週刊! 朝水日記

-weekly! asami's diary-

223.Bスペックで遊ぶ『GT4』①

2012年11月25日 | ヘタレゲーマークロニクル

-Gamer's Chronicles of "HETARE" #31-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 え~、皆さま、大変お待たせしました。
 MFDとasami hiroakiがお送りする『ひぐらしのなく頃に』二次創作小説第2弾、『Beyond‐When They Cry Again...』のアルティメット版、つい今し方、アップ、完了致しましたっ!!
 先月は急な予定変更でしたが、今月は無事アップ出来ました。 良かった良かった。
 今回は、いつものコメンタリーに加えて連載版未収録の『おつかれさま会』を初収録! さらに、特典集にはこれまでお蔵入りを余儀なくされていた未公開シーン&未公開エピソードを多数収録!
 連載版を既に読んで頂いた方も、まだ読んでいない方もお楽しみ頂ける内容になったと自負しております。
 アルティメット版『Beyond』のダウンロードは、画面向かって左側の“サークルウェブサイト”のリンクからMFD‐WEBに飛んで頂き、“DOWNLOADS”の項目からDLして下さいませませ。
 asayan渾身の一作、『ひぐらしのなく頃に』最後の最終章! お楽しみ頂けたら幸いです。


 さて来月は、先週連載を終了したばかりの『「メトロポリス」伝説』のPDF版のアップを予定しています。
 大丈夫。 間に合います。 ってゆーかもう出来てます。(←!?) 後は校正だけ。
 来月25日まで、今しばらくお待ち下さい。



<今週の特集>

 今週の特集は、超久々(注:約1年振り)のヘタレゲーマーです。
 ただ今ナゼかマイブームのPS2ゲーム、『GT4』について色々書いていこうかと思います。
 1作目から累計数百時間のプレイタイム(!)を費やしたレーシングゲームですが、今回は『GT4』から追加されたディレクターモード、Bスペックモードを中心に攻略する、という趣旨で書いていこうと思います。
 最後までよろしくね☆


・Bスペックモードとは?

 さて、まずは件の“Bスペックモード”とは何ぞや? というお話から。
 Bスペックモードとは、『GT4』から追加されたゲームモードで、ゲーム中では“ディレクターモード”と呼ぶ。
 その名の通り、本来レーシングゲームではプレーヤーがその役割りを担うドライバーをAIに任せ、プレーヤーはレースを観戦しながらAIに走行ペースやピットインタイミングなどの指示を出し、レースをレーシングチームの監督になった気分で楽しめるというゲームモードである。
 このゲームモードの実装により、それまでレーシングゲームとしてはプレイタイムの長さからなかなか遊べなかった耐久イベントが手軽に遊べるようになり、加えて「クルマはスキだけどレーシングゲームは苦手」という人でもゲームで遊べるようになった。
 特に、『GT』シリーズはそれまでの爽快感やゲーム性重視のレーシングゲームとは異なり、リアリティ重視のかなりストイックなゲームだったため、レーシングゲームとしては比較的“マニアック”なタイトルだったが、このゲームモードによってよりカジュアルに、手軽に遊べるようになったのではないかと思う。
 このゲームモードは、現在のシリーズ最新作であるPS3の『GT5』にも実装されているが、しかしこのゲームモードを指して、「これは最早“レーシングゲーム”ではない。」という批判も間々聞かれる。 が、僕はそれには同意出来ない。
 何故ならリアルのモータースポーツは、基本的に“チーム戦”だからだ。
 FIA(注:国際自動車競技連盟)や、日本国内のレースイベントを仕切っているJAFなどの公認レースは、国内外を問わず安全性確保のための細かい出場規定があり、特にFIA公認の国際レースでは、ドライバーだけでなくチームクルーにも資格や規則が存在する。 逆に言えば、FIA公認レースに出場するにはこの資格や規則、規定をクリアしている必要があり、必然的にチームでなければ出場出来ないのである。
 すなわち、実際にレーシングマシンをドライブするのはドライバーただ一人だけだとしても、マシンをメンテナンスするメカニックや、スケジュールや金銭面を管理するマネージャー、そしてチームの運営からレース展開によって指示を出す監督に至るまで、モータースポーツはチームが一丸となって戦う“チーム戦”なのである。
 ……ってゆーか、そもそもモータースポーツはとにかくお金がかかるスポーツなので、個人の財力だけで出場する事自体が不可能に近い。
 それに、クルマ雑誌やチューニングパーツのメーカー、あるいはサーキットの運営会社などが主催するJAF公認の一般向けのタイムトライアルイベントでもない限り、給油やタイヤ交換を行うレース中のピットインは“必須”とも言えるため、ドライバーがマイカーを持ち込んで一人でレースする、なんてコトは不可能なのである。
 レーシングゲーム、特に『GT』シリーズでは、リアルのモータースポーツを再現するためにピットインも1作目から再現されており、ピットクルーはコンピュータがやってくれるので、プレーヤーはドライバー、兼メカニック(注:マシンのチューンやセッティング)、兼マネージャー(注:ゲーム内資金)、兼チーム監督(注:ピットインやペースの指示)をやっていたが、このBスペックモードでは、この内のドライバーをAIに任せる事によって、リアルにおける(本来の)モータースポーツという競技をある意味完璧に再現する事に成功したと言えると思う。
 ……断っておくが、僕は何もレーシングゲームが苦手というワケではない。 ってゆーかむしろ得意ジャンルである。
 以前サントラCDを紹介したナムコの『リッジレーサー』シリーズはPSPの『リッジレーサーズ2』まで全シリーズオールクリアしているし、『GT』シリーズにしても3作目までは耐久以外は全てクリアしている。 3作目に至っては、ライセンスオールゴールドも達成した。
 仲間内では、レーシングゲーム(と、音ゲー)だけは僕が最速だった。
 しかし、それでもこのBスペックモードを批判するような事はない。 むしろ、「よくぞ実装してくれた!」と高く評価している。
 何故なら、先にも記した通りこれまでプレイタイムのあまりの長さのために敬遠するしかなかった耐久イベントが手軽に遊べるようになったからだ。 最初の頃はイライラさせられる事も多く、育成シュミレーションの要素が強い(注:詳細は後述)感もあるが、今ではレーシングゲームのこれまでとは異なるひとつの方向性を示した画期的なゲームシステムだと評価している。
 ちなみに、以前ちょっと書いた時からしばらくやり込み、耐久イベントは全制覇。 最難関のMRチャレンジもBスペックのおかげでクリアした。 ドライビングスタイルが常に一定なので、マシンスペックやセッティングがモロにラップタイムに現れるので、チューンやセッティングを学ぶのにも適していると思う。


・下準備

 では、そんなBスペックモードで遊ぶための下準備を行っていこう。


STEP.1:目標を決める

 まずは目標を決めよう。
 『GT』シリーズは、レーシングゲームとしてはかなり不親切な設計で、実は最終的な目標というモノがない。 つまり、何を以って攻略とするか?は、実はゲームではなくプレーヤー側が決める事なのである。
 このゲームは、遊び場とおもちゃを与えられてさあ遊べ!と言われているのと同じで、STGやRTS、シングルプレイFPSのように最終的な“攻略”が設定されていないのである。
 さらに、Bスペックでは遊べないイベントもある。
 オンロードのサーキットレースは全てBスペックで遊べるが、ライセンス取得、ミッションレース、及びスペシャルコンディションレースはBスペックが使えない設計になっている。
 ライセンスとミッションレースは、元々がプレーヤーのドライビングスキル向上のためのイベントで、ドライバーをAIに任せるBスペックでは本末転倒なので使えない。
 また、ダートやスノー、レインといった低ミュー路のスペシャルコンディションレースは、CPUカーとの接触やフェンス激突の際に課せられるペナルティ(注:1回につき5秒間の50km/hの速度制限)のため、Bスペックだと逆にクリア困難になる(注:BスペックのAIは、CPUカーを避けるのがとても苦手。 かなりがっつんがっつんぶつける)ので、実装が見送られたようだ。
 つまり、Bスペックモードだけでは、“全レースイベント制覇”や、“全ゴールドカップ獲得”、それに伴う“全プレゼントカーゲット”は不可能である。
 そのため、Bスペックモードのみで遊ぶ場合は、とりあえず“Bスペックが使えるレースイベント全制覇”は当然として、それ以外に“買えるクルマは全部買う”とか、“資金1兆クレジット”などの目標を設定すると良い。
 こうした目標があった方が、ゲーム攻略にも熱が入るだろうしね。
 ちなみに、僕の目標は“所有したクルマのチューニングパーツを全部買う”である。
 時間さえかければ達成可能ではあるが、欲しいクルマはいっぱいあるんだよね。 何せ、『GT4』に収録されているクルマは700車種以上もあるし。 いったいどれほどの時間を費やす事になるのやら……。


