小樽キリスト福音館メッセージ要約

小樽キリスト福音館で毎週行われる福音メッセージの要約をお届けいたします。

2008年7月6日のメッセージ

2008-07-27 09:20:02 | Weblog
2008年7月6日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:桐山塁
(垂穂キリスト教会)
テキスト:ヨハネ11章17-45節

テーマ:復活の信仰

神様は無限のお方、有り余る恵みをもって私たち一人ひとりを愛してくださいます。み言葉をもって私たちに話しかけてくださいます。先日、私は、イスラエルに一週間行くことを許されました。そのとき、ガイドの方が面白いことをおっしゃっていました。現地のラビは子供達に御言葉をよく教えるそうです。昼も夜もです。「乳と密の流れる地」という言葉がありますのが、ラビは子供たちにみ言葉を教えるときに、黒板に蜂蜜をたらすそうです。聖書には厳しいことばや戒めの言葉もありますが、本来はこのように蜜が流れるような言葉です。

今日は、ラザロの復活の箇所から、はちみつをかけたような言葉を分かち合いたいと思います。イエス様はマリアとマルタのファミリーと深い交わりをもっていました。ラザロが病気になった、という報告を受けたときにイエス様は不思議な行動をとります。すぐにラザロのところに行かずに、その場所に2日間とどまっていました。どうして行かなかったのでしょうか。イエス様がマリアとマルタのところに着いたときには、ラザロが死んで4日がたっていました。これはラザロが人間の力ではどうすることもできない状態にあることを意味しています。

さて、マルタとマリアは対照的な性格をしています。マルタは外交的でよく働き、思った事をすぐに口にする性格です。ですからイエス様が来たときには飛んでいってすぐに出迎えました。これに対しマリアは内向的で静かな性格で、イエス様が来たときにも家にとどまっていました。イエス様が到着したとき、マルタは「ここにいてくださったら、ラザロは死ぬことがなかったでしょうに」と言いました。また、彼女は、イエス様が神様に願う事なら何でもかなえられるということ知っていた、と述べています。しかし、マルタの信仰は知識や理性による信仰でした。何か起こったときには知識によって理解しようとする信仰です。その証拠にマルタは「信じています」ではなく「知っています」と言いました。

こうしたマルタの性格をイエス様はよくわかっていました。23節で「あなたの兄弟はよみがえります」と伝えます。死んでから4日もたったラザロが復活しますと断言したのです。これに対し、マルタは「終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」といいました。マルタはすぐに生き返るとは思っていなかったのです。彼女はここでも「知っています」と答えています。

しかし、イエス様はあきらめません。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と伝えます。ここでマルタに変化がおき始めました。知識による信仰から一歩踏み出そうとしています。イエス様の問いかけにたいして「はい。主よ。」と答えました。これは私たちの信仰生活に欠かせない言葉です。「はい。主よ。」です。マルタは、イエス様を自分より上に上げました。それまでの「知っています」という態度ではありません。

28節で、マルタはマリアを呼びます。「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。とそっと言った」とあります。これまでのマルタであれば「そっと」は言わなかったでしょう。態度が変わってきた証拠です。主を認めるとき、私たちの態度は変わるのです。

ここでマリアは「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と、マルタと同じことを言っています。しかし、マルタとは違って、マリアは、イエス様の足もとにひれ伏して言いました。自分を低くしたのです。すばらしい信仰です。主の前に正直に心の叫びを伝えました。私たちも主の前に、幼子のように、ありのままになっていいのです。心を開いて主の前に出る。私はこのことがわかるまで時間がかかりました。それまでは、主の前には襟を正して出なければいけない、と思っていました。しかし、今は、自分をそのまま出していいことがわかりました。

33節で、イエス様は涙を流されます。これは私たち人間と同じ感情をお持ちになっていることを表しています。イエス様は100%人間であると同時に、100%神様なのです。ですから、私たちの苦しみや悲しみを理解してくださるのです。苦しみや悲しみの中にいる兄弟姉妹がいらっしゃるかもしれません。しかし、イエス様がいます。私たちの苦しみや悲しみを理解してくださる方がいます。イエス様は、孤独の中で、さげすまれ、迫害され、多くの痛みを体験されました。イエス様が先にすべての苦しみや悲しみを通られたのです。「誰もわかってくれない」と感じている方がいらっしゃるかもしれません。でも、イエス様はわかってくださいます。

死に対して、イエス様は向かっています。死んだラザロを悲しむ人々を見て、死に対して憤りを感じられました。死を押し返し、立ち向かっているイエス様がいらっしゃいます。イエス様は、墓に来られて「その石を取りのけなさい。」と言われました。それに対して、マルタは「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」と言いました。マルタの信仰がまた揺れています。イエス様は彼女に対し「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」と告げます。

