インディオ作品集
蛇のスカート 桜の木に集う鳥たち 煙る鏡 マネー神の崇拝 ネコとヒヨコ

『呪術師の飛翔』

 休日だった雅太は、先祖の墓のある故郷へと戻った。2週間ぶりであり、煙が出そうな暑さの中、早速、椅子と本を持って、森林浴の場所へ逃げ込んだのであった。

 アマゾンで調達した『呪術師の飛翔』(タイシャ・エイブラー)を読んでいたのだが、これはある意味、カスタネダの本より凄いのではないかと思わされた。タイシャは、洞窟の中で人生の「反復」を実践するのであるが、そのやり方が、カスタネダの『無限の本質』よりも詳しい。でないならば、単に雅太がお経のごとくカスタネダの文章を刷り込んだからなのかもしれぬ。「自分という概念を超越できない」「自分(という存在)=重要だと感じることに夢中になっている(存在)」とか、深読みをしているせいか、胸に突き刺すフレーズが多い。

 「子宮に巣食う虫」なんて、女性が読んだら唖然とするのではなかろうかと思ったりする。「足を小川に浸けて川底にある滑らかな石を感じるように……」という話を読んでいる時、雅太は背後にある小川を振り返った。やれと精霊の促されるまま、実際に足を浸けてみたりした。本書によると「流れる水は、好ましからざる物を何でも取り去ってくれる」とある。その際、「意図すること」が肝心であるらしい。

 すぐに効果があった。まだ三分の一程度しか読んでいないが、風水やら中国の何とかな考えが合流しており、なかなか良い本を手にしたと雅太は多いに感動したのであった。後の反復のため、ついでに雅太は記念撮影をしておいた。




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奇怪な図を眺めながら

  今朝も雅太は着る毛布にくるまって、キーボードを叩き始めた。8時半過ぎ6.8度。その表示のある時計の隣、コルクボードには昨晩、幼児がクレヨンで落書きしたかの絵が、ピンで止められてある。古代メキシコの教義が記されたイーグルの図。

 雅太はそれを眺め、白い息を吐きながら、呟く。
 何かカスタネダの各巻から引っ張り出したモザイクのようだ。実際は、あの教義は「集合点」の移動と固定に尽きるのだが、それではイメージが湧きにくい。むしろ集合点という理屈を使っていない方が分かりやすい。要は、内的対話を止めること=内的沈黙の状態に達すること、こそ最も重要なことである、からだ。

 内的対話を止めるためには、「血の汗を出す思い」が必要で、実際それは呼吸を止めるのに似ていなくもない。ただ呼吸と違って、内的対話は眠っている間は止まっており、その代り「夢を見る」という塩梅である。その夢は何処からやってくるかというと、内的対話の芽を育む土壌、「自分の過去・経験」であり、だから自分の人生を「反復」する必要がある。

 内的対話を止めるには、それを「意図」しなければならず、エネルギー体にそれを意図させることが出来れば、もう一つの別の世界に到達できるという。第一の注意力から、第二の注意力へ。それはシーソーのようになっており、肉体の意識、理性的な物体の意識が沈めば、純粋エネルギーである、エネルギー体が浮かび上がるという構図なのだろう。

 そのためにはもっと自分自身を揺さぶらなければ、自分自身に忍び寄らねば、と雅太は腕を組み、退職届を出すのはそれほど効果的ではなかったな、と思ったりするのであった。
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マインドマップ・イーグル

  雅太は1時間ぐらいかけ、これまで学んだ古代メキシコの呪術について図でまとめてみた。
  
 

  
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悩める戦士

 雅太はクリーニング店に寄って、ビニールで大げさに包まれた代物を車の中に入れておく。明日返却する予定だったが、ビニールを引き裂き、再び着て過ごすのを想像しながら、夕食を食べ始めた。雅太はブログに今の心境を綴るわけである。