STEP.2:ゲームシステムを理解する

 Bスペックは、何もグランツーリスモモードだけのゲームモードではない。 実はアーケードモードでも使える。
 そこで、まずはアーケードモードで遊んで、Bスペックモードのゲームシステムを理解しよう。
 Bスペックモードでは、5段階の走行ペースと前走車を抜くオーバーテイク(注:英語には、本来“オーバーテイク”という語はない。 同じ意味で用いられる語は、正確には“テイクオーバー”。 元々は“乗っ取る、買収する”などの意)、そしてピットインタイミングをそれぞれAIに指示出来る。
 アーケードモードでは、デフォルト設定でタイヤの磨耗がオフになっているので、出来ればオンにした方が良い。 また、それに合わせて周回数もピットインが必要なぐらい(注:サーキットにもよるが、ニュルやサルテのような長距離でもない限り、10周以上に設定しておくと良い)にしておくと良いかと思われる。
 ただ、ピットインタイミングに限っては、タイヤが磨耗してくるとAIの方からピットイン要求が自動的に出されるので、どれぐらいの周回数でこの要求が出るのかを確認する程度の意味しかないですが。
 明確に指示が必要なのは、走行ペースとオーバーテイクである。
 走行ペースは、標準の“マイペース”だと(マシンスペックが同等ならば)CPUカーとほぼ同じラップタイムになるので、6位スタートだと優勝出来ない。(注:難易度にもよるけどね) そこで、“ペースアップ”や“ハードプッシュ”の指示を出さなければならないが、この走行ペースだとAIが“攻め過ぎる”事があるため、特にシケインやトリッキーや複合コーナーだとコースアウトして逆効果になる事が多い。
 コツとしては、まず1周目に“ハイペース”の指示を出してAIのドライビングを見極める。 コースアウトするトコロとしないトコロを確認するワケだ。
 そして、2周目以降はそれを元に、ストレートや高速コーナーなどのオープンセクションは全開走行を指示し、シケインやヘアピン、低速コーナーなどのインフィールドは“マイペース”、ピットイン要求は出てないが、その周回で確実にピットイン要求が出そうな時は“リラックス”や“ペースダウン”を指示する。
 これを基本に、レース展開を見ながら随時指示すれば、AIは確実に勝てる。
 ちなみに、指示を出す時はドライバー視点にした方が良い。 中継視点だと、まず間違いなく指示ミスする。 説明するのが難しいので詳細は割愛するが、自分でドライブしているつもりで指示を出すと良い。(注:やってみれば分かります)
 また、オーバーテイクはスリップストリームが必要な時や、前方に複数のCPUカーが入り乱れている時などに、AIに“ワザと抜かせない”のを指示するのが基本的な使い方。
 レーススタートと同時にオーバーテイクをオンにするのが基本だが、先にも記した通りAIはCPUカーを避けるのがとても苦手で、特に前走が複数だったりすると、ルール上直上の順位にいるCPUカーをオーバーテイクしようとするが、オーバーテイクラインにいるそれよりも一つ上の順位のCPUカーまで気が回らないため、これにオカマを掘る、という事が実によくある。
 これを避けるため、オーバーテイクをオフにして、ワザと抜かせないようにして抜き易い状況になった時に改めてオンにする、という方が確実である。
 逆に、抜きドコロで抜かせたい場合は、オーバーテイクのオン/オフではなく走行ペースの方で指示した方が確実に抜き易い。(注:そのため、“ハードプッシュ”は常に空けておくと良い。“ペースアップ”で差を詰めて、抜きドコロにきたらすかさず“ハードプッシュ”を指示して抜かせる)
 また、テストコースやサルテ、ニュルのような1km以上に渡る超ロングストレートがあるサーキットでは、スリップストリームは必須テクニックである。
 しかし、オーバーテイクがオンのままだと、AIはスリップに入らずにオーバーテイクラインに入ってしまって逆に抜けないので、ストレートではオーバーテイクをオフにしてワザと抜かせないようにすると確実にスリップに入れる。
 ちなみに、スリップは“音”が重要。 SEをよく聴いて、風切り音が止んだ瞬間がスリップに入った証拠である。


STEP.3:ライセンスを取得する

 ゲームシステムが理解出来たら、グランツーリスモモードに入って、まずはライセンスを全て取得しよう。
 先にも記した通り、ライセンスではBスペックが使えないのでプレーヤーが自分で取得するしか手がないが、Bスペックで遊ぶだけなら、実はライセンスを取得する必要はない。 ドライバーは飽くまでもAIなので、“プレーヤーの”ドライビングスキル向上を目的としたライセンスイベントは攻略しなくても良いのだ。
 実際、ライセンス取得が必須になっているレースイベントでも、Bスペックならば不要になっている。
 しかし、それでもライセンスは取得して頂きたい。
 何故なら、ライセンスを取得する事によってプレゼントカーがもらえるからだ。
 グランツーリスモモードのスタート時では、資金が少なくせいぜいテンロク(注:1600ccの事。 EG/EKのシビックやAE86のレビン/トレノ、NAのロードスターなど)クラスの中古車が買えるぐらいしかなく、チューンしようにもそもそもお金がない! また、テンロククラスではチューンしてもタカが知れているので、資金集めに苦労する事必至である。
 そこで、まずはライセンスを取得し、これによってもらえるプレゼントカーをゲットし、これをスタートにすると良い、というワケだ。
 オススメは、iaでもらえるニスモの270Rだ。
 ニッサンのS14前期型のシルビアをベースに、ニッサンの系列チューニングパーツメーカーであるニスモが独自にチューンしたコンプリートカーである。
 元々基本スペックの良いS14シルビアをチューン(注:2リッターのFR。 ターボで220ps。 これを、その名の通り270psまでアップデートしている)しただけあって、フルノーマルでも初級のレースイベントなら結構勝てる。 FRチャレンジを中心に資金稼ぎをすると良い。
 ちなみに、270Rはiaのオールブロンズのプレゼントカーだが、ライセンス取得と言ってもオールゴールドを目指す必要はない。 取得するだけ。 オールブロンズで十分。 『GT』シリーズのライセンスは、オールブロンズで取得するだけなら初心者でも結構カンタンに取れる。 早い人なら1、2日。 遅い人でも1週間もあれば取得出来るハズである。(注:逆に、オールゴールドは何百時間かけても取れない人は絶対に取れない。マゾゲーにしかならないので、ハナから諦めるべき。 僕も諦めてる)
 コツとしては、とにかく基本に忠実である事。
 アウト・イン・アウト、スローイン・ファーストアウトを心がけ、クルマの走る、曲がる、止まるの基本3要素を意識すれば、クルマは確実にアナタの言う事を聞いてくれます。
 また、スーパーライセンスの取得では、これに加えて“コースを憶える”というのが必要になる。
 スーパーライセンスの取得は、全て“決められたサーキットを決められたクルマで1ラップタイムアタックする”という内容なので、それぞれのコースを走り込んでコースレイアウトを頭に入れておく必要がある。
 ただし、ライセンスの取得ではコースアウトは即失格になってしまうので、1ラップする前にコースアウトしてその先が憶えられない!というジレンマに陥り易い。(注:特にニュル!)
 アーケードモードで練習しても良いが、中には初期状態だとアーケードモードで走れないサーキットもあるので、こういう時は“ワザとシフトアップしない”などの方法でスピードを制限(注:アクセルワークだとクルマが思わぬ挙動を示して逆にコースアウトし易いので)し、ラップタイムを気にせず、とにかく1周周回する事を優先してコースを憶えると良い。 特に、ザウバーC9でニュル1周、なんてのは、この方法を使った方が早い。
 そうやって、慣れてきたらシフトアップして5速や6速に入れる時間を長くしていき、徐々にペースアップしていけば確実にラップタイムは出る。
 ちなみに、開発側はゲームをプレイする事で「確実に運転が上手くなる!」と豪語しているが、それは飽くまでもスポーツ走行に関してのみ。 街乗りでは違法行為にしかならないので、教習所の教則本を読み返した方が上手くなる。


 以上が下準備である。 この準備が終わったら、いよいよレースイベントの攻略に乗り出そう。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


クマーーーーー!!!


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 序盤のボスキャラ。 ヴァニラのクマを2倍ぐらいのサイズにしたデッカいクマさん。 しかし、デカ過ぎて階段を上れないので、階上からスナイポすればカンタンに倒せる。 ちょっと気の毒。(笑)



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

コメント
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222.『メトロポリス』伝説:終章

2012年11月18日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #23-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 先週の週明けから一気に冷え込みが増し、ようやく平年並みの気温になってきました。 ウチの店の前の銀杏も、ようやく黄色く色付き始めました。
 さらに、店内放送では毎年恒例のクリスマスソングが流れ始めました。
 もう……ってコトもないですね。 11月も半ばですもんね。
 なんていうか、夏から秋を飛ばして冬になったような気がします。


 それとは関係ありませんが、先週は大きな動きが色々とありましたね。
 まずは、森光子さんの訃報。
 昭和から平成にかけてTVドラマや舞台で活躍し、女優としては初の国民栄誉賞も受賞した大女優が亡くなりました。
 しかし、享年92歳の大往生。
 なので、僕はあえてこう言わせて頂きます。

お疲れ様でした。
ゆっくりお休み下さい。


 そして、政界にも待ちに待った変動がありました。
 衆院解散。
 そして総選挙は来月12月に行われるとの事。
 チキンハート野田がようやくカクゴを決めたようです。
 ってゆーか、民主党は既に空中分解状態なので、もう諦めたのかもしれませんね。
 いずれにしても、来月の総選挙で政権交代は確実。 ようやく日本がよくなる方向に向かえそうです。
 と、いうワケで政権交代を祝して前祝だ!


 はい、毎年11月の第3木曜日恒例のボジョレーでございます。
 今年も、昨年同様ローソンオリジナルボトル、ドメーヌ・ド・トロワなんですが、今年は昨年までと違ってグラスや小物が付いてくるプレミアムセットがありませんでした。(注:左図のボジョレー以外、ワイングラス、ソムリエナイフ、注ぎ口は、全て昨年までのプレミアムセットの特典です)
 まあ、ワインブームも聞かれなくなって久しいし、今年は異常気象もあってブドウの出来も良くなさそうだし、マスコミも全然騒いでないですしね。
 しかしまあ、僕は毎年恒例なので買いました。
 では失礼して、カンパ~~イ!
 …………。
 うん、まあこんなモンか。
 去年のよりやや劣るやも知れず、といったカンジ。
 まあ、ヴィンテージの違いが分かるほどワイン飲み慣れてるワケじゃありませんがね!(笑)
 ともかく、皆さんも(お酒の飲める方は)ボジョレーで政権交代前祝、してみてはいかがでしょうか?



<今週の特集>

 今週の特集コーナーも、引き続き映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第23回です。
 今回が、いよいよ最・終・回ッ!!
 長かった……。
 結局半年かかっちゃいました。(^ ^;)


終章

・最後の“ナゾ”

 以上述べてきたように、映画『メトロポリス』の有する“ナゾ”を様々な角度から調査研究し、考察、解説する事によってこの“ナゾ”のいくつかを解明してきた。
 しかし、本作における“ナゾ”の中で、解明しなければならないモノがもう一つだけ残っている。
 それが、本作の“設定年代のナゾ”である。
 本書の冒頭、序章にて、筆者は本作の設定年代をミレニアムの年、“西暦2000年”と記したが、実はこの設定年代の根拠は極めて希薄で、修復された2001年版のDVDソフトの記述をそのまま鵜呑みにしているだけで、何かしらの根拠があるワケではない。
 また、一般に言われている“西暦2026年”という設定年代に関しても、実はハッキリとした根拠があるワケではない。 筆者自身、英語やドイツ語の資料を色々探してみたが、設定年代に関する記述は全く見つけられなかった。(注:日本語のサイトでは、いくつかでこの設定年代になっている記述があった)
 この“西暦2026年”という設定年代の根拠は、実は1984年公開のモロダー版で、この版の冒頭で“追加された”中間字幕にて“西暦2026年”という設定年代が示されているというモノである。
 この年代は、映画の製作当時から100年後という理由で正しいだろうと考えられているが、飽くまでも“考えられる”だけで根拠としては極めて弱い。
 もちろん、それは“西暦2000年”でも同じはあるのだが……。
 設定年代がハッキリしていないそもそもの原因は、本作の劇中に設定年代を示すモノが全く登場していないという点にある。
 本作の劇中、影なき男がニューススタンドで新聞を読んでいる場面(注:2010年版で復元されたシーン)があるが、ココで影なき男が手にしている新聞(注:“メトロポリス新聞”)に日付が入っていないかと思ったが、修復されたフィルムはもちろん、スティルでも文字がつぶれてしまっていて読めなかった。
 同じシーンで、労働者11811号が車中で紙幣を抱えるショットがあるが、この紙幣は映画用に制作された小道具で、しかも実物が現存している。 ので、発行年が入っていないかと思ったが、……入っていなかった。つД`)゜。
 そもそも、硬貨ならともかく、紙幣に発行年を入れる事ってあんまないしね。(注:日本の紙幣にも入っていない)
 その他、入手出来た資料は全て探したが、やはり本作の設定年代を特定する記述は一切見つけられなかった。
 筆者の探し方が悪かったのか、それとも元々ハッキリした年代設定がないのか……。
 恐らく後者だろう。
 しかし、これが“西暦2000年”であったと仮定すると、非常に重要な意味がある事に気付く。
 何故なら2000年は、“ミレニアム”という宗教上極めて重要な意味を持つ節目の年であるからだ。
 第6章で記したノストラダムスの大預言を再び持ち出すまでもなく、リアルタイムの世紀末というこの年は、1000年という区切りの年であり、キリスト教でも重要視されていたのは最早説明するまでもないだろう。
 それどころか、クリスチャンでなくとも、リアルタイムにこの節目の年を経験した皆さんだって、この年に何か起きるのではないかと期待……いやいや、不安を感じていた事だと思う。
 実際、筆者も祈っていた。

