インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

ブログは反復に役に立つ

2015-12-06 16:38:39 | 身の回り
 2007年から2015年の初めまでの記録。
 42年のうちのの8年。残りは34年。18歳まで、16年か。

『見知らぬ心臓』 事実は小説より奇なり

2015-03-22 18:00:52 | 映画や小説、テレビなど
 この前と同じで「ポン酢」を入れる予定の煮物を作っている間、雅太はブログを書くことにした。実家に戻ってタイヤ交換やら森林浴やら、さらにアパートに戻る途中で買い物やら支払やら済ませ、慌ただしく、一日が終わらんとする中、印象に残ったことが幾つかある。

 森林浴では、まだ若葉が生えていないので、枯れ枝の隙間から太陽を筒抜けにしていた。しばらくエネルギーを浴びていた。突如、見知らぬ老人が茂みから姿を現した。近所の人だろう、散歩なのか山を歩き回っていたようで、雅太を見て驚き、「あんた誰じゃ?」と質問攻めにしてくる。「ここは自分の家の裏庭、あんたこそ誰だ?」と思いつつも、笑ってごまかす。田舎の老人は、人間の多さを忘れ、孤立しているせいか、自己中心的なように思われる。親父に聞くと、放っておけと、構うことがなく、老人同士の間でも自意識の争いがあるのかもしれぬ。

 さて、雅太が読了した本がこれだ。

 
見知らぬ心臓
シャルロット・ヴァランドレイ
マガジンハウス


 鍋が煮えた。やはりラーメンのスープより味ポンが美味い。だから味ポンは絶え間なく売れるのだ。
 ちなみにこの本もフランスで35万部売れたらしい。これはノンフィクションであるが、これまで読んだミステリー小説よりも、不思議であり、感動的だった。やはり自分自身の体験というのは説得力があるがゆえに、最強である。

「16歳でベルリン映画祭女優賞受賞。17歳でHIVに感染、34歳で心臓移植……」、病気に負けんとするための薬漬けで、心臓に負担がかかり、移植してさらに戦いながら、まるでラブストーリーとミステリー小説の中に自らを置き、さらに女優業や自伝を書きながら世界に働きかけ、それがフィードバックしていくという、「著者は一体これからどうなるのか?」、という自伝である。

 これは確実に「映画化される」であろう。これほどまでに人の心を打つ物語は、なかなかお目にかからない。
 それにしても、この本で著者を誘導した最高の占い師「ピエール」というのは、雅太もちょっと会って、観てもらいたいと思う。
 パリの西郊外に住んでいるという。もちろん予約いっぱいだし、この本のおかげで、特別なコネでもないと観てもらえぬだろう。

 と、そこまで書いた時、「呪術師を目指している輩が、フランスの占い師に頼ってどうする!」という声が、どこからともなく聞こえてくるのであった。

3月半ば、見知らぬ味

2015-03-15 19:46:33 | 身の回り
  雅太は昨夜今日と、温泉やら買い物で散財し、冷蔵庫にあるものを利用して、夕食をこしらえる。じゃがいもに玉ねぎ、白菜に、平飼いの卵、割引の神石牛の少々あった。早速刻んで、鍋を作るもの、味ポン肉じゃがでは芸がない。そこで、「行列ができる博多ラーメン」の残った液体スープを入れてみることにした。

 こんな脂っこいものを入れて大丈夫なのだろうかと思いつつ、体に脂肪がついていないからいいだろうと、ヤケクソで入れてみる。なかなか複雑な味で食べたことがない。お代わりをしたということは美味かったのかもしれぬ。ただ、バカなことをした、味ポンの方が美味かったのではないか、という後悔も残る。

 先週は虫歯の親知らずを抜き、ようやく冷たいものを口に入れることができるようになった。怪しげな小説も快調に進み、今回はいい線を言っているのではないか、と思うも、世の中には凄い本がゴロゴロ転がっていて、それであんまし売れないわけである。最近、『見知らぬ心臓』なんてフランスのノンフィクションを読んでいるが、これも摩訶不思議な実体験、書いて人に伝えるべき面白い内容であろう。

 雅太自身も面白いから書くのであるが、読み手にとって面白いとは限らぬ。役に立つか、感動するか。面白いというのは当てはまるが、それだけでは空回りする。説得力を持つためには、読んでいる間に、不思議なことがバンバン起きるぐらいでないと、ダメなのだろう。著者からすれば、書いている間に。

 ここまで書いたとき、雅太の腹は、濃い脂分のためか、異様なものを食べたせいか、何か重苦しい感じがしたのであった。

雅太の叫び

2015-02-26 20:11:04 | 身の回り
  雅太は小説家を志望していたわけだが、最近、とんと興味は消えうせていた。不惑を過ぎてくると、さすがにフィクション小説という妄想の世界に浸ることに、抵抗が出てきたのかもしれぬ。できるだけノンフィクションに近い文章を志すようになる、つまりこのブログがその一例かもしれぬ。妄想よりも、リアルな夢の出来事をそのまま綴った方が、自分自身に忠実であるし、害は少ないし、自他ともに感動を引き寄せることができるのではなかろうか。