 突如退職届を書いたということは、傍目には、疲れが相当たまったとか、不平不満が限界まで来ていたとか、寒さで気が動転していたのだろうとか、それぞれが推理・憶測をしているに違いない。実際、そんな感じで、雅太の上司も飛び出す直前までに記した日報、それを手掛かりに、「ひょっとしてあの時のミスが原因で…」とか考えているのである。

 だが、おっちょこちょいの雅太はいちいちミスなど気にするタイプではなかった。本人は勝手に、呪術師の世界がどうの、破壊点がどうの、人生の連続を断ち切らねばならないとか、異常な強迫観念に憑かれていたのである。まさか雅太が古代メキシコの教義を実践し、それを深めんがために、全てを断ち切ろうとしていたのだとは、周囲が知るはずはない。

 結果は失敗に見えたが、ある意味、自分自身を揺さぶった、つまり「忍び寄りの術」という点で、雅太は少しは成功だったと思ったりした。ただ、集合点の移動を、憐みのない場所にまで持っていくことが出来なかったのである。

 それにしても、雅太の行動の評価はどうだったのか。
 雅太のメル友は次のように意見した。「自分の置かれた環境、自分自身をしっかり知ることが出来て、自分がすべきことをちゃんと行動できるなら、どこで何をしていようとそれは実現する……」。

 なるほどと、雅太は共感した。結局どこへ行っても同じなのであり、呪術師、いや、戦士たらんとするものは、全てが挑戦なのであり、そこから逃げてはならぬのだろう。

 ちなみに、戦士の闘う相手は、自分自身のもう一つの心であり、それは外部から植えつけられた意識であるという。
 戦士の大目標は、内的沈黙で、夢見とかはその補助に過ぎないという。

 そうなると、雅太は、何か己自身が「戦士の道」から逸れているような気もした。大目標が、夢見、つまり「体外離脱」で、その補助として呪術の知識、内的沈黙とか反復とかを利用するわけである。こうやってブログを書きながら内的対話を繰り返していくということは。きっと、物書きになりたいのであろうが。戦士は利益のために行動するのではなく、精霊のために行動しなければならないわけで。

 雅太は戦略的に、自分自身を大いに見直さねばならぬと思うのであった。

  
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意識を頂く化け物は存在するのか?

  人間世界が作り出す言葉・観念はすべて精霊・ナワールの対極である、トナールに起因するものであるという。物忘れの激しい雅太は、人生を反復するため、14年ぐらい前、記述したファイルを読み直す。青いペンで書き込まれた内容は次のような感じであった。

 【善悪を超えたところに、人間の生死があり、宗教がある…。死神の教義は無害? YES. 死にたい、飢え死にしてもいいという奴が、強盗殺人するはずがない。相手を殺してまでも生きたいとは思わない…。「生きることは善である」という命題はナンセンスである。死を前にして、人間とは死ぬために生まれてきた、苦しむために生まれてきたというのは、あながちウソではない…】

 この文を読んだとき、雅太は当時相当なマイナス思考であったことを想起した。死神の教義、というのも、20代後半の雅太が執筆した妄想小説、『GYAの快楽』なるものの内容を指すのである。GYAというのは、死神というか、化け物であり、それは人間の苦しみを平らげる魔物なのであった。古代メキシコの教義など知る由もない当時の雅太だったが、「人間の苦しみを頂く何物かが宇宙に存在しているのではないか」と予見していた、ということにでもなるか。当時の記述を丸写しするに、

 【哲学者が夜遅くまで眠らずに考えに考え、苦しめば苦しむほど、GYAは快楽を感じる…】

 …と書き殴られてある。ちなみに、GYA(ジーワイエー)というのは、人間の悲鳴(ギャー)であり、雅太の創作した登場人物の神主(勝手に祀って崇拝していたという設定)が命名したわけである。とんでもなく陰気なものを執筆していたものだ、と思いつつ、雅太は別のことに思考が発展した。