「何も起きませんように、何も起きませんように……。」

 と……。
 しかし、実際にその瞬間が訪れると、……結局何も起きなかった。 あれだけ騒がれていたノストラダムスの大預言も、結局は1999年7の月を過ぎたとたん、まるで台風一過のようにサッパリと聞かれなくなってしまった。
 再検証するでもなく、批判するでもなく、目の前を通り過ぎた風のように、誰も気にも留めずに過ぎ去っていっただけだった。
 ……だが、本当は“何もなかった”ワケではない。
 それは、ちゃんと起きていた。
 ただ、時間が少しばかりズレていただけだった。
 2001年9月11日。
 そう、9.11である。
 これに端を発したが如く、今世紀に入ってからというモノ、世界中で様々な出来事が同時多発的に乱発するようになった。
 9.11に始まった対テロ戦争。
 世界のあちこちで起った独裁政権打倒という革命。
 自然災害、政治的混迷、経済的混乱。
 その全てが次から次へと連鎖的に発生し、しかもそれは今もなお、現在進行形である。
 今から85年前、未来を予見すべく制作された本作にて示された巨大都市メトロポリスのヴィジュアルは、驚くほど正確に現在の大都市を予見している。
 バベルの新塔は高さ350mという設定だが、都庁に代表される高層ビルは実際にこの高さに匹敵する設計がなされ、2012年にいよいよオープンした東京スカイツリーは、これを遥かに超える高さを実現した。
 バベルの新塔の屋上から飛び立つ小型飛行機は、映画の製作当時にはまだ発明されていなかったヘリコプターに代わって再現された。 鉄道や高速の高架が縦横無尽に走る様子も然りだ。
 本作に登場した人造人間は、外見こそ大きく異なるモノの、ASIMOという独立した二足歩行を実現したロボットによって完璧に再現された。
 映画『メトロポリス』で描かれたミレニアムの未来は、今現在極めて正確にリアルで再現されているのだ。
 ならば、本作で描かれた革命、すなわち人間性の再発見たる“セカンド・ルネッサンス”はどうか? これもまた、今現在で正確に再現される可能性はないのだろうか?
 恐ろしい事に、筆者は“ある”と断じる他選択肢はない。
 これを書いている2012年6月現在、日本の政界はまさに危機的状況にある。 与党の独裁的政策によって、日本国民を本作の労働者たちのような過酷な現実へと陥れる法案が可決しようとしている。 日本は、いつ“革命”が起っても不思議ではないほど、国民の政治不信は頂点に達している。
 3.11の復興支援の遅れや、原発問題がこれに拍車をかけているのは明白だ。
 今の日本は、本作で描かれていた労働者たちの暴動がいつ起っても、全く不思議ではない状況にあるのだ。
 事実、中東では独裁政権を打倒すべく革命が起き、しかもそれが成功している。
 本作で描かれていた“セカンド・ルネッサンス”は、既に再現されているのだ。
 こんな時だからこそ、筆者はもう一度、皆さんに本作を鑑賞してほしかった。
 本作の語るメッセージに、耳を傾けてほしかった。
 そして、“人間性の再発見”を今一度、“再発見”してほしかった。

“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”

 筆者は、救世主的存在であるフレーダーが現れるのを待てと言っているのではない。 筆者が言いたいのは、仲介者がこころであるなら、その“こころそのモノ”を我々一人ひとりが取り戻す必要があるのだと言いたいのだ。
 何故なら頭脳と手と仲介者は三位一体であり、内なる神として我々一人ひとりの中にあるこころ、すなわち人間性に他ならないからだ。
 我々一人ひとりがこころ、すなわち人間性を“再発見”すれば、自ずから仲介者たるこころへと進化する事が出来るのだ。
 だからこそ、本作の設定年代は“西暦2000年”であるべきだと筆者は考えた。 本作の有している聖書的世界観をベーシックにした様々な寓意を強調するには、キリスト教的意味合いの強い“ミレニアム”である事は、必然的と言って良いほど重要な事だからだ。
 何故なら全ては、本作の観客一人ひとりが映画に学び、“人間性の再発見”という革命、“セカンド・ルネッサンス”をその内で経験させるためだからだ。

“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”

 我々は、今こそこの“こころ”を識る必要があるのではないか?
 だから筆者は、本書の執筆を決意したのである。


 映画『メトロポリス』は、1927年の初公開時に興行的大失敗となり、駄作の烙印を捺されて大衆の関心を失うも、その先見性と現代性が再評価され、今日最も優れた映画作品の一つに数えられるほどの名作になった。 その影には、本作に魅せられた多くの人々による努力と献身があり、何より映画で示されていた“人間性の再発見”が、失われる事なく形を変えながら脈々と受け継がれていた事実があった。
 そして、伝説から再生された映画『メトロポリス』は、85年の年月を経た今もなお、初公開当時の輝きを失う事なく、いやそれどころかより一層の輝きを放ち、極めて重要なメッセージを我々観客に語りかけている。
 このテーマとメッセージがある限り、映画『メトロポリス』はいつまでも色褪せる事なく、人類共有の財産として輝き続ける事だろう。
 そして筆者は、そうあり続ける事を願い、そして祈る。
 映画『メトロポリス』が、一人でも多くの人々の“人間性の再発見”を促す事を。
 そして本書が、その手助けとしてアナタの旅の道標になる事を。


・旅の終わりに

 筆者の旅はこれで終わる。
 全ての始まりには終わりがあり、物事は終わらせる事が重要だからだ。
 しかし、ココが目的地というワケではない。 何故ならこの映画を巡る旅の本当の終着点は、1927年1月のプレミア上映版の“完全復活”にあり、それが成されていない今現在は、“旅の途中”でしかないのだ。
 もちろん、第5章で既に述べたように、アルゼンチン版を以ってしても叶わなかった“完全復活”の可能性は、何をどう考えても極めてゼロに近く、故にこの旅はいつ果てるとも知れない終わり無き旅路であり、目的地にたどり着くのは夢のまた夢である。
 しかし、終わりは無くとも、終わらせる事は出来る。 そして、こうして結論を得られた今こそ、筆者はその旅の目的を達成したモノと判断し、旅を終わらせる事が出来るのだ。
 そしてそれは、決して諦めたからではない。 この終着駅が、筆者にとっての精一杯だからだ。
 これまでに記してきた事、そして考察した全てに対し、筆者は確信と責任を持っている。 が、いかんせん日本語で記されている資料が極めて少なく、またあったとしても他の資料と矛盾する記述や間違いも多く、結局は英語やドイツ語の資料に頼らざるを得なかった現実がある。
 しかし、筆者は決してパーフェクトバイリンガルというワケではなく、むしろ英語や、ましてやドイツ語など筆者の語学力の範疇外にある。 そのため、どんなに努力しても翻訳ミスの可能性が皆無にならないので、これで妥協するより他なかったというのが、正直なトコロである。
 そのため、筆者の方で十分に検証は行ってはいるが、本書に記した事の中には翻訳ミスによる間違いや誤解が残っている可能性があり、自信が無いというのが正直なトコロである。
 なので、これを読んだ皆さんにお願いしたい。
 間違いがあったら、どんどん指摘してほしい。
 翻訳ミスがあったら、どんな些細な事でも教えてほしい。
 この映画について知っている事があるなら、どんな小さな事でもいいので筆者に一言言ってほしい。
 そうしたご指摘を頂ければ、筆者は本書を書き直す用意がある。
 そう、この旅は、これがオワリなのではない。
 今この時が、新たなる旅のハジマリなのだ。
 筆者一人ではココまでしか来れなかったが、もしも皆さんが手を貸してくれるのなら、ココよりももっと先、あるいは本当の意味での“旅の終わり”にたどり着く事さえ、出来るかもしれない。
 さあ掴んでほしい。 筆者が差し伸べた手を!
 そして共に、新たなる旅路へと足を踏み出そうではありませんか!
 2027年、映画『メトロポリス』が、100周年を迎えるその時に向かって!