私たちは、栄光を見たら信じることが多いのですが、イエス様は「信じるなら、栄光を見ることができる」とおっしゃっています。信仰の歩みはとてもエキサイティングです。不可能にみえることが可能になります。復活を信じる信仰です。人間的なところに根ざした信仰は弱いのです。不可能なときにも、祈り、希望を持っていくことが大切です。

イエス様は、ラザロを死から復活させました。それを見て、多くの人々がイエス様を信じました。ラザロを見てイエス様を信じたように、私たちの姿を通して、人々はイエスキリストを信じるのです。皆さんはそのように召されています。私たちの職場や家庭で、私たちが光ることを主は願っておられます。この教会を通して主の働きがあることを願っています。

イエス様は私たちの救い主です。救う力を持っています。この方を見上げ、ゆだね、とびこんで歩みましょう。困難な中にいる方は、イエス様のところから見てください。大丈夫です。死んだようなところに命を吹き込まれるお方です。復活の命が注がれます。みなさんの信仰が強められ、清められ、この小樽の地に、真の光がのぼり、小樽の地の人々がイエス様は主ですという日が来ることを信じています。アーメン。

*****************教会員の感想****************

□「知っています」ではなく、「信じます」という姿勢が大切になることに気づかされました。蜜のしたたるようなみ言葉を味わいながら生活したいと思います。

以上

2008年6月29日のメッセージ

2008-07-22 13:57:36 | Weblog
2008年6月29日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:ローマ14章1-12節

テーマ:さばき合うな

ポイント
ローマ教会には、意見の相違から、お互いにさばき合うという問題がありました。パウロは、愛の心をもってたがいに受け入れ、さばき合うことをやめるように勧めています。それによって、教会が一致し、神の栄光をあらわすことができるのです。

聖書の箇所

あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。(1-3節)

ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(5-6節)

キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。(9-10節)

解説

ローマ教会内には、食物のこと、日のこと等について、特別な考えを持つ人たちがいて、「弱い者」と呼ばれていました。これに対し、そのようなことにとらわれる必要はないとする人々もいて、彼らは「強い者」と呼ばれていました。そして、このような見解の相違を持つ者たちが集まるとき、さばき合いが起こっていたのです。

この問題を解決するために、パウロは愛の心をもってたがいに受け入れ、さばき合うのをやめるように勧めています。そうすることで、互いに徳を建てあげるよう努力するように伝えています。コリント人への手紙をみると、パウロ自身は強い者の立場をとっているように思われますが、このことをローマ人への手紙の中では主張していません。むしろ、生じている問題への対処の仕方に関心を持っているようです。パウロが願っているのは、教会の一致であり、それが神の栄光になるということにありました。

信仰者は、すべての言動について神に弁明するときが来ます。それゆえに、他の人々の信仰や態度について簡単に批判すべきではないでしょう。また、自らのうちに真の確信を持つこと、自分の言動に責任を取ることが大切になります。そうすることによって、信仰者は、人に対しても、神に対しても責任を持って生きることができるのです。

*****************教会員の感想****************

□私たちは、すぐに他人をさばいてしまう弱い存在です。いろいろな意見を持つ人がいますが、それが神様を喜ばすためのものであれば、許容することが大切なのですね。

以上

2008年6月22日のメッセージ

2008-07-13 08:32:42 | Weblog
2008年6月22日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:マタイ25章14-30節

テーマ:わずかな物に忠実なしもべになる

ポイント
イエスさまは、天の御国を「しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人」にたとえています。私たちクリスチャンは、賜物の大きさではなく、任せられた賜物を忠実に用いることによって評価されます。

聖書の箇所

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。

解説

旅立つ主人がしもべたちを呼んで、自分の財産を預けました。その額は、おのおのその能力に応じて、五タラント、二タラント、一タラントでした。この「タラント」は、しもべたちが管理するようにと主人から預けられた財産です。「おのおのその能力に応じて」とありますが、タラントを預かる人の「能力」も主から預けられた賜物です。

一タラントは、6000デナリで、当時の労働者の六千日分(約17年分)の賃金に相当します。すべてのクリスチャンは、主の御国のために、最低六千日分の賃金にも相当する重要な働きをする者として召されているといえます。

預けられたタラントで商売をしてもうけたしもべは「良い忠実なしもべだ」とほめられています。ここで大切なことは、しもべが、もうけた金額によってではなく、任せられた賜物を忠実に管理運用したことによって評価されていることです。一タラント預けられた者は、何もしなかった事で悔いを残す結果となりました。