 つまり古代メキシコの呪術師たちは、そういった存在を認めていたということである。非有機的存在、泥の影、飛ぶもの等、いろんな名称で呼ばれている。そして、そういう闇の勢力が、人間に内的対話をさせる心を植え付け、光り輝く存在であるはずの人間から光を奪い去っていく(その光こそナワールに繋がる)、というわけである。そして古代メキシコではそういう化け物の存在を認め、人間がエサになるようにこの世に送り出したという。ただ『無限の本質』によると、そういった事柄は単純に、餌とか、心を食べるとか、言葉では説明しにくい事柄であり、直線的には表現しいにくいようだ。それでも、われわれ人間はそれを直観的に知っているという。

 雅太はなるほどと考えた。光り輝く存在で、夢見で自由に動けるはずだった人間の力を奪っているのはそういった、GYAな、非有機的存在だということを。そして現実に、世の中には、人間の意識を奪う無数のコンテンツがひしめいている。それがあたかも化け物となって人間の意識を食い尽くすわけである。もっとも雅太をはじめ、楽しんでいる側からすれば、「食べられている」とは意識しないわけであるが。しかし、人間の不思議な能力が奪い去って行かれているわけであり、たとえば、映画を観たらその分、夢を見るだけのエネルギーやら注意力が取り換えられてしまうという塩梅であろう。

 本物の心はどこかへ追いやられ、非有機的存在の心で埋め尽くされる。本物の心は、宇宙に棲息する、目に見えぬ化け物の栄養源であるという。
 
 雅太はこうやってブログを書きながら、魔物GYAに、本当に頂かれているのだろうかと考えたりするのであった。

 
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破壊点が近いのか?

 昨夜、やや発熱した雅太は、喉元のリンパを押さえて、病院へ行った方が良いかもと考える。腕の付け根まで痛みを覚える。それでも、栄養をと玄米と刺身、納豆、サツマイモの朝食を食べながら、パソコンを立ち上げた。やはり、得体の知れぬ人々が大勢閲覧しているのであろうか。いや、フロックだったに違いないと、数値を見る。583 PV 246 IP 。もしや。やはり、この奇怪なる雅太の通信を見ている人がいるようである。暇つぶしの刺激にはなるのかもしれぬ。

 かなりズボラでおっちょこちょいで、傘の置忘れとかはもちろん、車の運転でもトンネルを通過しても、到着するか、何かの反射があるまで、ライトをつけっぱなしにしていても、全く気付かない。いろんなことに神経が飛びまくっているからだろう。
 雅太がこんなに早くブログを書いているのもそんな理由があった。昨日の朝、職場である商品?の代金を貰い、その現金封筒を二つ折りにしてズボンの後ポケットに入れたまま、ずっとある作業をしていたのであるが、夜になるまでその存在すら全く気が付かなかった。2000円一体どこへ消えたのだろうか、間違えて、ポケットのごみと一緒にごみ箱に捨てたのではなかろうか。雅太は悩んだ挙句、絶望的な気分に陥った。お金という非常に大切なものですら忘れるということは、人生において絶対に忘れてはならないような出来事をうじゃうじゃ忘れている可能性だってある。そして死が近づいた時、はっと怒涛のごとく思い出して、悲しみの波に飲み込まれてしまうのだろう。

 雅太はカスタネダの破壊点なる記述を思い出し、『無限の本質』を捲ってみる。あった。内容すら忘れつつあった。呪術師はみんな破壊点へ到達するというものである。内的沈黙が始まり、呪術師の構造の活動的な部分となるためには、ある時点で彼らの人生の活動の連続性が破壊されなければならない、とある。

 「何にもまして重要なのは、お前自らが意図してその破壊点へ到達するなり、知力を用いて人為的に破壊点を作り出すことになるのだ」とあり、ドン・ファンはカスタネダに人生の連続性を中断させることを指摘する。
 確かに雅太もそろそろ人生の連続性を中断させるときが、やって来たのかもしれない。それが精霊の顕示となって、無意識に、現金の入った封筒をどこかにばら撒いてしまったのだろうか。はた目には全くの間抜け以外、何者でもない。これが辞表を出すことと、一体どう結び付くのか。