‐Data‐

メトロポリス(原題:METROPOLIS)

配給:ウーファ/パルファメット
出演:グスタフ・フレーリヒ
    ブリギッテ・ヘルム
     アルフレート・アーベル
     ルドルフ・クライン=ロッゲ
     テオドア・ロース
     ハインリッヒ・ゲオルゲ
     フリッツ・ラスプ
     エルヴィン・ビスヴァンガー他
脚本:テア・フォン・ハルボウ
    フリッツ・ラング
撮影:カール・フロイント(第1カメラ)
    ギュンター・リッタウ(第2カメラ/ミニチュア/多重露光)
    ヴァルター・ルットマン(アニメーション/特殊撮影)
    コンスタンティン・チェトヴェリコフ(ミニチュア)
    ヒューゴー・O・シュルツ(多重露光)
    エルンスト・クンストマン(シュフタン・プロセス)
    ホルスト・フォン・ハルボウ(プロダクション・フォト)
美術:オットー・フンテ
    カール・フォルブレヒト
    エーリッヒ・ケッテルフント
特殊効果監修:エーリッヒ・ケッテルフント(絵画トリック)
          オイゲン・シュフタン(シュフタン・プロセス)
衣装:エンネ・ヴィルコム
    ヴァルター・シュルツ=ミッテンドルフ
彫刻:ヴァルター・シュルツ=ミッテンドルフ
音楽:ゴットフリート・フッペルツ
製作:エーリッヒ・ポマー
監督:フリッツ・ラング


‐修復版‐

ソ連・チェコ版(61年):ウラジミール・ドミトリエフ(監修)
東独版(72年):ヴォルフガング・クラウエ(監修)
          エッカルト・ヤーンケ(助手)
パタラス版(87年):エンノ・パタラス(監修)
2001年版:マルティン・ケルバー(監修)
        フランク・シュトローベル(編曲・指揮)
2010年版:マルティン・ケルバー(監修)
       フランク・シュトローベル(編曲・指揮)
       フェルディナンド・マルティン・ペナ(アルゼンチン版発見者)
       パウラ・フェリックス=ディデイエ(アルゼンチン版発見者)

公開年月:1927年1月(日本では1929年4月)
総製作費:600万マルク(推定)
興行収益:7万5000マルク(ベルリン初演時)


 といったトコロで、映画徹底解説シリーズ『「メトロポリス」伝説』は今回を以って連載終了とさせて頂きます。 長い間お付き合い頂き、誠にありがとうございました。
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 ちなみに、PDF版は来月、12/25にアップ予定です。 お楽しみにっ!
 さて、来週からは近況、雑記などでお茶を濁しつつ(笑)、“次の連載”に向けて精進していきたいと思います。
 一応、連載開始は年明け早々を予定していますが、今まで以上に難産で、まだ連載が始められるほど原稿が上がっていないので、正直連載開始がいつになるか分かりません。 何せ今度の解説する作品は、映画作品ではない(!?)ので。
 今しばらくお待ち下さい。
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


さまようヨロイがあらわれた!


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 まさにさまようヨロイとしか言いようのないクリーチャー。 しかも結構デカい。 中盤から終盤にかけて登場するザコキャラだが、そこそこ強い上集団でエントリーする事が多い。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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221.『メトロポリス』伝説:第7章②

2012年11月11日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #22-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 すっかりスルーしていましたが、YouTubeに上がっていたIOC公式のロンドンオリンピックの動画、つい先ほど、全競技全種目、観終わりましたッ!!
 今頃ッ!?Σ(゜Д゜;)
 長かった……。つД`)゜。
 そりゃあね、競技が全部で30近くあって、種目が数百もあれば、開催期間がたった2週間でも同時進行している競技を全部観てたら、そりゃあ3ヵ月はかかりますって。
 まあ、それでも柔道やテコンドーなどの格闘技系は、あまりに試合数が多過ぎるので決勝トーナメントしか観てませんが。(注:それでも1競技当りフツーに1週間かかったけどなッ!)
 でも、面白かったです。
 とっても楽しめた。
 日本国内のTVでは滅多にお目にかかれない馬術や射撃、自転車競技やボート、カヌー&カヤックのスラローム等々、競技としての面白さ、試合としての見所が理解出来れば、こんなにも面白い競技だったんですね。 観て良かった。
 オススメは、馬術、射撃、自転車のロード/BMX/MTB、カヌー&カヤックのスラローム、そしてやっぱり陸上!
 やっぱり陸上は予選から観なきゃですよ!
 馬術や射撃は見た目が非常にじみぃぃぃな競技ですが、見所が理解出来ればスゴく面白いです。 特に、射撃の50mピストルは必見! 奇跡の大逆転劇を見逃すな!
 自転車競技は、トラックは正直観ていてもよく分からないのであんまり面白くないですが、ロード、BMX、MTBは見た目にも分かり易くかなりアツいのでオススメです。
 カヌー&カヤックのスラロームも、ルールが多少分かり難いですがやはりオススメです。 見た目にも涼しげですし……って、あぁ、もう11月だっけ?(笑)
 いずれにしても、YouTubeのIOC公式ロンドンオリンピック動画は、現在も公開中です。 ぜひ一度ご覧下さい。
 ……ですが、IOCの公式チャンネルでは、プレイリストが公開終了になったため、各競技の中継録画動画は公式チャンネルからは観れません。(注:ダイジェストやハイライトのみ)
 ですが、動画そのモノはYouTube内にまだ残っているので、以下の書式で検索するとヒットし易いです。

London2012OlympicGames (競技/種目) (試合日程)

 上記の書式で、全て英語表記で検索すればたいていヒットします。
 競技や種目の英語表記、及び試合日程は、ロンドンオリンピックやIOCの公式サイトを参照の事。
 また、それも面倒だという方は、とりあえずコチラからお試し下さい。(↓)

London 2012 Olympic Games - Athletics : Full Replay Complete

 作っておきましたプレイリスト。
 陸上競技のみですが。
 全部で72時間オーバー(!)。
 不眠不休で観続けても3日もかかる!(笑)
 初日の予選から最終日の男子マラソンまで、日程順に余すトコロなくご覧いただけます! 特にデカスロン(注:男子十種競技)は超必見!
 動画そのモノが削除されない限り放置しておきますので、どうぞご利用下さい。
 世界66億分の1誕生の瞬間を見逃すなッ!!
 そして、次のオリンピックは2016年、ブラジルのリオデジャネイロ!
 南半球での夏季オリンピック開催は、2000年のシドニーに続いて2度目。 南米大陸での開催は史上初!
 今から楽しみに待ちましょう!
 ……あ、その前に来年はモスクワ世界陸上がありますね。 再来年は、ソチ冬季オリンピックだ!


 ちなみに、観戦してたら自分でもスポーツしたくなったので、今はこんなのやってます。(↓)


 PS2の『GT4』です。(笑)
 直接SSが撮れないので写真でメンゴ。
 あえて4作目で!
 いや、買ってはあったんですが、今までずっと放置プレイだったので、これを機にやってみようかなと。 一応、モーター“スポーツ”だし。(^ ^;)
 とりあえず、ライセンスはゴールドを目指さずに取得しただけ。 このシリーズのライセンスは、取得だけならカンタンですが、オールゴールドを目指そうとするとマゾゲーにしかならないので。 『GT3』で懲りた。
 Aスペックモードはほとんどやらず、もっぱらBスペックモードで各種レースイベントを攻略中。 ミッションレースもマゾいので、今のトコロやってません。
 メーカーのレースイベント、日本、アメリカ、欧州の各エリア別イベント、及び初級、中級は全てクリア。 耐久も、Bスペックモードならラクちんなのでニュル24時間、ル・マン24時間(2種)を除き全てクリア。 上級、及びダート系は全くの手付かず。 ダートはBスペック使えないしね。
 ちなみに、賞金稼ぎは耐久の“スーパースピードウェイ150マイル”が一番手っ取り早いですね。
 なんとかしてトヨタの88CVが手に入れば、マイペース&オーバーテイクONでカンタンに優勝出来る。 毎回プレゼントカー(注:NSXレースカー)をゲットして売却すれば、合計5500万以上が僅か1時間で手に入る。
 ……まあ、そのためにはBスペックモードのAIを十分育てないといけないですが。
 ウチの子は上手いクセにチキンハートなので突っ込みが甘くて……。 ニュルとかオータムリンクみたいなコース幅の狭いサーキットが大の苦手です。 AIってこんなモンなん?
 さ、それじゃニュル24時間に挑戦しようかな?



<今週の特集>

 今週の特集コーナーも、引き続き映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第22回です。
 今回を含めて、あと2回。 最後までヨロシクです。


3.聖書的世界観

 第4章で少しだけ記したが、本作には様々な面で聖書的世界観をベーシックとした描写が散見される。 先にも記した通り、フォン・ハルボウによる小説版のディテールの細やかな描写は特にその傾向が強い。
 先に例に挙げた、フレーダーがM機械から人喰いモロクを連想する場面が特に顕著である。
 もちろん、フォン・ハルボウは『死滅の谷』や『ドクトル・マブゼ』を再び例に持ち出すまでもなく、東洋思想にも明るかったので聖書以外、例えば北欧神話やインド神話のイメージもあるにはあるが、本作の神話的イメージの大部分は聖書的世界観がそのベーシックになっている。
 例えば、最も分かり易いのはカタコンベに集まった労働者たちを前に、マリアが説教として引用する“バベルの塔の伝説”である。