 というわけで、雅太は最近、等身大で特殊なテーマの物語を綴り始めた。完成していないから何とも言えぬが、もはや面白ければ何でもありなのである。材料はそろい、年数がたち、頭の中で発酵している。雅太は書きながら、自分自身を壊していく。ブレイキングバッドに影響されているのかもしれぬ。まさに化学教師宇ウォルター・ホワイトが、麻薬を作るがごとき感じで、雅太も原稿を書いているのだろうか。麻薬のクオリティーが高ければ、需要は伸びていくわけで、ひょっとしたら恐ろしいものを作らんとしているのかもしれぬ、と雅太は思うこともあった。

 たかが原稿だ、とはいえ、ある種の文章は、人間を揺さぶり、破壊していくだけの力を持ているかもしれぬ。強烈に、より強烈にインパクトのあることに、はまっているのは書き手なのだが、それに読み手が同化してしまうと、蟻地獄のごとき引きずり込まれていく。ふつうは拒絶するのであるが、テーマやら書き出し次第では、持て行かれてしまうのである。

 多くの本は、理性的な人間に働きかけているのだが、中にはカスタネダのように、もう一人の人間に働きかけているような本もある。それはうごめく芋虫たちに、蝶になるように誘っているのかもしれぬ。『コンセント』とかもある意味、主人公がそういう風に変化していくわけで、自分を壊すための原稿だったのかもしれぬ。カスタネダに言わせれば、集合点の移動、精霊の来訪、ナワールに触れた、ということになるのか。

 文章といえば、このブログはどうなのか。果たしてもう一人の自分に働きかけているのか。
 あなたよ、一体どこにいる? いや、あなたがこれを書かせているのか?
 ただ今、この瞬間、ちらっと現れた?

 みんな自分の知覚の壁を壊すために、酒を飲んだり、本を読んだり、踊ったり、音楽をガンガン聞いたりするわけで、
 雅太にとっては書くことがその一環なのかもしれぬ。キーボードをたたくその姿は、まさに芋虫が蠢いているのだ!
 いつか蝶にならんと蠢く、指先がもがき、「おお、イーグルよ!」と天に向かって叫んでいるのである。

 イーグルが雅太に見せているのは、今、8年目にして、ブログがこんなになってしまったということだった。

『パピヨン』田口ランディ

2015-02-19 18:42:15 | 田口ランディ、桜井章一、内田ボブ
  雅太がブログを書き始めて8年になろうとしていた。思い返せば、最初の頃はアクセス数や閲覧数をいかに獲得するか躍起になっていたところもあったが、今では逆にアクセスが少ない方が安心する部分があった。更新しない日もニュース天気予報のついでに、昨日のアクセス動向だけをチェックしたりする。「おお、減っている減っている」と拍手するわけである。1日1000の閲覧があれば一体誰が雅太のブログを弄っているのか、まさか、、」といらぬ心配をするわけで、雅太の個人情報が少なからず掲載されているわけでから仕方あるまい。

 さて、雅太は7年前にこのブログでも書いた覚えのある、田口ランディの本を読んだ。10年以上前に読んだ『コンセント』はシャーマニズムについて書かれてあり、沖縄のユタにつながっていた。当時、すでにオカルトに傾倒していた雅太の心をガツンと打ったのだが、その一発だけだった。ゆえに、桐野夏生のように何度もブログには登場していない。ただ、これはそれ以来、読まされた代物だったかもしれぬ。かなり良かった。

パピヨン
田口ランディ
角川学芸出版


  これも雅太が思うに、作者自身について書かれてある事柄だったからに違いない。著者の父親が癌で死ぬのだが、その死をエリザベス、キューブラー・ロスの人と思想に混ぜ合わせて、描写しているというわけである。「ユダヤ人収容所の壁に描かれた蝶はどこへ?」とミステリー風に話は進展していく。その中でも心を打ったのは、アル中だった父親の死に至るまでの赤裸々な描写だった。

 人間は根本においては同じである。未だに健康な両親を持つ雅太も、いずれ、こういう時が来るのだろうか、と不安や恐怖、切ない思いで、感情移入していくわけである。親の死を看取る。これは育ててもらった子供の、一大イベントである。今はこない。しかし、必ずいつか来る。そう考えれば、やはり、雅太も、機会があれば実家に戻り、今のうちにしておこうではないか、という発想になるわけである。

 雅太は可愛がられて育ったため、親に対する怨恨というものがほとんどないが、逆に甘やかされて育ったがために、社会に出てから修行が始まったわけである。元々の性格がいい加減であるがゆえに、叱ってもらわねばならぬ、親の叱り方が足らなかったわけである。