 かくして雅太は腹に一物含んだまま、早く職場に行ってゴミ箱を漁ってみようと思うのであった。

 
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個人的な力

 雅太は久々に朝ブログを書くことにした。というのも、たまたま閲覧数を見ると、500を超えていたからだ。誰かに観察されているとなると、書くことでそれに応えなければならぬ。ただ雅太にはネット上の記事を幾ら読んだところで、キッカケやヒントが得られる程度で、それ以上は、経験から醸成される「個人的な力」であるように思われた。
 古代メキシコの教義である、「イーグルのくちばしの元へ戻る意識」「人生の目的はその意識を高めること」は、デジタルな表面的な世界で成し遂げられるわけでなければ、外に出て人と接することであり、それは「小暴君」を求めて、試金石を求めて、意識を磨き上げるということかもしれない。
 雅太はカスタネダの『未知の次元』に出てくる、マックスというネコの話をいつも念頭に置いていた。その飼い慣らされていたネコは、病院に行って死なされる前に、野生の本能を取り戻して、車から逃げ出した。カスタネダが手助けをしたのだが。カスタネダ同様、雅太も、マックスというネコに、自分自身を映し出したのだった。無益な逃亡だったかもしれぬが、マックスの生き様を信じなければならぬ。例え、死んだとしても、マックスは、自分の死場を見つけるだけの、個人的な力を持っていたということを。
 マックスは、そういう場所、そういうチャンスを、己の力で、引き寄せたということだろう。
 雅太には、そういう「個人的な力」を作り出すのは、インターネットとは全くかけ離れた世界であるように思われたのだった。
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what to perceive

雅太は英語版のカスタネダを読んでいるうち、翻訳版との差異に気づいて、腕を組んだ。


 "The first truth is that the world is as it looks and yet it is not," he went on."It is not a s solid and real as our perception has been led to believe,but it is not a mirage either. The world is not an illusion,as it has been said to be; it is real on the one hand,and unreal on the other. Pay close attention to this,for it must be understood,not just accepted. We perceive. This is a hard fact. But what we perceive is not a fact of the same kind,because we learn what to perceive."(原書)

  「第一の真実は、世界は目に映ったとおりであり、しかもそうではない、ということだ。世界はわしらの知覚が信じ込まされてきたほど、しっかりもしていなければリアルでもない。かといって幻想でもないんだ。世界はよく言われてきたような幻想なんかじゃない。リアルでありながら、リアルでないんだよ。この点をしっかり注意してくれ。これは単に同意するんじゃなく、理解しなければならないんだからな。わしらは知覚する。それは動かせない事実だ。だがわしらが知覚するものは、同じ種類の事実ではない。なぜなら、わしらは何を知覚するかを学ぶのだからな」(翻訳版)

 果たして最後の部分、 we learn what to perceiveは? 
 I don't know what to do.は「何をすべきか分からない」であるから、全く問題ない訳であろうが、、もっと奥深い意味が隠されている気が、雅太にはしたのであった。
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夢見の第三の門

  もうすぐ五月なのに寒い(12.5℃)。

 昨日は早めに寝たせいか、色々夢を見たし、夢見もした。

 『夢見の技法』p173より
 「眠っている他人を見つめる自分を夢の中で見つけたときに、第三の門にたどり着く。そして、その他人というのも、実は自分自身なのだ」
 ドン・ファンはいった。

  見ようと思って見たわけではなく、直角に何か(夢見の体、エネルギー体)が起き上がり、体外離脱したが、あまりにもリアルな光景に遭遇して、もしここで無茶な行動をしたら死ぬのではないかと思ったからだ。というのも、一昨日、海の中に飛び込んでみて、そのまま沈んでしまって苦しかったからである(田んぼからダイブして沈んでしまうし、エネルギー体が弱いのだろう)。

 夢で感じることが、今リアルに感じている自分そのままだった、、

 キティの貯金箱でカネの心配をしている自分もそこにいた、、

 こうなると、高いところから空を飛ぼうとしたら死にやしないか?  命の心配もし始めるわけである。

 そこで、今の体が本当に夢見の体なのか確かめようと、ちょっと恐る恐る自分の部屋に戻ってみた。すると白いソックスをはいた足首が見えた。近づくと倒れている自分の体があったのだ! 

