飾釦

飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

鏡花幻想譚への接近#62・・・「泉鏡花」佐伯順子(ちくま新書)/「草迷宮」の項について

2009-10-15 | 泉鏡花
昨日、泉鏡花の「草迷宮」を演劇化した花組芝居について書きました。その中で言及したのが佐伯順子が書いた新書本「泉鏡花」(ちくま新書)です。本日はその本の中の、同じく花組芝居の演劇を手掛かりにした「草迷宮」論について著者の文章を部分引用しながらまとめてみました。ちなみに、この本の中には他の鏡花の作品について論じた項目もありますが、それは読んでおりません。(いずれ機会をみて・・・)

◆◆◆「草迷宮」その“ネオ歌舞伎的”魅力◆◆◆

Ⅰ 前衛と古典の融合―「何もない空間」

◇ネオ歌舞伎と泉鏡花…花組芝居は、ネオ歌舞伎を標榜し鏡花の作品を連続して上演している。
◇地の文の美しさ…鏡花の文章の耳に訴える美しさを引き出す。
◇擬声の豊さ ―幻想のリアリティ…聞こえてはいないはずの音を観客の耳に聞かせることでファンタジーのリアリティを印象づける。
「◇語り」の芸の応用と能舞台との親近性―“何もない空間 ”の雄弁…舞台装置の無い簡素な空間は「語り」= <声>によって浮かびあがる鏡花の文章の美しさに観客を酔わせる演出効果。
◇諸国一見の僧―能のワキとしての小次郎法師…小次郎法師が能のワキを踏まえた登場人物であることを、能の「名ノリ」に習った手法で明確化。
◇鎮魂、招魂をする小次郎法師…小次郎法師に非業の死を遂げた人々の魂、霊を招き、慰める役割を期待した。
◇<回想>形式―夢幻能的シテ/ワキ構造…複数の<回想>の語り手と聞き手=シテ/ワキ構造の集合体としての特質を持っていて、その何種類もの<回想>が錯綜しており、読者を迷宮に迷いこませるかのような不思議な幻惑効果をあげている。
◇<回想>のもたらす「語り」の魅力 …実際に舞台芸術という形で、役者の<声>として鏡花の文章を受けとめると、いかに聴覚的な豊かさに満ちているかが実感される。
◇漫才的カケアイの妙味…カケアイによって物語を盛り上げる鏡花の手法は、漫才の源である万歳に淵源をもち持ち、その宗教的な意義さえ暗示している。
◇自由な空間移動―“何もない空間”の効果…能に習ったかのような“何もない小空間”を舞台とすることで、<回想>による自在な時空間の移動という、能と通じあう鏡花世界の特質を立体化している。
◇茶店から黒門屋敷へ―物理的な空間移動…観客の想像力に訴える能的な時空間の移動は、茶店から黒門屋敷への物理的な移動にも見られる。
◇時間の並べ替え …演劇は舞台としてのわかりやすさを意識し、時間の並べ替えを施している。
◇ディゾルブと “簡易フラッシュバック”…襖と声とう簡便な装置と音響効果によって過去の時空間を再現するテクニックにより、映画で時空間が変化するとき違和感なく見せるディゾルブのような効果をだしている。
◇効果音と小道具…襖、人々の声、鐘の音、赤子といった、背景、音響効果、小道具を駆使して、装置のほとんど無い舞台空間に“簡易フラッシュ・バック ”が実現する。


