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12月の日比谷公園:初冬の心字池や石垣周辺を散策する PART1

2013年12月23日 08時00分00秒 | 皇居周辺・城西


江戸時代、徳川政権の遺構でもある「心字池」の散策道を歩いていきます。この日は大変寒かったので、心字池を眺めることが出来るベンチで休憩している人の姿はほとんどありませんでした。




現在の心字池がある場所は、江戸時代は江戸城の外濠の水面が広がっていた場所です。現在の日比谷交差点(日比谷公園の北東角)から南へ向かって伸びていた外濠と、濠の水面を取り囲む石垣で覆われていました。




日比谷交差点(日比谷見附跡地)から南へ伸びていた外濠の水面は、帝国ホテル本館付近で東側へ直角に曲がり、JRの高架橋の下付近で外濠(現在の外堀通り)に合流していました。




江戸時代以前は「日比谷入江」と呼ばれている東京湾の海面と湿地帯が混在していた日比谷公園ですが、徳川家康の土木事業「天下普請」によって、大量の土砂で埋め立てられました。




江戸城日比谷御門のすぐ外に位置し、江戸時代には錚々たる大藩の上屋敷が置かれていました。幕末の時点では、北側には御用屋敷・萩藩毛利家・佐賀藩鍋島家、南側には三草藩丹羽家・吹上藩有馬家・福知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩北条家の各上屋敷が存在しました。




明治時代になると大名屋敷が廃されて更地となり、日比谷ヶ原と呼ばれます。明治4年(1871年)には日比谷・霞が関の旧武家地一帯に陸軍操練所が設置され、明治18年(1885年)には「日比谷練兵場」と改称されました。




現在の丸の内の高層ビル群が広がっている界隈も明治時代初期は、雑草が生い茂る荒れ地になっていました。大正時代になって中央停車場(現・東京駅)が建設され、オフィス街へと変貌していくのです。




心字池周辺の黒松の木々は、冬季になると竹で樹全体を覆う作業が施されます。その準備のための木材が地面に置かれていました。




江戸時代からそのままになっている外濠の石垣を撮影しました。200年以上も現存している城郭の石垣というのは、全国的にも珍しい存在なのではないでしょうか。




心字池を北側から、その全景を撮影しました。江戸時代には、江戸城の門の一つである「日比谷見附」がこの辺りに広がっていました。




官庁集中計画においては日比谷ヶ原にも官庁の建設が予定されたのですが、元々入江だったため地盤が悪く、大掛かりな建物の建設には不向きと判断されました。1888年11月には内務省東京市区改正委員会において古市公威・芳野世経により公園地としての利用が提案され、翌年には日比谷公園を第一とする第四十九までの公園の整備を盛り込んだ市区改正が告示されます。




日比谷見附から南側へ伸びる外濠の水面については、濠の水面を埋め立てる際に一部を「心字池」として埋め残し、日本的な要素も残して回遊式庭園として整備しました。




日比谷公園の北東角に面している「日比谷交差点」が見えてきました。




心字池の石垣の上にも散策道が整備されていて、ベンチなども設置されています。5メートルほど周辺よりも高い石垣の上から、日比谷公園内を見渡していきます。




石垣の上から心字池を見渡していきます。



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