 目を開けて、死んだように眠っている自分を見つめた。

 ただ、それは、今このアパートで寝ている自分ではなく、実家の「昔の」自分の部屋である(高校時代まで使っていた板間の部屋)。 

 目覚めた吾輩はどうもおかしいと、マジカルパスをして、再び寝る(効果はあるようです)

 すると、また抜け出して、自分の体を確かめたのだが、今度はうつ伏せになって寝ている自分を発見!

 ただ服が横に波打っている奇妙な柄のもので、リアルな自分ではなさそうだ。

 結局、リアルな自分そのものを見たわけではないと判断、まだ夢見の第三の門には到達していないと思われる。

 『夢見の技法』p184にある。

 「お前は本当に寝ている自分を見ているかどうか確かめるために、確実な基準を作らなければならない」私の問いに答えず、ドン・ファンいった。
「忘れるんじゃないぞ、おまえは本物の自分の体を見つめて本当の自分の部屋にいなければならないんだ。そうでないとただの夢になってしまう。もしそうなら、夢の細部を観察したり夢を替えることでその夢をコントロールするんだ」

 なお、エネルギー体を動かすためには想像力を使う必要があるという。

 また今晩も挑戦してみるのだわい(さっさと寝ましょう)

 書きかけの小説はどうなったのですか(え? こっちの方が面白い?)

 
 
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呪術師の方法

  昨日はふつうの夢で、「夢見」ではなかった(が、旧友が出てきたり、物語風で面白かったが)。

  目を閉じていて映像が出てくるが、そこから先へ進まないことも多い(特に朝型)。

  なぜ夢見ができないのか?

  『夢見の技法』p49より

  私たちはすべて定められた量の基本エネルギーを持っている。その量が持っているエネルギーのすべてであり、そのすべてを私たちを取り巻く世界を認識し、扱うために費やしている。彼は何度も繰り返し強調した。それ以上のエネルギーはどこにもなく、使えるエネルギーはすべて使ってしまっているために、夢見のような特別な知覚のためのエネルギーは少しも残っていないのだ、と。

 「とすると、どういうことになるんだい?」
 「見つけられるところならどんなところからでも漁るようになる」彼は答えた。

  ドン・ファンは、呪術師は漁る能力を持っているのだといった。彼らはエネルギーを自分の生命の中で余分だと思われるところすべてから切り取ってきて巧妙に移動する。この技術を呪術師の方法と呼んでいる。ドン・ファンは続けて、呪術師の方法の本質は世界を操作するための方法の一連の行動選択であり、その選択は祖先が教えてくれたものよりはるかに巧妙なものなのだ、といった。この呪術師の選択は、生きているものとしての基本的反応を変えることによって私たちの生命を改造するために作られたものだ。

 「基本的反応というと?」
 「わしらが生きているということに向き合うには二つの方法がある」彼は言った。
 「ひとつはその要求に黙従するにせよ、戦うにせよ、ともかく屈服することだ。もうひとつはわしらの構成要素に合わせて、特定の生命状態を鋳型に入れてつくることだ」(夢見る者は後者を行う)

 ……
 
 重要なところが欠けているが(写すのが面倒になった)、

 「夢見モード」の生命体になることによって、夢見ができるということになるのだと考える。

 つまるところ、吾輩は「現代文明人モード」の生命体なのだわい(環境が許してくれません)
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呪術の世界には言葉の矛盾があるだけだ。

   眠れないので(夢見ができず?)、頭が痛い中、『沈黙の力』ばかり読んでいた。わかったようで分からない。

 「○○とは、△△である」という書き方であるが、△△が曖昧であるから、全体として、精霊の力によって、理解するしかないのであろう。

 ポイントは、太古の人間(呪術師)は、沈黙の知という、深いレベルの知(アカシックレコードか?)によって、物事を直感によって直に知ることができた。しかし、予言やら計画がズバズバ当たるということになり、自尊心やら自我意識が生まれ、そういった沈黙の知(精霊とのつながり)が失われていった。