・バベルの塔の伝説

 マリアが説く“バベルの塔の伝説”は、時の権力者によって人類の栄達を象徴する塔の建設が計画され、大量の奴隷が動員されて建設が始まるも、過酷な労働に耐えかねた奴隷たちが反乱を起こし、塔の建設が夢半ばで頓挫してしまう、というモノである。
 この挿話から、マリアは支配階級と労働者階級の対立を避けるためには、両者の仲を取り持つ仲介者が必要で、頭脳(支配階級)と手(労働者階級)の仲介者は“こころ”でなければならないという説教に引用する。
 この聖書的世界観の挿話は、本作のテーマをメタファーする要素として必要不可欠なモノであった。
 しかしこの挿話は、実は聖書の記述を基にしたフォン・ハルボウによる半創作である。
 聖書に記された実際のバベルの塔の伝説は、旧約聖書の創世記、11章に記されているが、マリアの説教にある労働者階級の反乱は一切記述がなく、塔の建設を頓挫させたのは神の怒りである。 おごり昂ぶったヒトの愚行の具現たる天にも届く塔を破壊し、二度とこのような事が出来ぬように、神は人々の意思の疎通を阻むため言語を分かつ。 故に、その街と塔は混乱を意味する“バラル(=バベル)”と呼ばれた。
 フォン・ハルボウは、この挿話を基に、本作のテーマに合うように改変したマリアの説教を創作したが、現代にも通用する人類の普遍的なテーマを語る上で、その起源を聖書という神話の世界に求めた点に、フォン・ハルボウの博識が覗えるのは確かだ。
 また、改変する事によって、塔を破壊し、言語を分かつ立場にある神の存在を排除し、作品世界の神の不在を明確にした上で、それに取って代わるバベル塔の頂に住まう者、すなわち巨大都市メトロポリスの支配者としてのフレーダーセンの存在を明確にし、フレーダーセンがメトロポリスの神になっている事を明快に描いている。
 これにより、本作は支配階級と労働者階級の対立とその解決策としての格言というテーマを明確にしており、この改変は本作にとっては必要な事であったのは確かだ。
 ただ面白いのは、バベルの塔の伝説は極めて有名な挿話で、聖書を読んだ事がない人でも誰もがいつの間にか知っている最もポピュラーな聖書物語なのだが、実は実際の聖書の記述は、半頁分もない程度の極めて小さな扱いの挿話でしかなく、大洪水を生き延びたノアとその息子たちの、そして息子たちの子孫が繁栄していく過程を描いた場面で、何の脈絡もなく唐突に挿入されるエピソードという点である。
 聖書の記述によると、ノアの息子であるハムにはクシュという子が生まれ、クシュは勇敢な狩人で後に英雄となり、シアンルの地を治める王になるニムロドという息子を持つ事になる。
 このニムロドが治めたシアンルの地にあった街の一つが、バベルであった。
 しかし、バベルはニムロドが開いた街ではない。 ニムロドがシアンルを訪れた時には、既に“バベル”という名の街があり、ニムロドはバベルを含めたシアンルの地を拠点にアッシリアへと領土を広げ、複数の街を開いているが、バベルを開いたのはニムロドよりも以前に東の方からシアンルへとやってきた人々によって開かれた街で、ニムロドがやってきた時には、既に塔が破壊され、言葉を分かたれた後だった。
 つまり、マリアが語るバベルの塔の伝説に登場する街の支配者は、ニムロドより以前にこの地を治めていた人物だという事になるが、それが誰なのかは聖書には記述がない。
 そもそも、街と塔を作った人々も、“東の方から来た”という記述はあるが、この時は大洪水直後で、地上に残っていた人類はノアとその息子たちだけだったハズなので、“東の方から来た”という人々がいったいノアの息子たちの内の誰の子孫なのかが気になるトコロだが、これまた聖書には記述がない。
 バベルの街と塔を作った人々は、一切をナゾのヴェールに包まれた存在なのである。
 所詮は聖書。 矛盾はあって当たり前。 神話の世界の話なのだ。(笑)
 個人的には、バベルの塔の挿話は大洪水、そしてノアとその息子たち、及びその子孫たちの行方を描いたシーンが先に書かれ、後にこれを読んだ誰かによってバベルの塔の挿話が創作、挿入されたのではないか? と、考えている。 そう考えると、このような唐突なタイミングでの挿入も納得がいく。
 しかし、そんな言わば“二次創作”的な挿話が、これほどまでに有名なのが不思議でならない。 確かに、ピーテル・ブリューゲル(注:画家。 後に、その息子や孫も画家として活躍する事になるブリューゲル一族の初代。 農民や子供などの風俗画を得意とした事から、同名の息子と区別するため“農民画家ブリューゲル”とも呼ばれている。 現在のベルギー出身とされているが、画家として活躍し始める1551年以前の記録は出生年も含めて諸説あってよく分かっていない。 1569年没)の描いた名画『バベルの塔』(1563年)がつとに有名で、ヒトの愚行の具現として小説や映画など様々な作品で“天にも届く塔”が描かれる事が多いので、その原典たるバベルの塔が有名になるのは必然的な事だったのかもしれないが、それにしては聖書の記述があまりにも短過ぎる。
 この挿話がこれほど有名になったのは、そのベーシックに何か、人々の心に響く普遍的なテーマが隠されているからなのか、はたまた本作で引用されたからなのか? ……とか考えたりしちゃったりしてる今日この頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか?(笑)
 ちなみに、本作にはニセ・マリアがナイトクラブ・ヨシワラで人々を扇動するためにセクシーなダンスで人心を誘惑する“女神バビロン”になるが、これは全くの創作。 バベルが神格化されているような事は、筆者は聞いた事がない。
 ただし、バビロニアで信仰されていた女神で、メソポタミア文明を築いたとされるシュメール人の神、イナンナと同一視されており、後にアスタルテやアフロディーテといった女神のルーツとなった愛と豊穣の女神、イシュタルが、この女神バビロンに相当すると思われる。
 女神イシュタルは愛と豊穣の女神だが、非常に好戦的な性格でもあり、イシュタルからの愛の告白を断った英雄ギルガメッシュに激怒し、その仕返しとして凶暴な牡牛地上に放ち、“都を破壊しつくした”という伝説があり、戦の女神としても崇められている。
 様々な神話や伝承に明るく博識だったフォン・ハルボウは、あるいはこのメソポタミアの女神に着想を得て、バベルの街と塔を破壊した神と同一視していたのかもしれない。
 ちなみに全くの余談だが、イシュタムというイシュタルによく似た名前の神もいるが、これはマヤ文明の神で、しかも自殺の神なので全く無関係である。


・三位一体

 第4章でも少し触れたが、本作の聖書的世界観で欠く事が出来ないのが、この“三位一体”である。
 三位一体とは、キリスト教の祈りにある“父と子と聖霊”、すなわち父なる神と子なるキリスト、そして聖霊(あるいは聖神)の三者こそが一体の唯一神であるとする教えで、キリスト教の主な宗派が重要視している思想である。
 ただし、重要視していない宗派や、あるいは異端視する宗派もあり、キリスト教内部でも意見が分かれるトコロのようだ。(注:日本のエホバの証人も、三位一体否定派である)
 そもそも、三位一体という語は2世紀後半から3世紀初頭にかけて活躍した神学者、テルトゥリアヌス(注:本名、クイントゥス・セプティミウス・フロレンス・テルトゥリアヌス。 ラテン語で著作を行ったラテン教父の第1号とされている人物。 160年~220年)によって創作された造語で、聖書における三者の一体性を説く記述、すなわち、

「私は父にお願いしよう。 父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。 この方は、真理の霊である。 世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れる事が出来ない。 しかし、あなた方はこの霊を知っている。 この霊があなた方と共におり、これからも、あなた方の内にいるからである。」
―ヨハネによる福音書14章16~17節

 という記述から、父と子と聖霊は一体であり、誰の心にも共にあるという解釈を成立させた事で、この三位一体という概念が重要視されるようになった。
 325年になると、時のローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世によって公会議(注:キリスト教のお偉いさんが集まってキリスト教に関する諸々を話し合ったり決めたりする会議の事)が召集され、キリスト教がローマ帝国の国教になったり、新約聖書の編纂(注:編纂に漏れたモノは、現在“新約聖書外典”と呼ばれている)が行われると同時に、この三位一体の概念も重要な思想として広める事が決定された。
 以降、キリスト教、特にローマカトリックでは、これを祈りの一節に取り入れるなどして最重要視しているのは、皆さん周知の通りである。
 さて、本作でも様々な点でこの三位一体の思想が現れており、作品のベーシックに聖書的世界観がある事を覗わせる重要な要素になっている。
 例えば、第4章で記した三部構成、すなわち『Auftakt(前奏)』、『Zwischenspiel(間奏)』、『Furioso(フリオーソ)』。
 同章でも既に記したように、この三部構成という手法は、しかし1920年代当時はあまり一般的ではなく、せいぜいドイツ表現主義彫刻家のオスカー・シュレンマーが衣装デザインを手がけた創作バレエ、『トリアディック・バレエ』に三部構成が用いられていたぐらいで、映画ではほぼ皆無だった。
 しかし、本作にはこれが必要だった。 『トリアディック・バレエ』がそうであったように、三位一体のメタファーとして、この三部構成という手法は必要な事だった。
 そもそも、本作のメインテーマである格言にも、“頭脳と手と仲介者”という、“父と子と聖霊”をそのまま引用した一節が盛り込まれていたり、フレーダーの母ヘルとフレーダーセン、そしてロートヴァングの三角関係、さらには水没する地下労働者街から子供たちを救うのがフレーダーとマリアとヨザファートの三人等々、本作の三位一体のメタファーは探せばいくらでも出てくる。
 また、間接的な寓意として、シュルツ=ミッテンドルフがマスクと衣装を手がけた死神と七つの大罪の彫像もまた、三位一体に関係している。
 七つの大罪とは、キリスト教において最も重いとされている罪、すなわち“暴食”、“色欲”、“強欲”、“憤怒”、“怠惰”、“傲慢”、“嫉妬”の事だが、実は聖書には、これに言及している記述は一切ない。
 4世紀、エジプトで修道士をしていたエヴァグリオス・ポンティコスによって、“枢要罪”という8つの罪が定義され、6世紀後半になって第64代ローマ教皇に即位したグレゴリウス1世(540年~604年)が、現在の7つに改訂したという経緯がある。(注:なので、本書では“キリスト教的世界観”ではあるが“聖書的世界観”ではないため、七つの大罪に関する考察を割愛する事にした。 ってゆーか、一応は書いたのだがあまり面白い考察にならなかったのでカットした。 ご了承頂きたい)
 そして、13世紀に名を馳せた神学者(兼哲学者)、トーマス・アクィナス(1225年~1274年)によって七つの功徳(注:キリスト教で最も尊ばれている7つの美徳。 ただし、これまた正確に聖書に記述があるわけではなく、また実際には功徳とされているのは7つ以上あり、大罪ほど明確に定義されているワケではない)の対比としてこれが引用され、キリスト教では最も忌むべき“悪”として定着した。
 が、それより何よりこれを一般的にしたのは、トーマス・アクィナスとほぼ同時代に活躍したイタリアはフィレンツェで活躍したの詩人、ダンテ・アリギエーリ(1265年~1321年)の詩集、『神曲』をおいて他にはないだろう。
 ダンテの『神曲』は、“地獄編”、“煉獄編”、“天国編”という三部構成になっており、若くしてこの世を去ったダンテの幼馴染み、ベアトリーチェに迎えられ、ダンテ自身が地獄巡りをするという内容の詩集である。
 ダンテは3編を一気に書き上げたワケではなく、それぞれを数年を経て少しずつ書き進め、1編にまとまったトコロで順番に出版されたと考えられている。 実際、最後の天国編が成立し、3編全てが揃うのは1321年以降のダンテの死後の事である。
 しかし、既に出版されていた地獄編、煉獄編は庶民でも読めるようにトスカーナ地方の方言で書かれていた事も拍車をかけ、人気があった。
 そして、その地獄編と煉獄編(注:特に煉獄編)で言及されているのが、件の七つの大罪である。
 この詩集は文学として評価されただけに止まらず、芸術の世界にも多大な影響を与え、後のルネッサンス芸術のモティーフとしてもよく引用された。
 ボッティチェリやヒエロニムス・ボス、果てはウィリアム・ブレイクにギュスターヴ・ドレなどの画家によって、『神曲』の世界観は多数の絵画のモティーフになった。
 また、近代になるとフィクションの中でも頻繁に引用されるようになり、1995年の映画『セブン』の公開がキッカケとなり爆発的に作品数が増え、特に日本のマンガやアニメ、ライトノベルを中心とした小説やゲームに至るまで、様々な作品でモティーフとして用いられるようになった。
 で、この『神曲』において、ダンテは七つの大罪と共に三位一体を重要視しており、“地獄編”、“煉獄編”、“天国編”という三部構成に始まり、各編は33歌ずつで構成されており、地獄編に序章的な1歌を加えた計100歌で構成されている。
 さらに、全ての詩は3行一組の“三行韻詩”(または三韻句法)の技法が用いられているほどのこだわりようである。
 この『神曲』により、七つの大罪はキリスト教の思想の一つとして一般化し、これを用いた本作は、七つの大罪を通して『神曲』の三位一体のメタファーを垣間見せる。
 そしてそれは、本作のメインテーマである“頭脳と手と仲介者”という格言によって、“人間性の再発見”というヒューマニズムに溢れたテーマへと昇華する。
 本作における聖書的世界観のモティーフは、全てこのテーマを昇華させるために必要な事だったのである。


 さて、以上3点について解説、考察してみたワケだが、前章の“人間性の再発見”と合わせて、こういう視点で本作を改めて鑑賞してみてほしい。 そうすれば、本作の先見性と現代性が改めて確認出来る事と思う。
 そして、本書がそのガイドブックとして機能する事を願う。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


串刺し天使。


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 何かで見覚えのある串刺し姿にされているのは、レイヴン・フロスト。 序盤にこのような姿で登場するが、後半ではクリーチャーとしてダンジョンにエントリーされる。
 ちなみに、この槍は入手出来ません。(残念!)



