小樽キリスト福音館メッセージ要約

小樽キリスト福音館で毎週行われる福音メッセージの要約をお届けいたします。

主を喜ぶことは私たちの力の源である

2016-08-18 19:04:53 | Weblog
2016年4月10日
小樽キリスト福音館 主日礼拝
メッセンジャー:佐藤 直樹
テキスト:ネヘミヤ8章1-18節

テーマ: 主を喜ぶことは私たちの力の源である

ポイント
エズラによって朗読された律法を聞いた人々は泣きました。しかし、ネヘミヤは、今こそ許しの神を喜ぶときであり、神を喜ぶことがこれからの生きる力の源になるのだと勧めました。

聖書の箇所

そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持ってきて、水の門の前で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。(2-3節)

総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。(9節)

こうしてみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。(12節)


解説

七月一日「ラッパの聖会」の日、民はみな一人のようになって水の門の前の広場に集まってきました。学者であり、祭司であるエズラは、人々の求めに応じてモーセに律法(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を持ってきて朗読しました。夜明けから昼過ぎまで読まれた律法の内容に人々は耳を傾け、泣いたと記されています。自分たちの罪を示され、深く反省したためでしょう。

パウロは、「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」(ローマ3・20)と述べています。律法とは人間に対する神の求めですから、誰ひとり完全にこたえうるものはいません。エズラが読む律法を聞いて民が泣いたのは当然のことです。

しかし、今や、そのいっさいの罪が許され、エルサレムは復興し、そこで神を再び礼拝することが許されました。そこに気づくとき、もはや人々は憂えたり、泣いたりしてはいけないのです。なぜなら、それは神の恵みを否むことになるからです。ネヘミヤは、今こそ許しの神を喜ぶときであり、神を喜ぶことがこれからの生きる力の源になるのだと勧めたのです。

*****************教会員の感想****************

□主からの恵みを喜ぶことの大切さがわかりました。

以上