 さて、「死」というのは重いテーマである。観念的には消えて無くなるだけだが、肉体的な苦しみが尋常ならざるを得ないからだろう。雅太は歯が痛いだけでも気が狂いそうなのに、癌とか論外である。親戚が癌で亡くなった様子を聞かされると、金に糸目をつけず注ぎ込むわけで、余程のことなのである。

 本人が癌になったら、自我の強さから、全く違った文章が展開されるのかもしれない。

 物書きをしながらシャーマンになりたいという著者は、結構親近者を題材としているし、表現からしてかなり頑固者のように思われる。表現が押し付けがましいと、受け取る読者もいるだろう。父親が「小暴君」であれば、娘は大概父に似るというので、そうなのか。そういえば、ロスの人生が語られているが、あまり幸せには思われず、ロスの親父も何か経営者らしく、やはり独裁的で、頑固者だったのだろうか。

 親を見て、子供を分析する。雅太自身も、明らかに受け継いでいるところもあるし、「親の責任で生まれた」のだから、やっぱしそうなるのも仕方がないか、と思うのであった。

 

超ショート小説の書き方

2015-02-12 19:15:43 | 映画や小説、テレビなど
  
  雅太は本日、面白い本を発見した。広島県の福山が出身らしく、小説作法にも関心のある雅太は面白いと購入したわけである。

テンプレート式 超ショート小説の書き方
高橋フミアキ
総合科学出版


 まさにテンプレートに当てはめれば、勝手に小説が仕上がるわけである。これは恐ろしい本で、例えば、「願望のテンプレート」があり、私はどうしても⚪️⚪️したいと思った。確かに障害がある。一つ目は⚪️⚪️だ。二つ目は⚪️⚪️。三つ目は⚪️⚪️。しかし、私は決して、決して諦めない。やるだけのことはやってみよう。⚪️⚪️。結果はこうだ。⚪️⚪️。

 実際に書いてみると、

  雅太はどうしても古代メキシコの呪術をマスターしたいと思った。確かに障害がある。一つ目は師匠であるナワールがいないことだ。二つ目は仕事に行かなければならないこと、三つ目は日本語であれ、英語であれ、本だけでは理解できないことがある。しかし雅太は決して、決して諦めない。やるだけのことはやってみよう。雅太は職場を、一種の修行場とみなし、「小暴君」がいたらラッキーだと考えることにした。雅太は英語力に磨きをかけ、出来るだけ原書で読もうと努めることにした。「魔女の夢」やルハン・マトゥスの第三の目の何たらの本も翻訳し、カスタネダ以外にもいろんな呪術師のやり方を取り込みたい。自分なりに工夫して実践してみた。結果はこうだ。雅太は65歳になった今(2038年)、夢見で分身を自由自在に操れるようになった。直感が鋭くなり、前兆を読み取れるようになった。雅太の人生は老人になってから面白くなってきたのである。さらに、雅太は意識を保ったまま死ぬことができる、非有機的存在となるチャンスに恵まれたのだった。

  ・・・という願望(あらすじ)になるのだが、、現実はいかに。

 他にも「対立のテンプレート」があり、Aさんの意見はこうだ。⚪️⚪️。Bさんの意見はこうだ。⚪️⚪️。そのとき、こんなことがあった。⚪️⚪️。

 実際に書いてみると、

  (雅太がなぜ生きているのか悩んでいた時)

  古代メキシコのシャーマンの意見はこうだ。世界は雅太の中にだけあるのだ。雅太自身の意識しかないのだと。つまり、雅太が死んだら、この世界は消える。雅太が意識しているから、この世界が存在するのだと。

  一方、現代文明人の意見はこうだ。世界は雅太を含め、多くの生き物、物質で成り立っており、雅太が死んでも存続する。つまり客観的なモノの世界があるのだと。

  そんな時、こんなことがあった。雅太は「breaking bad」なるアメリカのTVドラマにはまった。エミー賞を獲得した作品は、「ドン・ファンシリーズ」とは経済的効果では比較にならない。ドラマの中は、現代の切実な内容が盛り込まれ、タガが外れた主人公は、カスタネダ本の何かを具体的に感じさせるぐらいだった。

 だが、映画はウケを狙って作り過ぎられていた。カスタネダの本でさえ、フィクションは混じっているかもしれぬが、ウケなど関係なく、著者自身が驚き、感動した体験を語ってくれていた。それを感じた時期、カスタネダ自身の状況など、自分のことを話してくれていた。

 雅太は映画に心を打たれはしたが、より一層カスタネダの方に惹かれた。小説や映画の評価は個々によって違うのだろう。人それぞれが独自の道を歩んでいるかのように。



 

