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飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

ハネケの映画は哲学する#6…「白いリボン」

2013-05-07 | Weblog

■製作年:2009年

■監督:ミヒャエル・ハネケ

■主演:クリスティアン・フリーデル、エルンスト・ヤコビ、レオニー・ベネシュ、他

 

少し前まで、ミヒャエル・ハネケ監督の作品を続けて何本か見てきて、ここまで凄い映画監督であるとは以前「白いリボン」を劇場で見たときは思いませんでした。深く思索され緻密に計算された映像、哲学的とも言えるまさに芸術作品としての映画と呼ぶに相応しいものでした。そこでもう一度「白いリボン」を見直してみようと思い立ちました。映画館で見たときとその印象はどう違うのだろうかと。

 

 

あらためて見る「白いリボン」は傑作と呼ぶに値する格調も高い深遠なる作品でした。それはやはり人間という存在を哲学的な思索でアプローチしているもので正直、1回見ただけではこの映画のよさはわからないのではないかと思いました。この作品を見て連想したのは黒澤明監督の名作「羅生門」です。「羅生門」は登場する人物それぞれが違ったことを声高に主張することにより真実は薮の中という、人間社会のある側面をわかりやすくダイナミックに暴き出したものでした。しかしこの「白いリボン」は違った方法論で「羅生門」と同じような世界を、人間社会の虚実を重層的にすることにより、まるで迷宮にはまったかのように描いている作品なのではないかと。

 

 

一見、平和で平凡な社会にこそ裏では<闇>がぽっかりと人目につかないようにあいているのであり、誰もが疑わしいし、誰もが疑わしくないという閉鎖的な共同体の持っている恐ろしさ。タイトルにある「白いリボン」とは正直へ、無垢へと導く象徴的なものとして登場するのですが、それがいきすぎると何が起こるのか?信じられないような美しい風景をバックに静かに進む映像は、とてもスリリングであり一筋縄ではいかない映画なのだと認識するに充分過ぎる程でした。

 

※以下は、2011年1月7日に、劇場公開時「白いリボン」見たときに書いた過去の記事です。

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2009年のカンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を受賞しているミヒャエル・ハネケ監督作品の「白いリボン」を見ました。ミヒャエル・ハネケ監督の映画については今回初めてで、どういう作風なのか予備知識はありませんでしたが、モノクロームで涙を流している少年の映像があしらわれたデザインのチラシだったので子供が出てくる感動巨編ものかなと思っていたら、全く違っていました。詩的叙情性、文学性をも有している芸術的なレベルも、しかし高い問題提議性も持ち合わせた格調高い映画でした。いい意味で見る前の想像とと見た後の印象の落差が大きかった作品です。

 

 

(※以下、ネタばれあり注意)ドイツの自然も豊かな閉鎖的な小さな村、そこは男爵家が村の半分以上を雇用している封建的な集落。そこに起こる次々な不可解な事件の連続、針金を通り道に張ったために落馬して大怪我をした医者、キャベツ畠が荒らされたり、男爵家の息子が行方不明になる、納屋が家事になる、助産婦の傷害児がリンチにあう。しかし犯人は最後まで不明のままです。映像が美しいので映像に見惚れているものの、そうした思わせぶりな展開をボクは予想もしていなかったので戸惑いながら見ていました。それに細部の部分で男爵と神父の顔が似ているので、人間関係がこんがらがってくるという有様。結局、誰が犯人かはわからないまま映画は終わってしまう。

 

しかし、そうしたことは程度の差こそ違えあるなと思いながら見ていました。身近な例ではボクが小中学生のころ、学校のクラスで友人が大切にしていた高価な文房具が何者かに壊されていたとか、小さなレベルで妬みとか、暴力とか、欺瞞といった映画で見られたことが次元やレベルは一概に比較できないものの、少なくとも学校の集団生活のなかで起こっていたことは事実でした。そうしたことは誰しも経験したのではないでしょうか?誰かがやっているなずなのに、誰もが皆自分じゃないという顔をして、道徳を守りましょうという、その不可解さ。まだボクらが子供のころあった学校のように規則やルールを守るためにビンタなどされた体罰があった場所にこそそれは起きやすい?皆基本的には善人なのです。ただ表に見せない裏の別の側面も合わせ持っている。子供は純粋無垢な存在で弱いものというのは力を持った立場からの一方的な見方で、嫉妬深く制御の聞かない、軽く善悪の彼岸を乗り越えてしまうなのだということ。映画は終了近く、高校の世界史で習ったようにオーストリアの皇太子が暗殺されたことを報じられ第一次世界対戦へと突入していくことが描かれています。それが何を意味しているのか?

 

ミヒャエル・ハネケ監督は「ここに登場する子供たちは、その後大人になってナチに傾倒する年代です。彼らがどのような教育を受け、どのような子供時代を送ったことによってそういう大人になるのか、わたしはそこに関心がありました。人間というものは周りの人や環境によって大きく影響される。厳格な躾のなかで、いったい何が彼らにあれほどの憎しみを後にもたらしたのかについて、考えたかったのです。」(キネマ旬報の記事より引用)と発言しています。鑑賞後、映画館のロビーに張り出されてある雑誌や新聞の映画評を読むと一様にその後のナチスを予感させるとかそうしたコメントが多かったのですが、監督の発言がそうした評価に繋がっているのでしょうか。正直、ボクはそこまで理解することはできませんでした。後付けで理解したようなもの。それを見るならば、同じように全体主義へと突き進んだ当時の日本とドイツの類似性を考えてみることも必要なんだろうなあとも。

 

 

ボクはリアルなところで集団生活における犯人が露呈しない、いや、させない暴力や嫉妬、欺瞞といったものは起こり得るもの、昔見た今村昌平監督の「楢山節考」でも都合の悪い者を集団で密かに抹殺してしまう場面があって不気味さを感じたことを思い出したのです。それにしても怪我した医者が助産婦と別れを持ちかける場面、医者は愛人の助産婦に相当酷い言葉を浴びせかけていた。ほんと酷い言葉、ありゃ人権蹂躙じゃないのか?

 

 

 

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