Ⅱ 怪異のスペクタル―“異形のもの”たちの演劇性

◇生きものとしての茄子、スイカ…子次郎法師や明をはじめとする人間たちは、屋敷の怪異に翻弄されるが、それは、ないがしろにされてきた自然―人間以外の動植物が、逆に人間を愚弄し、人間の認識の浅はかさを嗤う姿にも見える。
◇視覚的スぺクタルとしての茄子、西瓜…そもそも、茄子や西瓜が人間と同じような存在感を主張していること自体、化け物を見せるというスぺクタル性を提供している。
◇姥―“老女形”の系譜…乳母車を押し、赤子を抱く姥の扮装は、民俗学的なウバ像を再現している。
◇宰八―異形の物…鏡花の世界では、五体満足な人間よりも「不具もの」(原作引用)とされる者のほうが、超人的なエネルギーを持つ、特権的なある種の“聖者”として描かれる。身体の傷はいわば、聖者のあかしとしての聖痕(スティグマ)なのである。
◇道祖神としての宰八…宰八のつけている巨大な男根は生殖器信仰のご神体を連想させる。道祖神は賽の神とも呼ばれ、宰八という名前と一脈通じあっている。姥と宰八は道祖神のように生命力、生殖力を象徴する神々でもあるといえる。しかし、子産石をさずけながらも彼らには子がないのは「生と死のアイロニー」の象徴ともいえるのかもしれない。
◇猫―死の象徴…美しい毬に、あろうことか醜い猫の死骸が付着していた。これは毬に象徴される生命の源という肯定的なイメージが、その結末としての死とドッキングすることにより、誕生と死という生の両極を象徴する。
◇美女と醜女の転換―菖蒲の二面性…怖ろしい白鬼と美女の対比は、美と醜の対照という視覚的インパクトをもたらす。おそらく鏡花の頭の中には能に見られる鬼女/美女の入れ替わりがあったろう。
◇手毬―「グラフィック・マッチ」の手法…「草迷宮」には球形のイメージが数多く登場する。視覚的イメージの連鎖によって場面をつなげてゆくグラフィック・マッチの手法。
◇意味の撹乱と意味の発見…火の玉→座頭の天窓→入道首→女の生首→西瓜→月という鏡花の連想は、意味的な連関は希薄である。そこには迷宮に迷うこんだかのような幻惑作用とシュールレアリスム的な効果が生まれる。あるいは、子産石と手毬などのように意味的連関を発見させるという効果もある。
◇パフォーマンスとしての鞠つき―“幻想の視覚”の獲得…視覚的な美しさが最も際立ちそうな鞠つきの場面で花組芝居はあえて毬を出していない。観客の想像力に“幻想の視覚”を立ち上がらせようとした。
◇唄―声の呪的な力…人間の覗いてはいけない怖ろしい魔界からのメッセージを秘めた唄。それは、難産で死んだ女性たちや、この世に生を受けずに死んだ水子たちへの、死の世界からの怨念と悲嘆のメッセージともとれる。


Ⅲ 歌舞伎と鏡花における男色的要素の共鳴

◇子次郎法師と明の絆―男色的な連帯感…「草迷宮」を注意深く読むと、明と子次郎法師の間には、男色的な心理に近い親密な交流があることがわかる。子次郎法師は明に毒を飲まされても恨むどころか、死を賭して、明が黒門屋敷を立退くよう訴える。さらに明のほうもこの思いやりに、死をもって応えようとする。実は「草迷宮」は明の母性憧憬のみが主題なのではなく、明と子次郎法師という男と男の連帯意識の物語でもあるということを歌舞伎を基盤とした花組芝居の演出は教えてくっる。
◇男と男の絆の勝利…「草迷宮」では、母性憧憬よりも子次郎法師と明の男と男の絆の方が、最終的に“勝利”する。息子にとって、母の呪縛に対抗しうる自立の契機となるものは、女性を排除した男どうしの絆である。子次郎法師は、菖蒲を追って魔界に入ろうとする明を押し止めることによって、成人儀礼と同質な、明の成長に必要精神的自立の契機を与えているといってよい。

◆クリック、お願いします。 ⇒



◆関連書籍DVDはこちら↓↓
泉鏡花の草迷宮 [VHS]

BMGビクター

このアイテムの詳細を見る

草迷宮 (岩波文庫)
泉 鏡花
岩波書店

このアイテムの詳細を見る

泉鏡花 (ちくま新書)
佐伯 順子
筑摩書房

このアイテムの詳細を見る

草迷宮 [DVD]

紀伊國屋書店

このアイテムの詳細を見る
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 鏡花幻想譚への接近#61・... | トップ | 気ままに新書NO.6・・・「泉... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

泉鏡花」カテゴリの最新記事