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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220.『メトロポリス』伝説:第7章①

2012年11月04日 | 『メトロポリス』伝説

-"METROPOLIS" 85th Anniversary #21-


 皆さんおはこんばんちわ!
 asayanことasami hiroakiでっす!(・ω・)ノ
 11月になりました。 昼間の暑さもようやく和らぎ、朝晩には肌寒さを感じるほどですが、ウチの店の前の銀杏並木は、未だに青々としております。(笑)
 ホントに今は何月なんだ?(´・ω・`)??


 それはともかく、先日映画の都ハリウッドでビッグニュースが駆け抜けました。 あの『スターウォーズ』シリーズや『インディ・ジョーンズ』シリーズの制作スタジオとして有名なルーカス・フィルム・LTDが、なんとディズニーに買収される事になったそうです!Σ(゜Д゜;)
 ご存知のように、ディズニーは90年代からピクサーと共同でフル3DGIアニメーションを制作、ヒットを連発していますが、ピクサーは元々はルーカス・フィルムの傘下だったILM社のCGI部門が独占禁止法に抵触するのを回避するために分離独立。 亡くなったアップル・コンピュータ社のCEO、スティーブ・ジョブスが買収して現在のピクサーになった経緯がありますが、今回の買収劇によって、大元のルーカス・フィルムそのモノがディズニー傘下になる事に。
 現在のルーカス・フィルムのCEOであるジョージ・ルーカスは、この身売りによって経営から退き、映画界そのモノからも引退。 共同経営者でスピルバーグのアンブリン・エンターテイメントの重役だったキャスリーン・ケネディが社長に就任するらしいです。
 ……まあ、身売りそのモノは前々からあり得た話しではあったんですよね。 数年前から、ルーカスはしきりに引退を希望していたし。
 マイクロソフトのビル・ゲイツ元CEOみたく、優雅な隠居生活を送りたいのでしょう。
 しかし、気になるのはそれと同時に発表された新作映画の事。
 なんと、2015年公開を目指して、『スターウォーズ』のシリーズ新作(!?)を制作するとの事。
 ………………。(´・ω・`)
 え~~~~~????? マジで??
 アニメやゲームならまだしも、実写は止めてほしいです。 せっかく完結してるんだから。
 まあ、このテの“新作発表”はアテにならない事が多いですけどね。 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の新作の話しも、もう何回立ち消えになったかわかんないぐらいだし。
 まあ、いずれにしてもルーカス様、お疲れ様でした。 映画の歴史を変えたアナタの業績と功績は、今後も映画界で長く語り継がれる事でしょう。 これからは、楽しむ立場で映画を観て頂きたいと思います。



<今週の特集>

 今週の特集コーナーも、引き続き映画『メトロポリス』の徹底解説シリーズ、連載第21回です。
 今回を含めて、あと3回で連載終了の予定です。


第7章:キーワード

 さて、ココからは考察雑記。 本作に関連するキーワードを3つほどピックアップし、それぞれについて考察、解説していく。
 当然の事ながら、これらは全て筆者の個人的な考察に基づくモノであり、必ずしも正しいとは言い切れないのは確かだ。
 しかし、こうした事を念頭に置いて本作を鑑賞して頂ければ、これらがあながち間違いとも言い切れない事を確信し、ココに記すモノである。
 なのでそのつもり(←どのつもり?)で以下をお読み頂き、本作を理解するための参考にして頂けたら幸いである。


1.小説版『メトロポリス』

 本作の脚本は、監督のフリッツ・ラングとその妻で脚本家のテア・フォン・ハルボウによる共著であり、映画用に書き下ろされた、原作無しの完全なオリジナルである。
 しかし、本作には映画とは別に、フォン・ハルボウのソロ名義による“小説版”が存在し、映画の公開と前後して単行本が出版されている。
 小説版『メトロポリス』(注:原題、『Metropolis:Roman』)は、本作が制作中だった1926年8月よりドイツの雑誌、ダス・イルストリール・ブラット誌で連載され、同年12月に出版社のアウグスト・シェルル社から最初の単行本が出版。 翌1927年には、映画の公開に合わせる形でウルシュタイン社から第二版の単行本(注:酒寄進一によると、“ダイジェスト版”だったらしいが、探し方が悪かったのか筆者のリサーチではそのような記述を見つけられなかった。 間違いだとは言わないが、正確性を欠いている可能性は残る)が出版されている。
 そのため、小説版を“原作”とする記述が間々見られるが、これは明確に誤りである。
 第4章で記した通り、本作の脚本の草稿は1924年の『ニーベルンゲン』の公開と前後して、既にケッテルフントが目を通したと証言しており、この直後にはラングとフォン・ハルボウが休暇旅行先のウィーンで本作の脚本第1稿を書き上げている。
 さらに、24年10月にラングはメンデルゾーンやポマー夫妻らと共に、映画のプロモーションを兼ねた観光のためアメリカに旅立っているが、フォン・ハルボウは同行せず、ドイツでお留守番していた。
 小説版『メトロポリス』の執筆期間に関しては、諸説あって定かではないのだが、映画の製作延期のため、フォン・ハルボウがヒマになってしまった期間がかなり長かったと考えられるため、フォン・ハルボウは映画脚本の第1稿を書き上げた24年6月から、本作の撮影が開始される25年5月までに小説版を執筆したのではないか? と考えられている。
 そのため、脚本の執筆よりも小説版の執筆の方が後で、映画の公開よりも小説版の出版の方が先という、なんともややこしい事になってしまい、結果、小説版が本作の“原作”と言われるようになってしまったと考えられる。
 また、映画公開前にドイツの映画雑誌で本作の特集記事用に行われたラングのインタビューの中で、ラングは本作が「フォン・ハルボウの小説に基づいた作品」と言ってしまった(注:これはラングのミス。 この記事が、映画雑誌ディ・フィルムテニークに掲載されたのは25年7月の事で、小説版はまだ雑誌連載すら始まっていなかった)ため、この誤解に拍車がかかったモノと思われる。
 しかし、実際には脚本よりも後に執筆されているため、厳密には“原作”とは言い切れない。
 が、ではいわゆる“ノベライゼーション”(注:“映画を小説化”する事。 原作付き映画でもメディアミックス、あるいはタイアップの一環として度々行われており、原作とは異なるバージョンの小説版として出版される)かと言うと、これまた厳密には異なる。
 何故なら、小説版には本作にはないシーンが多数あり、厳密に“映画を小説化”したとは言い切れないからだ。
 もちろん、そうした相違はあって当然の事ではある。 映画は映像化された視覚のメディアであり、小説は文章化された思考のメディアである。 この両者は、同じ“ストーリーを物語る”という目的がありながらも、メディアとしての相違からお互いに得意、不得意が存在し、両者で全く同一の作品を表現する事は不可能である。
 これは、世に言う“原作レイプ”な映画化作品の数々を観れば明らかだ。
 原作のテイストを抽出し、しかし映画というメディアに置き換えた事によって面白さが失われてしまう部分をカットし、映画として面白くなるように改変しなければならないため、そのやり方を間違えたり、改変し過ぎて原作の持つポテンシャルを生かしきれなくなってしまい、原作を無視したとしか思えないような“原作レイプ”映画になってしまうというのは、程度の差こそあれ、実はよくある事なのだ。(注:さらに言えば、原作への不理解や文化的な違いから起こる誤解など、原因を追究すれば“原作レイプ”となる要素は無数にあり、全てを回避する事は不可能である)
 もちろん、だからといって“何をやっても良い”という意味では決してない。 オプションさえ取得出来れば、映画化に際しては何をやっても許されるというのとはワケが違う。
 原作付き映画とは、映画用に改変しつつも、可能な限り原作に忠実であろうとするその姿勢が大事なのであって、作品の本質が変わってしまうような致命的な改変が行われる前に、改変するのを止めなければならないのだ。
 それでも技術的、予算的、時間的制約によって映像化出来ないのであれば、その制約の上限を上乗せするか、もしくは映画化そのモノを諦めた方が良いのだ。
 ……ハナシが逸れた。
 ともかく、小説版『メトロポリス』は、映画版とは異なるフォン・ハルボウ単独による別バージョン、“パラレルユニバース的な異版”と定義するのが妥当である。
 逆に言えば、これによって映画と小説は切り離されるため、どちらが正しいとか間違ってるとかの優劣の問題は発生しない。
 だから筆者は、小説版を映画とは異なる、フォン・ハルボウのソロ活動としての“パラレルユニバース的な異版”と定義するのである。