ネズミ、部屋の模様替え

2015-02-08 19:58:34 | 身の回り
  雅太は昨日の朝食中、とんでもないものを目撃した。本棚や机で込み入った部屋の角で、ネズミを発見したのだ。7年近く同じ場所に住んでいるのだが、ゴキブリすら滅多に目撃していない。雅太は昇天し、しばらく身動きが取れなかった。ワンルームに一人暮らしているはずなのだが、別の生き物が棲息していたのだ。さっそく夕方にネズミの粘着シートを仕掛け、朝起きて調べてみたのだが、かかっていない。雅太は乱雑な部屋の構造自体に問題があるのではと考え、机やら本棚などのレイアウトを変えることにした。ナフコへ行き、2段の本棚を一つ買って、7年間で溜まった反復やら夢見のノートを収納することにした。無論、ネズミの罠も毒の餌やらハウス式のやらと、巧妙なのを買う。

 買い物から帰ってみると、雅太は粘着シートに横たわっているネズミを発見した。哀れなネズミは、腹をへこませては膨らませ、金切り声をあげて、暴れていた。無論、脱出できるわけがない。カーペットに溢れた玄米やらエビオスなどを食べていたせいか、色艶の良い、丸々としたネズミであった。これで今晩から安心して眠れるだろう。しかし大丈夫なのかと、部屋の大掃除をしながら、模様替えを始める。所々糞があったので、掃除機で吸い込みながら、不在の時に窓が開いていたからそこに入ってきたのだろうと勘ぐる。窓を家具で少し隠していたのが悪く、やはり、窓際には何も置くべきではないのであろう。

 かくして雅太は新しい環境でブログを書き始めた。心残りはネズミにトドメをさしていないことであろう。生きながら粘着シートに挟まれたまま悲鳴を上げている、しかし何とも出来ぬのである。ブレイキングバッドの主人公も、最初の殺人は最初は抵抗があったが、最後は恐ろしいことになっていた。人間だからといって、ネズミの境遇にならぬとも限らぬし、むしろ癌やらの病気、大地震の下敷きでああならぬとも限らぬわけである。しかし共存はできぬわけで、雅太が平和に生きるためには仕方がないことか。

 そう思いつつ、雅太は夢見のために、風呂に入ってさっさと寝ようとブログを終えるのであった。

breaking bad

2015-01-30 21:29:39 | 映画や小説、テレビなど
 この二週間、雅太は深夜まで映画を見続けていた。タイトルは「ブレイキング バッド」。そもそもの発端が、雅太の英語学習から始まった。昔の学習参考書など「反復」を兼ねておさらいしていたが、「生きた英語」とは言い難い。本来ならば渡米し、肌で感じるのが一番なのであろうが、そんな余裕はなく、「字幕で英語を見よう!」が脳裏をよぎったのだ。雅太はかなりの間、レンタルショップへ行っていなかった。そのせいか、見慣れぬ面白そうなのが多かった。その中で、とりわけ雅太の興味を引いたのが、「高校教師が癌になって、麻薬作りに走り、、」という筋書きのアメリカテレビドラマである。

 直感で面白そうだ。雅太はとりあえず、一話だけでも見てみることにした。面白すぎ、蟻地獄に転がり落ちた。麻薬作りがテーマの作品であるが、このテレビドラマ自体が、とんでもない麻薬だったのだ。

 観客を蛇の生殺し状態にして、一話一話を完結していくという、悪魔がこしらえたとしか思われない代物である。それは「プリズンブレイク」を超えており、それはあまりにも切実で、普通にあるような、リアルな世界が舞台だからであろう。普通の人間が抱えている問題、究極の選択を、ドラマで表現しているのである。

 主人公50歳、ウォルター・ホワイトは、ガン宣告をされたわけであるが、妻はまだ妊娠中だし、障害の息子もいて、「金を残さずには死ぬに死ねない」。本当は能力がずば抜けているのに、「才能を眠らせたまま終わろうとしている」。呪術師の観点からすれば、「死」の、忍び寄り効果で、主人公は大胆な行動に走りはじめた。「I am awake」

 かつての教え子の不良ジェシーと、キャンピングカーで科学製品(麻薬)を作り始めるのであった。そして類は友を呼ぶ、引き寄せの法則で、ぞろぞろと悪い奴らが、主人公の目の前に現れてくるわけである。

 雅太は聞き取れる範囲で解釈し、字幕を追った。「OUT!」という表現だけで、「ちょっと出かけてくる」とかいろんな意味を表しているのがわかった。主人公は最後、I was in alive(生きている実感があった)と燃え尽きて、後悔などしていなかったようだ。ラストまで観たら、考えさせられる人は多いのではなかろうか。主人公の最後の2年は、食うか食われるかの世界で、神懸かり状態だったとも言え、そういう時期を体験できただけでも幸せだったかもしれない。

 善悪を超えて、なんと素晴らしいモデルだ、ただ細く長く生きて何になるのだ、と雅太は思いつつも、やはり最後まで生に執着するのだろうな、と考えたりする。

 大半の人は、映画の主人公のように、いつかは自分の能力を開花させてやろうと思いつつ、自然とタイムアウトになってしまうのであろう。まさに雅太もその一人で、来年こそは、来年こそはと思いつつ、今の状態から脱出できていないでいる。多少は変化はあるのだが。

