小樽キリスト福音館メッセージ要約

小樽キリスト福音館で毎週行われる福音メッセージの要約をお届けいたします。

2008年8月10日のメッセージ

2008-08-31 08:42:00 | Weblog
2008年8月10日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:Iサムエル1章1-28節

テーマ:現代人に失われた祝福

ポイント
一夫多妻が認められていた時代、ハンナは子どもがないために悲しんでいました。しかし、果てしなく続くように思えたハンナの悲しみは、神様の哀れみによって、わが子を神様に献げる信仰の器に変えられました。人間の力では解決できないように思われる問題に遭遇したとしても、全能の主に祈り続けるとき、ハンナが受けたような祝福が私たちにも与えられます。

聖書の箇所

エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンアと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。(1節)

彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。(6-7節)

ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(10-11節)

日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして、「私がこの子を主に願ったから。」と言って、その名をサムエルと呼んだ。(20節)

解説

サムエル記は、預言者サムエルの誕生に先立ち、彼の父親と二人の妻を紹介しています。近代社会では、一夫一婦を基本としていますが、サムエル記の時代は、一婦多妻が認められた時代でした。しかし、一婦多妻が時代の状況によって黙認されているかのように見えても、一夫一婦が本来の姿であることが聖書の基本的主張です。ここでは、一夫一婦という神の知恵のわざが、人間の罪によってゆがめられた時代があったという事実が示されていると思います。

ここでは、子どもがいる妻であるペニンナと、こどもがいないハンナが登場します。子どもができないハンナは悲しみ、神様に祈り、そしてサムエルという子どもを授かりました。第1サムエル記は、二人の妻の問題を提起し、一方の妻が神のもとへと招かれている姿を描いており、それによって、現代人が失った真の祝福を示しています。

果てしなく続くように思えたハンナの悲しみは、神様の哀れみによって、わが子を神様に献げる信仰の器に変えられました。この世の価値観によって霊の領域を満たすことは決してできません。人間の力では解決できないように思われる問題に遭遇したとしても、全能の主に祈り続けるとき、ハンナが受けたような祝福が私たちにも与えられます。

*****************教会員の感想****************

□私たちは神様から祝福されても、すぐに忘れてしまいがちです。しかし、ハンナは、子どもがさずかったことに感謝して、自分の子供を主にささげました。ハンナのように感謝の気持ちを持ちたいと思いました。

以上

2008年8月3日のメッセージ

2008-08-24 15:55:20 | Weblog
2008年8月3日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:Iサムエル3章1-21節

テーマ:その方は主だ:真の祝福の告白

ポイント
霊的に低迷するイスラエルに、サムエルを通して主が現われました。主からの言葉がどんなに自分に不利な言葉でも、「その方は主だ」と真に告白できる者は幸いです。日々の生活のなかで主の言葉を聞くとき、真に祝福された一生を送ることができるでしょう。

聖書の箇所

少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。その日、エリは自分の所で寝ていた。―彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。―神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。(1-5節)

そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。主はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。私は彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからののろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。だから、わたしはエリの家について誓った。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない。」(10-14節)

サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。こうして全イスラエルは、ダンからベテル・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った。主は再びシロで現われた。主のことばによって、主ご自身がシロでサムエルに現わされたからである。(19-21節)



解説

冒頭に「少年サムエルはエリの前で主に仕えていた」「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」とあります。この二つの文章は奇妙ですが、「主に仕えている」状況と、「主のことばはまれ」という二つの状況が重なっているのは、当時のイスラエルにおける低迷する宗教的な状況を示しています。

サムエルが主の宮に仕えていたとありますが、これは朝早く起き、窓を開け、掃除をし、年老いたエリや宮に来る人々のお世話をすることだったと思われます。雑用としか言いようのない仕事を忠実にこなしていくことも主に仕えることです。そして、主は、言葉によってご自身を現わされ、少年サムエルを預言者として召し出しました。「主はサムエルを呼ばれた」とあるとおりです。

神様の召命は少年への温かい呼びかけに始まります。しかし、その内容は、少年にとってあまりにも過酷と思われる「恩師エリへのさばきの宣告」でした。Ⅰサムエル記の3章は、「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」という状態から、「主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わされた」という状態まで回復した過程を、一夜の出来事によって語っています。

低迷するイスラエルに、サムエルを通して主が現われました。しかし、主の言葉は喜びの言葉だけではありません。それがどんなに自分に不利な言葉でも、「その方は主だ」と真に告白できる者は幸いです。この告白が、晩年になってからのものではなく、日々の告白となるなら、その積み重ねである一生は、真に祝福されたものになるでしょう。

*****************教会員の感想****************

□たとえ自分に不利な言葉でも、サムエルのように「主よ。お話ください。しもべは聞いております」と言える者になりたいと思いました。

以上

2008年7月27日のメッセージ

2008-08-17 08:34:05 | Weblog
2008年7月27日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:ローマ15章1-6節

テーマ:イエス様のお心を知る

ポイント

パウロは、イエス様を模範として「強い者が弱い者の弱さをになうべきです」と勧めています。信仰者がイエス様のお心に喜んで従うとき、神様が忍耐と励ましと希望を与えてくださいます。

聖書の箇所

私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望をもたせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。

