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新日本フィル定期@1月

2006-01-07 17:28:24 | CD・コンサートレヴュー
年明け早々から時間に追われ、更新もままならないが、なんとか新年1回目の定期に行く事ができた。

新日本フィル定期
すみだトリフォニーホール
指揮:大野 和士  トランペット:デイヴィッド・ヘルツォーク  ピアノ:シモン・トルプチェフスキ

江村 哲二:武満徹の追悼に《地平線のクオリア》オーケストラのための
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番 ハ短調
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番 ハ短調


大野の指揮を聴くのはずいぶん久しぶりである。以前一度聴いたのは、日フィルを指揮したコンサートであったと思うが、もう10年近く前になると思う。
そのときのプログラムは「グレート」であったと記憶している。当時、この曲をアバドがヨーロッパ室内管と録音した際、新たに校訂された譜面を用いて話題になっていたが、大野もおそらく同じ譜面を使用しており、そのせいもあってか演奏の印象もアバドの録音にやや近い、過度に粘らず、古典的といってよい晴朗な雰囲気であった。そのため、その後大野を評して「デモーニッシュな表現に長じている」といったコメントを多く目にするようになったとき、うまく印象がつながらないと感じていた。
今回の演奏でその辺りを確認しておきたかった。

江村作品は今回が世界初演となる作品である。一時代前の現代作品にありがちな、尖鋭で聴き手を拒絶するかのような響きは無く、繊細で、ときには耳触りの良い響きもあり、そしてある部分では確かに武満作品を髣髴させる音楽も聴かれた。
演奏もそうした特徴を十分に表現していたと思うが、筆者に元々こうした音楽への受容性が乏しいせいか、聴きながらやや集中力が続かないところがあったのも事実である。

ピアノ協奏曲第1番は筆者もCDでしばしば聴く曲である。作曲者若き日のモダニズムが前面に出た曲で、テクニカルな譜面を淀みなく、むしろ嬉々として演奏しているように聴かせなければならない、という点で技術的に相当な難曲といえる。この曲では、ピアノの独奏者に加え、トランペット奏者ももう一人のソリストとして、ピアノに匹敵する技巧、表現が求められる。オケの首席であるヘルツォークは、アタックなどにごくわずかな傷はあったものの、殆どミスらしいミスはなく、この曲に内在する楽天性や熱気といった要素を十全に表出した。ピアノのトルプチェフスキも好演であった。特に、終楽章でのトランペットとの掛け合いなどで最も魅力的な音楽を聴かせ、その趣はむしろジャズにおけるインタープレイを想起させた。一方で、アンコールではショパンのワルツを演奏、クラシックのイディオムにおける叙情性の表現においても非凡な所を聴かせた。

交響曲では冒頭からの力感みなぎる表現が圧倒的であった。普段このオケの特性として、繊細でデリケートな演奏はしばしば聴くことができるが、こうした緊張感や力強さといった要素はなかなか聴くことが無い。こうした面を引き出したのはおそらく指揮者の力量であろう。
全曲を聴きとおすと、やや力づくというか、緩急の「緩」の部分の表現が弱く、単調に陥りそうな面も無いではなかったが、逆にそのことでショスタコーヴィチの創作活動において、この曲がベートーヴェンにおける「英雄」にあたるといってよい、画期的な曲であったことがよく表わされていたと思う。

来月のプログラムはアルミンク指揮による、オネゲル「火刑台上のジャンヌ・ダルク」である。聴く側にも集中力が欠かせない大曲が続く。


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