静かな性格で、イエス様が来たときにも家にとどまっていました。イエス様が到着したとき、マルタは「ここにいてくださったら、ラザロは死ぬことがなかったでしょうに」と言いました。また、彼女は、イエス様が神様に願う事なら何でもかなえられるということ知っていた、と述べています。しかし、マルタの信仰は知識や理性による信仰でした。何か起こったときには知識によって理解しようとする信仰です。その証拠にマルタは「信じています」ではなく「知っています」と言いました。
こうしたマルタの性格をイエス様はよくわかっていました。23節で「あなたの兄弟はよみがえります」と伝えます。死んでから4日もたったラザロが復活しますと断言したのです。これに対し、マルタは「終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」といいました。マルタはすぐに生き返るとは思っていなかったのです。彼女はここでも「知っています」と答えています。
しかし、イエス様はあきらめません。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と伝えます。ここでマルタに変化がおき始めました。知識による信仰から一歩踏み出そうとしています。イエス様の問いかけにたいして「はい。主よ。」と答えました。これは私たちの信仰生活に欠かせない言葉です。「はい。主よ。」です。マルタは、イエス様を自分より上に上げました。それまでの「知っています」という態度ではありません。
28節で、マルタはマリアを呼びます。「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。とそっと言った」とあります。これまでのマルタであれば「そっと」は言わなかったでしょう。態度が変わってきた証拠です。主を認めるとき、私たちの態度は変わるのです。
ここでマリアは「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と、マルタと同じことを言っています。しかし、マルタとは違って、マリアは、イエス様の足もとにひれ伏して言いました。自分を低くしたのです。すばらしい信仰です。主の前に正直に心の叫びを伝えました。私たちも主の前に、幼子のように、ありのままになっていいのです。心を開いて主の前に出る。私はこのことがわかるまで時間がかかりました。それまでは、主の前には襟を正して出なければいけない、と思っていました。しかし、今は、自分をそのまま出していいことがわかりました。
33節で、イエス様は涙を流されます。これは私たち人間と同じ感情をお持ちになっていることを表しています。イエス様は100%人間であると同時に、100%神様なのです。ですから、私たちの苦しみや悲しみを理解してくださるのです。苦しみや悲しみの中にいる兄弟姉妹がいらっしゃるかもしれません。しかし、イエス様がいます。私たちの苦しみや悲しみを理解してくださる方がいます。イエス様は、孤独の中で、さげすまれ、迫害され、多くの痛みを体験されました。イエス様が先にすべての苦しみや悲しみを通られたのです。「誰もわかってくれない」と感じている方がいらっしゃるかもしれません。でも、イエス様はわかってくださいます。
死に対して、イエス様は向かっています。死んだラザロを悲しむ人々を見て、死に対して憤りを感じられました。死を押し返し、立ち向かっているイエス様がいらっしゃいます。イエス様は、墓に来られて「その石を取りのけなさい。」と言われました。それに対して、マルタは「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」と言いました。マルタの信仰がまた揺れています。イエス様は彼女に対し「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」と告げます。
私たちは、栄光を見たら信じることが多いのですが、イエス様は「信じるなら、栄光を見ることができる」とおっしゃっています。信仰の歩みはとてもエキサイティングです。不可能にみえることが可能になります。復活を信じる信仰です。人間的なところに根ざした信仰は弱いのです。不可能なときにも、祈り、希望を持っていくことが大切です。
イエス様は、ラザロを死から復活させました。それを見て、多くの人々がイエス様を信じました。ラザロを見てイエス様を信じたように、私たちの姿を通して、人々はイエスキリストを信じるのです。皆さんはそのように召されています。私たちの職場や家庭で、私たちが光ることを主は願っておられます。この教会を通して主の働きがあることを願っています。
イエス様は私たちの救い主です。救う力を持っています。この方を見上げ、ゆだね、とびこんで歩みましょう。困難な中にいる方は、イエス様のところから見てください。大丈夫です。死んだようなところに命を吹き込まれるお方です。復活の命が注がれます。みなさんの信仰が強められ、清められ、この小樽の地に、真の光がのぼり、小樽の地の人々がイエス様は主ですという日が来ることを信じています。アーメン。
*****************教会員の感想****************
□「知っています」ではなく、「信じます」という姿勢が大切になることに気づかされました。蜜のしたたるようなみ言葉を味わいながら生活したいと思います。
以上