・相違点

 さて、原作でもない、ノベライゼーションでもない、“パラレルユニバース的異版”であるトコロの小説版は、映画版と多くの点で相違が認められ、これらを全て書き出すだけでもそれだけで本が1冊書けてしまいそうなほどなのだが、そこまで書いているとキリがないので、主な相違点だけに絞って書き出してみよう。
 例えば、ヨザファートの存在。
 映画と同じく、小説版でも重要なキャラクターとして描かれているが、ヨザファートがクビになる理由が映画版よりも理不尽になっており、影なき男によって街を出て行く事を強要されるシーンでは、ヨザファートは影なき男の脅迫に屈して実際に街を出て行きかける。
 小説版のヨザファートは、映画版よりも頼りないキャラクターになっているのだ。
 映画には登場しないキャラクターも登場する。 ナイトクラブ・ヨシワラの支配人、セプテンバーである。 しかも、この登場シーンが結構長い。
 もう一人、小説版には映画に登場しないキャラクターとして、実はフレーダーセンの母親が登場する。 それも、複数のシーンで数回。 しかも、その役割がかなり大きい。
 このキャラクターはエンディングにも登場し、生前のヘルから託されたという手紙をフレーダーセンに渡し、フレーダーセンに精神的救済をもたらす極めて重要なキャラクターである。
 そのため、小説のエンディングは映画とは大きく異なり、フレーダーセンとグロートがフレーダーの仲裁で握手をして和解するという、本作の最も重要なテーマたる“頭脳と手の仲介者はこころでなければならない”を明確に示すシーンもなく、テーマが不明瞭なまま物語りが終わってしまう。
 そもそも、その“格言”にしても、映画では冒頭にて中間字幕としてイキナリ示され、マリアの説教に引用され、映画のラストでも握手によって映像的に、また再び中間字幕によって明確に示され、強調されている。
 が、小説版では、実はこの“格言”が出てくるのは1ヵ所だけ。 マリアの説教のシーンにおいてのみである。
 先に述べたように、和解の握手のシーンがないため、小説版におけるこのテーマは極めて小さな要素でしかなく、代わりにフレーダーセンの母親とヘルからの手紙が登場する事で、物語りのテーマはフレーダーセンの“贖罪”に重点が置かれている。
 もちろん、それはそれで興味深くて良いのだが、“映画との相違”という意味においては、決して無視出来ない要素である。
 このように、様々な点で映画との相違が認められる小説版『メトロポリス』だが、映画よりも優れている点も多い。
 表現力の豊かさである。


・活字メディアの優位性

 元々、本作はサイレント映画として製作、公開された作品であり、中間字幕があったとしてもセリフに頼れないという欠点がある。(注:その代わりに、特殊効果を多用した圧倒的なヴィジュアルと音楽で“視覚メディアとしての映画”として極めてレベルの高い、優れた作品になっている)
 長ったらしい中間字幕は観客の興を殺いでしまうので、中間字幕は出来る限り短く、また少なくする必要があるからだ。
 しかし、小説版はこの制約に囚われない。
 元からして文章という“思考メディア”を利用している小説では、文章こそが命であり、映画では頼れなかったセリフに頼る事が可能である。
 実際、小説版のセリフは映画とは比較にならないほど多く、実は人造人間がニセ・マリアになる前のロボットの姿のまま、フレーダーセンに「ごきげんよう。」と挨拶するシーンもあるほどだ。
 さらに面白いのは、フレーダーのキャラクター描写である。
 映画版のフレーダーは、御曹司クラブで毎日を面白おかしく暮らしていただけのお坊ちゃんになっているが、小説版では詳しい人物描写が多数あり、実は音楽が好きで、なんと自分でパイプオルガンを作る(!?)ほど、音楽と楽器に強く惹かれている事が明記されている。
 また、御曹司クラブでの暮らしも、実はあまり気に入っていない事が語られ、周りはうわべだけの付き合いの遊び仲間ばかりで、本当の意味での友達もいない、孤独な青年として描かれている。(注:だからこそ、一層パイプオルガン作りに熱中する)
 それは、街を追い出されそうになるヨザファートの苦悩や、フレーダーセンが自らの過ちに気付くシーンでも多分に見られ、詳細なキャラクターの心理描写として表現されており、ディテールの細かさは映画とは比べ物にならない。
 さらに、フォン・ハルボウのボキャブラリーの豊富さも、コレによってより深く、詳細に示されている。
 特に、フレーダーがM機械から人喰いモロクを連想するシーンが顕著である。
 映画では、フレーダーは労働者たちを苦しめるM機械から“人喰いモロク”(注:旧約聖書に登場するセム人の偶像で、人身御供を欲する神)を連想するが、小説版ではこれ以外に、バール、ウィツィロポチトリ、ドゥルガー、ジャガンナートの山車、ゾロアスター教の沈黙の塔、ムハンマドの半月刀、ゴルゴダの丘の十字架など、古今東西取り混ぜた神話的イメージ(注:それぞれを詳しく解説しているとキリがないので、Wikiるかググるか、あるいは酒寄による翻訳版の注釈を参照の事)が列記されており、フレーダーの博識なキャラクター描写と共に、フォン・ハルボウ自身の広範な予備知識をも示されている。
 さすが文学少女だっただけの事はある。 『インドの墓』や『死滅の谷』、『ドクトル・マブゼ』にも観られるように、東洋思想にも明るかったフォン・ハルボウらしい文体と言える。
 こうした、文学作品としての優れた点も多数ある小説版『メトロポリス』は、逆に言えば小説というメディアだったからこそ可能な表現力を取り入れた作品であり、映画版の“加筆修正版”とも言える。 だからこそ、筆者は小説版と映画版を比較しながらも、どちらが正しいとか優れているとか、そういった優劣の問題はないと断じるのである。
 映画には映画の、小説には小説のそれぞれの良さがあり、また同時に欠点がある。
 フォン・ハルボウは、映画と小説を切り離して再構築する事で、お互いの欠点を補い合う、“注釈”として機能させる意図があったのではないかと筆者は考える。
 その証拠に、フォン・ハルボウは本作以降、映画の脚本と同時に映画を基にした“パラレルユニバース的異版”としての小説版を多数執筆しており、映画の公開と前後して出版している。
 映画では表現しきれない、しかし小説では限界のある作品世界を、お互いがお互いに支え合い、補い合い、注釈として機能し合う相乗効果を意図していたのではないか? と、筆者は考える。
 まさに、小説(頭脳)と映画(手)は、相乗効果(こころ)によってひとつになるのである。


 ちなみに、小説版の日本語訳版は、1929年の本作の日本公開に合わせて1928年(昭和3年)に既に最初の翻訳版が出版(注:世界大衆文学全集第15集/秦豊吉訳/改造社刊)されているが、2010年の完全復元BD版のリリース後、酒寄進一によって再翻訳され、2011年に新訳版が出版されている。
 この再翻訳版は、27年1月のプレミア上映の際、ラングとフォン・ハルボウの直筆サインが入った100部限定シルク装丁版のシリアルナンバー:007(←ボンド!?)を基に、1978年に再出版された版を底本に再翻訳されたモノで、間違いなく“完訳版”である。(注:ただし、翻訳表記が映画の字幕翻訳と微妙に異なる部分がある。 原語では相違ないモノばかりで、飽くまでも翻訳者の解釈の違いによるモノなので、酒寄にも小松にも責任はない。 生温かくスルーしてあげてほしい)
 同書の冒頭には、ラングとフォン・ハルボウのサインも入っており、フォン・ハルボウがラングに捧げた一文もしっかりと入っている。