 それにしても、人間社会は麻薬作りをみんなしているのではないかと、雅太は思ったりする。なにせ、お菓子とかラーメン、ビール、タバコ、さらには映画やら音楽、小説に至るまで、「やめられない止まらない」状態に人間をはめよう、と会社組織は奮闘しているからである。

 ということは、精神世界も、坊主やら、古代の呪術世界も、そうなのではないか、と思ったりした。

 ということは・・・・ (幕は切れるのであった)

 

2015年、あすなろ戦士たちよ、いざ

2015-01-08 19:44:46 | 身の回り
  雅太は実家が雪で動けず、初詣はしていなかった。厄年であるため、厄払いをしなければならぬのだが、それどころではない。車が動かず、バッテリー交換したり、米を売りに走ったり、果てまた一人暮らしのため、買い物やら食事作りをしたりせねばならぬ。最近では、雅太は英語で呪術師たちの本を読まんとしたり、一方でライフワークの小説の構想を練ったり、あれやこれやと神経を消耗させていく。

 夢見の一方で、反復もしているのだが、やはり努力の割には結果が出ないという、要領の悪い方向に行きかけているような気もする。2014年はまさに、そんな感じだったかもしれぬ。反復にしろ、夢見にしろ、時間がかかるとはいえ、「時間をかければ呪術が身につくというものではない」わけで、やっぱし、雑事にエネルギーを奪われているのが根本問題なのかもしれぬ。

 全てをコンパクトでシンプルにする必要がある。
 夢にしろ、英語にしろ、小説にしろ、音楽にしろ、インターネットにしろ、全てを呪術に結びつける必要があるわけだ。
 音楽はヘミシング系を聴き、英語は呪術師の書いた英文を読む。眼球を動かす。ブログの内容は、無論、これまで以上に、呪術の色に染める。

 その姿は、受験生が鉢巻をして片手参考書に、入試に合格しようとしているのと似ているのかもしれない。
 
 だが、「小学生が、高校の教科書を読んで、東大に合格するだろうか?」と考えたとき、無謀なことをしようとしているのかもしれぬと思ったりする。確かに8年前は、教科書に何が書いているか皆目わからなかった。さすがに最近は分かるようにはなったが、自由自在に応用が利くようになるには、教科書を見下ろすレベルでないとダメなのだ。

「今さらこんなことが書いてあるの? そんなの当たり前じゃない」と読みこなす生徒こそが、難関を突破する戦士なのだろう。

 つまり幼少から刷り込まされているのが即なる戦士で、今さら本を読んで頑張ろうとするのは「あすなろ戦士」で、いつなるかわからない部類の戦士なのだ(なる=見るもの)。

 こう考えてみると、雅太はやる前に全てが決まっているのではないかと思ったりするのであった。


 

世界最強の商人

2014-12-25 19:26:15 | 実用書
 雅太は風邪をひいた。頭痛がし、今、生姜と蜂蜜でこしらえた甘酒を薬代わりに飲み、安静にしている。
 毎年、誕生日前の一ヶ月は良からぬことが起こるが、これもそうなのかもしれぬ。が、風邪は体内の毒を出すらしく、体内浄化の一環として、不可欠なのかもしれぬと、強引に納得したりする。

 クリスマスといえば、今年はアマゾンで本を注文した。無論、雅太が自分用にである。

世界最強の商人 角川文庫
オグ・マンディーノ
KADOKAWA / 角川書店


 もう一冊ある、『その後の・・・』も買う。雅太は商人ではないが、人生の基本は営業であるわけで、読むべきだろう。ただ普通の成功本とは違い、「乞食は次の食事にありつけるかどうかだけを考えるが、私は人生最後の食事について考えるのだ」云々、意味深い言葉が続く。そして、「私は今日が人生最後の日だと思って生きよう」と第5巻で語りつくすのである。

 「死を常に意識する」のは、古代メキシコのシャーマンと同じだし、この本そのものが、かなり似ているような感じがする。最強の商人は、ドン・ファンのごとき呪術師であり、金よりも高いものを求めているのだろう。人を愛し、人から愛されれば、お金は結果として向こうからやってくるのだろう。

 (第4巻より)

 私はこの大自然最大の奇蹟だ。私は他人を真似るということをもうやめよう。その代わりに、私は市場で私の独自性を十分に発揮するのだ。私はそう宣言する。そう、私は私の独自性を売り込むのだ。私は今から自分の違いを強調しよう。・・・

  と抜粋したところで、雅太は「自分の独自性とはなんなのか」と考え込むのであった。

食べ物の「一覧表」

2014-12-21 11:23:48 | 身の回り
  雅太は、買い物から帰ると野菜たっぷりのイカの煮付けを作り、煮込んでいる間、ブログでも書くことにした。寒波の影響で実家に戻らず、アパートに引きこもる日曜日は、傾向として、お決まりの「買いだめ」巡りを行うのであった。雅太の「一覧表」には、お決まりの品物や店が並び、魚はどこで買うか、野菜や果物はどこか、壁画のごとく刻まれていたのである。