解説
この箇所は、14章の主題を受け継ぎながら、「キリストの模範」という新たなテーマを提示しています。パウロは「私たち力のある者」という言葉で、「弱い人」に対する「強い人」のグループを想定しました。「力のある者」は、その力と共に大きな責任も負わなければならず、徹底的に他者のために生きる道が求められています。

クリスチャンは、キリストの模範に従わなければならないのです。引用されている詩篇の69篇「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」は、新約聖書においてキリストを示すために用いられる箇所です。この詩篇の訴えは、イエスの受難の姿に当てはまるからです。このキリストの模範に照らして、強い者たちは、弱い者の弱さや、彼らの屈辱を負うように、と勧告されています。

キリストは単に模範であるだけでなく、すべてのクリスチャンの原型です。「弱さをになうべきです」「自分を喜ばせるべきではありません」と考えると、自分がつぶれてしまいそうになるかもしれません。信仰者がイエス様のお心に喜んで従うとき、忍耐と励ましと希望が必要となりますが、それはすべて神様が与えてくださいます。一つの心を持って全てのものが「父なる神がほめたたえられる」ようになることが、教会のゴールとなるのです。

***************教会員の感想****************

□「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。」という言葉は、教会が大きくなる上で、また、クリスチャンの成長にとっても大切な言葉だと思いました。

以上

2008年7月20日のメッセージ

2008-08-10 19:27:03 | Weblog
2008年7月20日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:詩篇126章1-6節

テーマ:蒔かない種は芽が出ない

ポイント
バビロンの捕囚からの解放された人々が帰国したときに見た故国は荒れ果てた状況でした。それを再建することは人間的には不可能に見えたのと同じように、今日の日本における福音宣教はとても難しいように思われます。しかし、信仰をもって地道に福音の種を蒔き続けるならば、豊かな刈り入れがある、と御言葉は約束しています。

聖書の箇所

主がシオンの捕らわれ人を帰されたとき、
私たちは夢を見ている者のようであった。
そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、
私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき、国々の間で、人々は言った。
「主は彼らのために大いなることをなされた。」
主は私たちのために大いなることをなされ、
私たちは喜んだ。
主よ。ネゲブの流れのように、
私たちの捕らわれ人を帰らせてください。
涙とともに種を蒔く者は、
喜び叫びながら刈り取ろう。
種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、
束をかかえ、喜び叫びながら帰ってくる。

解説

神によって選ばれたイスラエルの民は、神によって選ばれたという「選民意識」によって、傲慢の罪にいたる歴史をくりかえす民族でした。紀元前1000年頃、サウル、ダビデ、ソロモンによって王国が確立された後も、イスラエルは神様に頼らず、人間的な力に頼った結果、その不信仰によって王国は分裂しました。

神様の哀れみによって、ユダ王国は存続しましたが、なお続くユダヤ民族の罪のゆえに、神様は紀元前586年に、ユダヤ民族をバビロンに捕囚として連れ去りました。それから70年後、神様の哀れみのゆえに、ユダヤ民族は祖国ユダヤの地に帰ることが許されました。

バビロンからの解放は素晴らしい出来事でしたが、故国では神殿も城壁も荒れ果て、再建と修復作業は妨害されるという状態でした。帰還直後の期待は失望と不安に変わり、信仰者にとっては、試練の時期であったといえます。

今日の箇所の前半は、帰還のときの喜びと期待の様子を表しています。しかし、徐々に、苦難の中で失望している民の訴えと助けを求める祈りに変わりました。そして、最後の部分では、試練の中で神の約束と力に信頼し、回復を確信する姿が描かれています。

人々がバビロンに帰国した後、ユダヤ王国の再建は人間的には不可能に見えました。それと同じように、今日の日本における福音宣教は人間的には、どんなに伝えても、刈り入れが難しいように思われます。しかし、信仰をもって地道に福音の種を蒔き続けるならば、豊かな刈り入れがある、と御言葉は約束しています。あなたは、この御言葉をどのくらい信じ、福音のために犠牲を払っているでしょうか。

*****************教会員の感想****************

□どんなに難しい状況にあっても、地道に種を蒔く事の大切さがわかりました。

以上

2008年7月13日のメッセージ

2008-08-03 10:12:59 | Weblog
2008年7月13日
小樽キリスト福音館・主日礼拝
メッセンジャー:佐藤直樹
テキスト:ローマ14章13-23節

テーマ:人をつまずかせるな

ポイント

パウロは、互いにさばき合うことをせずに、強い者は弱い者への配慮をもって生活し、キリストの僕として生きる生き方を勧めています。

聖書の箇所
ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。(13節)

このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。(18-19節)

解説
この箇所のほとんどは、強い者への戒めとして語られています。パウロは、強い者は弱い者への配慮をもって生活すべきであると教えています。しかし、ただつまずかせない、というだけでなく、お互いの霊的成長に役立つことを追求するようにとも勧めているのです。

「キリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められる」とありますが、「認められる」という語は「テストしてよしとされる」の意味です。また「霊的成長に役立つ」は、「教会の交わりを建設することを指しています。

18節にある「キリストに仕える人」とは、キリストの僕として生きる生き方を強調している表現ですが、キリストの僕として隣人に仕える生き方は、人間的には一番損をしているように思える生き方です。しかし、このように生きるとき、神様はその器をこよなく祝福してくださり、用いてくださいます。

*****************教会員の感想****************
□強い者は高ぶらずに、仕える者として生きるべきである、という神様のメッセージが伝わりました。
以上