2.ジャンルの混在

 前章で述べたように、本作のテーマである“人間性の再発見”は、現代にも通用する、いやむしろ現代だからこそ大衆の心に響くテーマであり、これが本作に対する先見性と現代性の再発見を促し、今日の再評価の直接的な要因になったのは間違いない。
 それと同時に、本作の現代性を語る上で欠く事の出来ない要素がある。
 それが、この“ジャンルの混在”である。
 現在の映画はもとより、小説やマンガ、アニメ、ゲーム、果ては音楽やファッションに至るまで、“ジャンル”という枠組みは年々その敷居が低くなっており、一つの作品で複数のジャンルが混在している事は、最早極当たり前の事である。
 例えば、今年2012年に公開15周年を迎え、モティーフになっているタイタニック号沈没事故(注:1912年4月15日。 詳しくは、筆者ブログ記事『Truth in TITANIC』前後編を参照の事)から100周年を記念して、3D版が劇場公開されたジェームズ・キャメロン監督の世界的大ヒット作、『タイタニック』(97年)。
 この映画は、基本的に“時代劇”に分類される作品である。 20世紀初頭という、現代とは異なる過去の時代を舞台背景とし、実際に100年前に起こった歴史的事象を史実に忠実に再現する試みがなされた作品だからだ。
 映画では、当時の最新のデジタルVFXが用いられ、実物の実に3分の1スケールという巨大なミニ(?)チュアが製作され、圧倒的なヴィジュアルによって歴史上、後にも先にも最大最悪の海難事故となったタイタニック号の悲劇をこれ以上に無い形でスクリーンに映し出したが、ミニチュアもデジタルVFXも飽くまでもタイタニック号を沈没事故当時のまま再現するために用いられた技術であり、UFOもロボットも登場しない、“時代劇”というジャンルの枠内に収まった利用がされている。
 キャストの衣装や小道具にしても、19世紀の貴族階級社会がまだ根強く残っていた20世紀初頭という時代を再現する形でデザインされており、近年の三国志や戦国時代をモティーフにしたゲームのような、見栄えの良い、しかし時代錯誤はなはだしいハデな衣装や小道具はどこにも使われていない。
 この作品は、史実を忠実に再現した“時代劇”なのだ。
 が、それは飽くまでもヴィジュアルに関してのみである。
 作品のテーマは別にして、物語りのメインストリームは、“時代劇”とは全く関係のないラブストーリーである。
 この作品の主人公であるジャックとローズは、実在しない全くの架空の人物である。 二人の間に芽生えるロマンスは、史実には無い、映画だけのオリジナルの設定なのだ。
 そのため、このラブストーリーが「不要だ」と批判の対象になった事もある。
 しかし、監督のジェームズ・キャメロンは、これを「必要な事」と反論した。 何故なら、観客の興味を惹く必要があったからだ。
 史実に忠実なだけの作品を作りたいのであれば、娯楽映画にするする必要はそもそも無い。 IMAX3Dやディスカバリー・チャンネル用のドキュメンタリーにした方が遥かに分かり易く、また忠実な作品を作れる。
 事実、キャメロンはこの6年後、ドキュメンタリーとして深海に眠るタイタニック号を映像に記録したIMAX3D用ドキュメンタリー映画、『タイタニック号の秘密』(2003年)を製作、公開している。
 しかし、ドキュメンタリーだと大衆への訴求力が弱く、観客の絶対数が限られてしまう。 IMAXシアターの数が少ない事も、これに拍車をかける事になってしまう。
 そこでキャメロンは、全くの架空の人物であるジャックとローズを設定し、当時の貴族階級社会を背景にした“報われない恋”と、この恋がタイタニック号沈没事故によって悲恋に終わるというラブストーリーを絡める事で、史実に忠実なドキュメンタリーにフィクションとしてのラブストーリーを混在させ、娯楽映画としての体裁を整えた。 これにより、映画は史実に忠実でありながら観客の興味を惹くラブストーリーが受け入れられ、97年当時の世界歴代興行収益記録更新という快挙を達成するほどの世界的大ヒットを記録した。(注:この記録は12年後、2009年公開の『アバター』によって、キャメロン自身の手で更新する事になる。 歴史上、興行収益記録を自身の手で更新したのは、スピルバーグに続いてキャメロンが2人目だった)
 これと同様の手法で、キャメロンは『ターミネーター』(84年)や『エイリアン2』(86年)、『アビス』(89年)、『ターミネーター2』(91年)、『トゥルー・ライズ』(94年)と、ほぼ全ての監督作品でラブストーリーを絡めるストーリー展開を用いている。
 さらに、『ディープインパクト』(98年)、『アルマゲドン』(98年)、『パールハーバー』(2001年)等にも、同様に作品のモティーフとは一見無関係なラブストーリーの混在が見られ、しかしこれによって映画の物語りとしての体裁が整っているのは確かだ。
 ジャンルを混在させる事によって、映画の物語りは観客に訴求する“面白い作品”になるのである。
 だが、このジャンルの混在が一般的になったのは、実は結構最近の事で、戦後になってからの事だ。
 その先駆的な役割を果たした作品として、筆者は『007:ジェームズ・ボンド』シリーズをココに挙げたい。
 今年2012年にシリーズ誕生50周年のアニバーサリーイヤーを迎える映画『007:ジェームズ・ボンド』は、戦時中にイギリス海軍情報部で諜報活動に従事した経験を持つ作家、イアン・フレミングによって書かれた小説がその原作で、原作小説第1作目の『カジノ・ロワイヤル』は1953年に初版が出版された。
 これがベストセラーとなり、フレミングは毎年1作のペースでシリーズ作品を発表。 長編全12作、短編集1冊を出版した直後、64年に心臓発作で倒れ、そのまま帰らぬ人になった。
 フレミングの死後、遺作となった『チキ・チキ・バン・バン』と、未発表作品を収めた短編集1冊(66年)が出版されている。
 フレミングが存命中だった1962年、映画プロデューサーとしてそれぞれ個別に映画化を構想していたアルバート・R・ブロッコリ(注:性の由来は野菜のブロッコリー。 元々は、イタリア移民だったブロッコリの先祖がアメリカに広めたのだそうだ)とハリー・サルツマンが、お互いのパートナーに反対されたため、コンビを組む事に同意。 シリーズ第1作目となる『ドクター・ノオ』の製作に漕ぎ着ける。
 当初は、フレミングの原作第1作目である『カジノ・ロワイヤル』を製作したかったが、原作は小説発表直後の64年に一度TVで映像化(注:ただし、コメディスプーフでしかも1時間枠だった)されており、その著作権の問題が解決出来ずに断念され、しかも予算が確保出来なかったために映像化の難しい作品が先送りにされた結果、比較的映像化し易い原作小説6作目の『ドクター・ノオ』が選ばれた経緯があった。
 ご存知の通り、『007:ジェームズ・ボンド』シリーズは、イギリス情報局秘密情報部、MI6(注:これは実在する部署で、フレミングはこの部署の傘下部署に勤務していた。 映画版のシリーズ17作目の『ゴールデン・アイ』以降に登場するMI6の建物は、ホンモノのMI6本部)に勤務する秘密諜報員、00(ダブル・オー)エージェントという設定で、この映画はスパイモノというハードボイルドアクションに分類される作品である。 実際、フレミングの原作第1作である『カジノ・ロワイヤル』は、ハードボイルド色の強い作品で、これを原作とした映画版シリーズ第21作目は、原作を忠実に再現するためにそれまでのシリーズでは“お約束”になっていたユーモアの要素のが弱められ、ハードボイルド色の強い作品になっている。
 しかし、ブロッコリとサルツマンは、原作のハードボイルド色を弱め、スパイ活動とは一見無関係、というか、ある意味“不釣合い”とも受け取れる美女とのロマンスを作品に導入した。
 いわゆる“ボンド・ガール”である。
 しかし、このロマンスの導入は吉と出て、映画版では毎回セクシーな美女がボンドと行動を共にするという“お約束”が出来上がる。
 また、これも以降のシリーズで“お約束”になるのだが、Qが開発する非現実的な秘密道具の数々は、スパイモノというハードボイルドアクションから逸脱した、ある種のSF的要素を映画に導入していると言える。
 が、これも映画のヒットに拍車をかける事になり、観客はボンドが懐から取り出す秘密道具や、カースタントする高級スポーツカー、“ボンドカー”に魅了された。
 こうした混在要素はシリーズが重ねられる毎にその傾向が強くなり、映画版は原作を無視した改変がされるようになっていく。 最終的に、この傾向はシリーズ第11作目(注:原作小説版3作目)の『ムーンレイカー』で頂点に達し、タイトルが同じなだけの完全なオリジナルストーリーに改変される事になった。
 しかし、観客はこれを受け入れた。 原作を知らない大多数の観客は、こうした改変に“映画としての面白さ”を見出し、「原作とは別モノ」と割り切って観るようになっていった。
 実際、原作から離れ過ぎた作風を原作に忠実なモノに戻すべく、原作と同じ悲劇的なラストシーンにした映画版第6作目(注:原作小説10作目)の『女王陛下のスパイ』は、主演が初代ボンドのショーン・コネリーから2代目のジョージ・レーゼンビーに代わった事もあり、観客に受け入れられずシリーズ初の失敗作になってしまう。
 原作に忠実である事だけが、原作付き映画の唯一の道ではないのだ。
 現在の同シリーズは、時代的な変化もあってハードボイルド色の強い、混在要素の薄い作品になっているが、過去のシリーズ作品は、今観てもボンドガールやボンドカーといった混在要素が魅力的な作品ばかりである。


 このように、作品の大前提である基本ジャンルに、それとは一見無関係、あるいは不釣合いとも受け取れる別ジャンルの要素を混在させる事によって、映画は観客の興味を惹く作品にする事が出来、現在のジャンルの混在が一般化する要因になった。
 そしてこれは、『007:ジェームズ・ボンド』シリーズがその先駆的な役割を果たし、80年代以降の様々な映画作品に導入された。
 では、本作が制作、公開された1920年代の映画はどうだったのかというと、混在要素は可能な限り薄くするのが一般的であった。
 例えば、20年代のドイツ映画黄金時代の最大の立役者となったF・W・ムルナウの『ノスフェラトゥ』は、ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』を原作としており、吸血鬼をモティーフにしたゴシック・ホラーである。
 映画を観れば分かると思うが、それ以外の要素は何一つ混在していない。
 同じくドイツ映画黄金時代の先駆けとなった『カリガリ博士』もまた、現在のサイコスリラーの先駆的な作品だが、それ以外の要素は一切混在してない。
 同じく、『ゴーレム』もまた、ジャンルの混在しない純粋なゴシック・ホラーである。
 当時の映画は、ジャンルを混在させるのを嫌った作品が多く、またその方が観客にも分かり易い作品になるので、混在要素は可能な限り薄くするのが一般的だったのだ。
 しかし、この状況を一変させたのが、実は本作を含めた一連のラング監督作品である。
 ラングの出世作となった『死滅の谷』を始め、『ドクトル・マブゼ』や本作、『月世界の女』(注:“科学的根拠に基づく純粋なSF”と評されているが、科学的根拠云々はさて置いても、この作品はスパイモノやラブストーリーの混在する作品である)、さらには『M』や『怪人マブゼ博士』にもまた、混在要素が認められる。
 さらに、これを決定付けているのが亡命後のアメリカで監督した作品、『外套と短剣』である。
 第2次世界大戦終戦直前、核物理学者のジェスパー(ゲーリー・クーパー)がナチスドイツの原子力爆弾開発を阻止するためにナチス支配下のヨーロッパに潜入するという、スパイモノの体裁を取った反戦と核廃絶を訴えている作品だが、主人公は純粋なスパイではないが、美女とのロマンスというラブストーリーが混在する。 また、世界中を股にかけて物語りが展開する、マティーニを注文するシーンがある(笑)という、先に記した『007:ジェームズ・ボンド』シリーズの“お約束”要素が全てある作品で、個人的には『007:ジェームズ・ボンド』シリーズの原典とも言える作品なのではないかと考えている(注:『007:ジェームズ・ボンド』シリーズの映画版第5作目、『007は二度死ぬ』は、原題を『You Only Live Twice』といい、これはラングのアメリカ進出第2作、『暗黒街の弾痕』(37年)の原題である『You Only Live Once』のインスパイアである。 原作者のフレミングは、明らかにラング作品に影響を受けている)が、やはり混在要素の強い作品であるのは間違いない。
 また面白いのは、クライマックスの銃撃戦シーンである。 『ドクトル・マブゼ』のクライマックスの銃撃シーンとソックリなのだ。
 ラングは、明らかに自作を意識してこのシーンを演出している。
 それはともかく、本作はその傾向が強く、現在のサイバーパンクの世界観を踏襲しつつも、ヒトの似姿(注:小説版では“パロディ”と表現されている)たる人造人間を開発するマッドサイエンティストという存在によってゴシックホラーの要素が入っていたり、影なき男というスパイモノの要素や、フレーダーが幻視する人喰いモロクやマリアの説教という形で神話的イメージがスクリーンに映し出されるというファンタジーの要素、そしてもちろん、フレーダーとマリアという若い男女のラブストーリーなど、一口にSFとは言い切れない複雑極まりない混在要素が存在し、この作品のジャンル的なカテゴライズを困難にしているのは明白である。
 こうした複雑な描写、あるいは設定、及びストーリー展開が、ジャンルの混在を嫌っていた当時の映画に慣れた大多数の観客に受け入れられず、映画は興行的失敗に終わってしまったが、60年代以降の修復版の公開によって、本作のジャンルの混在に現代性が見出された。
 時折りしも、『007:ジェームズ・ボンド』シリーズの誕生直後。 当時の最新作と同じ手法を、40年近く前に既に用いていた本作に、観客が先見性と現代性を見出す事は必然的な事だったのだ。
 こうして、初公開当時の興行的失敗の要因になった本作における“ジャンルの混在”は、これが極一般的になった現代になって、その先見性と現代性が見出され、今日の再評価へとつながった。
 本作におけるジャンルの混在という手法は、実に40年近く先行した、“一足飛びの進化”だったのである。



 といったトコロで、今週はココまで。
 楽しんで頂けましたか?
 ご意見ご感想、ご質問等があればコメにどうぞ。
 来週もお楽しみに!
 それでは皆さんまた来週。
 お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
 SeeYa!(・ω・)ノシ



LunaちゃんのMODコレ!


蠅レディ。


HM2

 韓国在住のクリエーターによるシリーズ第2弾。 前作がノンクエストMODだったのに対し、今回はクエストMODになっているので攻略ダンジョンを探す手間がないのでラク。
 当MODのキーヴィジュアルにもなっているハンターは、ハエっぽいカンジのクリーチャー。 上半身はせくすぃーだが、下半身はアレで(笑)、しかも空を飛ぶ。 バグか何かのためヒットボックスにズレがあるため、攻撃する時は上半身ではなく下半身を狙う必要があるので注意。



Thanks for youre reading,
See you next week!
 

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