 近場に「ええじゃん尾道」というJA主催の、地産地消の野菜売り場で、ミカンやらキウイフルーツ、椎茸やらサツマイモなどを調達する。ビタミンCを補うのである。卵などは平飼いの卵(一個25円と安い)10個入りのを買っておく。鍋に放り込むため、よもぎ餅なども買うのは、雅太が食いしん坊なところであろう。

 激安スーパーでは「味ポン」やら「ヨーグルト」、さらにはなぜか充実している地産地消な魚を調達するのである。イカの類、煮付けに適した魚、さらにはエイなども買って冷蔵庫に放り込んでおくことにした。

 お菓子コーナーでは、とんがりコーンやらピックアップなどを懐かしむものの、食指が動かない。フライ類や砂糖は体に悪いとかあるが、実際に食べていると気分が悪くなるからだ。その中でも、麻薬ともいえる「チョコレート」のコーナーだけ、雅太は気になっていた。唯一買う商品は「チョコレート効果86%」であった。砂糖が少ないこととポリフェノールがどうのこうのが、雅太の唇を釣り針に引っ掛けたのである。74%は甘いし、95%は冷凍庫にあるが減りが少ない。

 菓子パンに至っては、腐らない「ヤ○○キパン」などは、ここ1年めっきり食べていない。実家が農家で、主食を玄米としているので、パンの代わりに、せっせと、むすびを作っているわけである。その割には、餅類には釣り針に引っかかり、おはぎだとか、砂糖が多いくせに、好んでいる矛盾もあった。

 書いているうちに時間が経ち、鍋が煮えており、味ポンと卵、よもぎ餅を二つほど放り込む。酒を少し入れ、食欲をそそる香りが、部屋に充満し始めた。そろそろ食べるか、と雅太はブログを終えるのであった。

第2回 カスタネダ英文解釈教室

2014-12-18 09:37:23 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  爆弾寒波で瀬戸内界隈も真っ白になっている。今朝はたまたま休日だったので助かったが、昨日は車が道路を泳ぐ恐怖も体験した。明日は、「頭痛か、車の故障で休もうか」と思うも、飼いならされている雅太は、そういう日こそ、忠犬な態度を示すかどうかが問われているのかな、と思ったりする。日本人は大概、自己犠牲の精神で、チェーンをしてでも、タクシーに乗ってでも、出勤するものなのだ。タクシーがなければ、何キロも歩いて、忠義を示すのであろう。そう、丁度この頃は、「忠臣蔵」の放映される時期であり、武士という名の「企業戦士」は命をかけて戦ったのである。

 一方、「呪術師」はそんなことをするのだろうかと思った時、「日常生活の型を壊す」というわけだから、良いチャンスだと思ったりするのかもしれぬ。イーグル、精霊に対してだけ忠誠を誓うわけで、給料のために働く普通人とは違うのだろう。ただ、どんな場所においても「挑戦だ」と考える彼らならば、「忍び寄りの術」として職場を遊ぶのかもしれぬ。

  忍び寄りとは何だっけ、雅太は『沈黙の力』を開き(209ページ)、意味がよくわからぬので、「The Power of Silence」原書も紐解き、第二回目の「カスタネダ英文解釈教室」が始まるのであった。

 5章 The Requirement of IINTENTより。

 まず、このintent であるが、カスタネダの書物では、キーワードであるので辞書を引いてみる。「意志、意図、目的、計画、決意、意思」となっており、さらに「intentionは意図を意味する普通の語、intentはそれよりも明確で、かつ入念に考慮した意図を暗示するやや形式張った語とあり、例文として、break into a house with an intent.(盗みの意図で家宅侵入する)となっており(笑)、どうやら人間の背後に君臨し、我々を操っている、我々に物事を見せている、イーグルの力、ということにでもなろうか。

  “Sorcerers,because they are stalkers,understand human behavior to perfection,” he said.“They understand, for instance,that human beings are creatures of inventory. Knowing the ins and outs of a particular inventory is what makes a man a scholar or an expert in his field,”

 「呪術師は忍び寄る者だから、人間の行動を完全に理解している」ドンファンは言った。「例えば、人間は目録の動物である、というふうにな。ある特定の目録に載っていることといないことを知ることが、学者になることだったりその道の達人になることだったりするわけだ」(真崎氏訳)

 「戦士たちは、忍び寄る者であるわけだから、人間の行動を完全なまでに理解している。その理解は、例えば、人間というのが目録の生き物である、というようなものである。ある特定の目録に載っていることといないことを知ることで、人は学者になったり、その分野の専門家になったりする」(北山氏訳)

 大方の読者は、この第一文「忍び寄る者」が分からない(笑)

「stalker=忍び寄る者」と訳して当然だが、「獲物などにこっそり忍び寄る=狩人」のイメージで、注意をひきつけたり、振る舞いを変えたり、呪術師は人間という獲物を狩ることができる、人間を呪術にかけられるということだろう。