私たちに約束されている天の御国をこのように理解するとき、地上での人生観も変わってきます。私たちは、天でたくさんのものを任せられる者となるために、地上においてわずかなものに忠実にならないといけないのです。神が与えられたものをいかに実現するかは、人間の問題といえます。

*****************教会員の感想****************

□神様から与えられた賜物を用いることが、主の栄光をあらわすことにつながるのですね。

以上

2008年6月15日のメッセージ

2008-07-06 08:27:18 | Weblog
2008年6月15日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:安藤俊悦
(札幌キリスト聖餐教会牧師)
テキスト:コリントⅡ5章14-15節

テーマ:いつまでも残るもの:悔いのない人生

聖書の箇所

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

解説

生きるとはどういうことでしょうか。若い人にとってはこれからのことですが、今日はソロモンとダビデという二人の人生を比べて、生きることの意味について考えてみたいと思います。

ソロモンと言えば、ソロモンの知恵、ソロモンの栄華という言葉が連想されます。ソロモンの人生はまさにその言葉に言い表されている人生でした。富と権力と知恵に恵まれ、さらには海辺の砂浜のような広い心も備わった、人格的にも申し分ない、まさに理想的な人生でした。が、彼は人生の途中において彼の妻たちによってまことの神から偶像へと心が移ってしまいます。彼は人が望むすべてのものを持っていましたが、神に対する信仰は失いました。神以外のものはすべて持っている人生を彼は送ったのです。

その結果はどうだったでしょうか。彼の晩年の作である伝道者の書は彼の遺言のようなものですが、全体が“むなしかった”という色調に彩られた、聖書の中では異色のものになっています。「私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままにあらゆる楽しみをした」という人生でした。銀をまるで価値の無い石のように用いるほど豊かな人生でした。しかし彼の心は空虚な思いに満たされていたのです。神の無い人生はむなしいのです。ソロモンは、神が私たちに与えてくださった一つのサンプルです。

そしてソロモンが王であった期間は40年です。40年間、王として君臨したソロモンの輝かしい人生は、今の言葉でいえば勝ち組です。しかも大勝ち組です。しかし、その人生は40年で終わったのです。40年。長いですか?短いですか?私たちはずっと生きるつもりでいますが、どんなに輝かしい人生だったとしても終わりがきます。人生は限られているのです。

人の青春時代は10年くらいでしょうか。伝道者の書は遺言のようなもので、若い人に向かってソロモンは書いたのです。この書で貫かれているのは「人生はむなしかった」というメッセージです。ソロモンは自分と同じ後悔をしないようにと、自分の歩んできた道を示した後に、若い人に向かって12章1節で「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と伝えているのです。

一方、ソロモン王の父であるダビデ王はその代表的な詩篇の中で「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神」(サムエル記Ⅱ22章2-3節)と歌っています。このダビデの詩の中には、彼の信仰が輝いています。ダビデは戦士でしたが、その詩で、神さまは自分を守ってくださる方としています。この詩は試練の中で生まれてきました。試練は私たちに自分の弱さを教えてくれます。神様は私たちが弱いことを教えてくれるのです。

パウロ、アブラハム、ヤコブも自分の弱さを神さまから徹底的に教えらました。ダビデの作った数多くの詩篇は、試練の連続のような彼の人生の中から生まれてきました。そして数え切れない人が何千年にもわたってダビデの詩篇から慰めと励ましを受けてきたのです。ソロモンをうらやましいと思う人はいるでしょうが、ソロモンに励まされ、慰められる人はいないでしょう。ダビデが神とともに歩んだ試練の人生は、彼自身悔いの無いものであると同時に、多くの人の慰め、励ましとなっています。

ダビデの最後の言葉は感謝の言葉でしたが、ソロモンは後悔の言葉を残しています。コリントⅡの5章には、私たちは「自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる」べきである、と書かれています。キリストの愛に生きるのが私たちの使命です。反逆の子らに手を差し伸べるのが神さまです。

私たちはどう生きるべきでしょうか。私たちが死んでも残るのは、神とともに生き、神とともになしたことです。あなたの人生は限られています。それをどう使うか、ソロモンの人生から教訓を得て欲しいと思います。ダビデの生涯は戦いの連続でしたが、主と共に歩みました。最後に残るのは、主のために生きたことです。

*****************教会員の感想****************

□私たちは、ソロモンが持っていた頭脳、容姿、地位、財産にあこがれてしまいますが、それらを持っていたとしても、人生の最後に後悔することになるのですね。ダビデのように、主と共に人生を歩みたいと思いました。

以上