  呪術師は人間行動というより、それ以前に、遥かに世界が何たるか、人間が何たるかを知っている。世界はイーグルであり、人間はイーグルの泡(放射物)であり、人間の注意力は、人間の泡の一部のみに向けられているということである。これが理性であり、第一の注意力である。それを深めていけば、頭でっかちの学者になれる、ということだ。

『意識への回帰』でも、「第一の注意力が、まゆの中にある、イーグルの放射物の一覧表を作っているのだ。人間は自分のまゆの中にある一覧表に注意を放っている」ような文章があり、inventory=目録となっているが(調べてみると「財産目録、棚卸表、商品目録、在庫品目録」とかなっている)、一覧表でもいいのではないか。そして「creatures of inventory」であるが、「目録の生き物」というのはどうか? of には「同格関係」という用法もあるので、「一覧表という生き物である」と訳すべきだろう。すると、「名称のない光の泡である存在(=人間)が」「学者になったり」「専門家になったり」と称せられるわけである。

 かくして、「呪術師(ストーカー)は人間のふるまいを完全に理解している。彼らは知っている、たとえば、人間存在が一覧表という生き物である、ということを。ある特定の一覧表に載っていることといないことを知ることで、その存在は、学者になったり、専門家になったりするのだ」

  さらに文章は続いている。

  “Sorcerers know that when an average person`s inventory fails, the person either enlarges his inventory fails, the person either enlarges his inventory or his world of self-reflection collapses. The average person is willing to incorporate new items into his inventory if they don`t contradict the inventory`s underlying order. But if the items contradict that order ,the person`s mind collapses. The inventory is the mind. Sorcerers count on this when they attempt to break the mirror of self-reflection.”

  普通の人間の場合、自分の目録にないものに出会うと、その当人が目録を増補するか、さもなくば内省の世界が崩れるかのどちらかだということを、呪術師は知っている。自分の目録の根底をなす秩序に矛盾するものでなければ、普通の人間は新しい項目をその目録に喜んでつけたす。しかし、その項目が秩序に反するものなら、当人の精神は崩れてしまうだろう。ここでいう目録とは精神のことだ。呪術師が内省の鏡を打ち破ろうとするときは、このことを計算に入れているんだ。(真崎氏訳)

  戦士は、並の人間の目録にかけているものがあるとき、その当人が自分の目録を増補するか、さもなくば、彼の内省の世界が崩壊するかのいずれかかだということを知っている。並の人間が新たな項目を自分の目録に付け足すことができるのは、それらが目録の基本的な秩序に矛盾しないことが条件である。だから項目がその秩序に矛盾する場合、その人間の頭の中は崩壊する。つまり目録とは頭の中のことなのだ。戦士たちが内省の鏡を打ち破ろうとするときはそのことを計算に入れる。(北山氏訳)

 寒さのため、雅太の足は氷付いていた。室温は8.7度。まだ耐えられるか? 過去にこういう例はあったか? まさに「一覧表とは、意識のことだ」。
 
 

カスタネダ英文解釈教室

2014-12-14 19:17:59 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  雅太は最近、英文のCDを車で聴き始めた。無論、「反復」なる作業の一環であり、高校時代やらに格闘した当時を思い浮かべるためである。当時流行していた「基本英文700選」なるものの、最初の文章を読むに、「書くことで身を立てたければ、しっかりと書かなければならない」云々、心に響いてきたりする。一方で、古代メキシコ呪術の英文読解とかも、もっと深く読みたいという意図もあり、その目標は奥が深いのかもしれぬ。

『意識への回帰』第3章 イーグルの放射物より。

 We perceive.this is a hard fact.But what we perceive is not a fact of the same kind,because we learn what to perceive.

 「われわれは感知する。これは厳然たる「事実」である。だがわれわれが感知するのは、同じ種類の事実などではない。なぜなら、われわれは、なにを感知するかを学んでいるからだ」(北山訳)

 「わしらは知覚する。これは動かせない事実だ。だがわしらが知覚するものは、同じ種類の事実じゃない。なぜなら、わしらは何を知覚すべきかを学ぶんだからな」(真崎訳)

  この場合、二人の訳は、似ている。が、どちらも意味が良くわからない。本来ならば、前後の文章で理解するのであるが、カスタネダの場合は前後すらわからない場合もある。最後の、「なぜなら、何を知覚すべきかを学んでいるからだ」という意味がよくわからない。理由を説明している文章なのだが、その文章が説明になっていないのである! だから『時の輪』は普通の人間には理解できない。

 「I do not know what to do.何をしたら良いのか分からない」だから、「learn=知っている」とすると、「わしらは何を知覚すべきか、知っているんだからな」となり、「わしらはイーグルの放射物を知覚していることを知っているのだからな」と解釈されるのではないか。エネルギーさえあれば、学ぶことは何もないというのが、カスタネダの世界なのである。

 さらに、

「Seers say that we think there is a world objects out there only because of our awareness. But what's really out there are the Eagle's emanations,fluid,forever in motion,and yet unchanged,eternal.」

 「戦士たちは言う、われわれがそちらがわに物の世界があると考えるのは、われわれの気づきによるものに過ぎないのだと。だが実は、そちら側にあるのはイーグルの放射物なのであって、それは流動体であり、絶えず動き続けていて、なおかつ不変で、不滅なものなのである」(北山訳)


 「見るものは、わしらがそこに物の世界があると考えるのは意識のせいだ、といっている。だが、本当にそこにあるのは、イーグルの放射物なんだよ。それを流動性を持っていて決して制止せず、しかも変わることなく永遠のものなんだ」(真崎訳)

 この文章は前者の方が忠実であるが(しかし、見るものと戦士は厳密には違うのではないか)、後者の方が心を掴むような流れがある。真崎氏は全文を訳しているから(しかも何巻も)パワーが凄いのかもしれぬ。「in motion 動いて」「awareness 知っていること、気づいていること、自覚、認識」流動体が動き続けるのは当たり前だから、何かしら、「時空を超えて流れる」とか文学的な表現?でも良いのかもしれぬ。要するに、「唯心論」な世界観を描写したいわけなのだろう。

 あまり細部にこだわらず、全体として理解できればそれでいいのかもしれぬ。こんなものが大学入試に出されたら、これはかなりの難問になるのではないか。「Eagle's emanations? ワシの羽根か?」とか、面白い答案が続出するであろう、と雅太はほくそ笑むのだった。

第二回目、過去の発掘

2014-11-30 17:56:45 | 身の回り
  実家に戻った雅太は、3週間ぶりに、反復のための発掘をした。雅太の部屋は別の家(納屋?)にあるのだが、前回は母屋の二階の押入れの中を探った。今度はそこに入りきらなかった過去の遺物がある埃だらけの屋根裏にある箱を引っ張り出したのである。前回より重装備でマスクをし、埃除けをかぶって、塵の積もった箱を引っ張り出す。

 本来なら呪術の教科書通り、洞窟の中でも入り、首を左右にゆすりながら、思い起こす必要があるのだが、そんな悠長なことはしていられないし、第一思い出せるわけがないのだ。遺物を見るのが早いのである。

 箱を開ける雅太は、30年の時を超えたタイムカプセルを開けた思いだった。元旦のマラソン大会やら、小学校の運動会の記録とかが、ファイルに挟まれており、「町内の小学校五年生で幅跳びの記録が5位」というのは、当時としては上しか見ていなかったのでゴミ同然であったが、そこそこだったのではないのか、と感銘したりするのだ。雅太は中学受験を敢行したのであるが、参考書が出てきて文章題で「旅人算、和差算」とか目にして、そういえば、そんな奇妙な算数と格闘したなと唖然とするのである。

 それにしても、雅太が思い知らされるのは注意力があちこちに散らばっているという事実である。日本の教育システムが詰め込み方式だったので、仕方がない面もあるのだろうが、あれこれ手を出しすぎ、絶望的なまでに一貫していない。まさに、転職を繰り返したり、あれこれ書き殴っているこのブログをそのまま反映しているような、過去の遺物である。一体何を考えていたのであろうか。なんの戦略もないに違いない。

 全てが中途半端で終わっていることが判明した雅太は、このブログ、得体の知れない呪術、これをもっと戦略的に、基本に忠実に続けていこうと決意したのであった。
 

なぜブログを書くのか、雅太よ

2014-11-25 17:46:07 | 自己主張
  雅太は実家から大根や白菜を持って帰るたびに、煮物ばかりをこしらえて食べていた。ヤリイカやら半額の金目鯛やら、適当に放り込み、豆腐や卵を入れ、ポン酢で仕上げるわけである。冬は鍋であり、餅やら椎茸やら、いろんな具材を放り込めば良いので、飽きがこない。

 ただ満腹となったら頭が愚鈍になる。雅太も、今、一体何を書いているのか、何を書かんとしているのか、見当がつかず、ただ、そういえば、最近ブログを書いていないから何か書こうという程度だったりする。

 毎週決まった日に、決まった時刻にブログを書く人もいるだろう。中には取材とかして、念入りに準備し、連載作家のごとく、書きためたのをじわじわ出しているブロガーもいよう。

 しかし雅太は突発的で、合理的な書き主ではなかった。毎回毎回、カスタネダを題材にしているものの、一体自分が何を書いているのかわからず、それゆえに読み手も首を傾げることも多いだろう。「イーグルを伝えるのだ」という使命を掲げながらも、結局、自分が見て、自分が勝手に感じているだけなのである。

 どんなに美味い料理を作っても、写真だけで味わうことはできない。実際に、それぞれが食べるしかないのである。「世界は自分の意識である」がゆえに、本当に古代メキシコの呪術観念が正しいか否かは、それぞれの意識が体験するしかないのであろう。

 ここまで書いたとき、雅太はまだまだ壮絶な意識の体験が不足しているように思われるのであった。