 人間の力で何とかできる、それが「うぬぼれ」であり、「自己憐憫」であり、現代人の自我意識である。それはすなわち、「理性」という、現代人の崇拝する賜物であり、それによって人間の視野は固定されてしまった(集合点の固定)。

  現代人は見せかけだけの低い意識(自己憐憫やらうぬぼれ)に染まっており、既知を積み重ねて、コツコツ学んで物事を知ろうするにとどまっているが、実際は人間の力は計り知れないものである。

 本当の知識というのは、雨あられのように宇宙から降ってくるのであり、それを呼び込むには、「非情さ」(自意識をとっぱらったもの)が必要である。

 呪術師は「非情」であり、そして「目」が「精霊・意志・沈黙の知」をおびき寄せることができるのだ。呪術師の目は、集合点を動かすことができるのである(意識レベルを変えることができる)…。

 吾輩も、我が眼球を動かし、そういった過去のケースがあったかどうかを想起しているところである(そういえば、20の頃…)

 確かに我々現代人は、万物の根源とのつながりを失ってしまった。

 しかし「沈黙の知のかけら」が、やらな行為に導いているのだろうし、実際に吾輩もそんな感じであった。

 現代で生きるということは、「低いレベルの意識」に飲み込まれていくということか?

 戦士の闘いとは、、「自我意識との戦い」。

 戦う道具は、、言葉を駆使する理性??

 しかし、理性にすがろうととすればするほど、精霊(沈黙の知)は逃げていく…。
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部屋のレイアウトを変え、呪術の実践に励む?!

  部屋のレイアウトを変え、できるだけシンプルにした。本を読む場所、寝る場所、パソコンをする場所、すべて分けることにした。

 実際には、カスタネダを読む場所、夢見をする場所、ブログ(カスタネダ通信)を書く場所、という感じになっている。

 さっきも、ずっとカスタネダを読み、自分なりに研究していたのであるが、じっくり読まないと、書かれてあることがさっぱりわからない(奇妙なテクニカルタームが多すぎるぞ)

 例えば、カスタネダ本での最高傑作であろう、『沈黙の力』において(p274)、

 「第三の参照基準とは、知覚の自由なのさ。それが意志だ。それが精霊なんだよ。思考がとんぼ返りをして、奇跡へと着地することだ。」

 …とあったりして、多分、原文を翻訳した方(真崎義博氏)も「よう分からんけれど、とにかく訳しておこう」(クレームも来ようがないだろう)といった具合か。

 はっきり言って、吾輩もよく分からない箇所が多い。実際に経験するしかないのであるが…、 このアパートの中だけでは、精霊が来訪してくるような感じがしないのだわい(いや、第二の注意力には入ったか)

 反復をしてください、反復を(過去を想起するのです)


 戦略としては、

 .スタネダ本を読む。分からないところは飛ばし、全体から理解する。

  ポイントだと思われる箇所は、マーカーを引くなり、メモをとるなりして暗記する。

 △箸砲く寝る時間を増やす(戦士の戦場は第二の注意力らしい)
 
  無駄な行動を控え、節制する。
  起きたら「夢日記をつける」


 L榲意識を持って読む。「夢見」やら、「反復」やら、「忍び寄り」やら、課題を持って実践する。

  参考書籍について。主として、反復は『無限の本質』、夢見は『夢見の技法』、忍び寄りは『沈黙の力』ということになるか。

 ぅ泪献ルパスをやる。教本はもちろん、『呪術の実践』。


 あとは自分なりの工夫と、潜在能力しだいであり、若くて有能なニート?だと早くマスターできるかもしれん。男が勢いがあるが、女の方が有利だとか、あった。自尊心はエネルギーを潰す敵なので、アウトローの方が好ましいということか?

 カスタネダ本を手に入れたら、精霊が来訪したようなものだ。あとは精霊が導いてくれるだろう。 

 だが長い長い戦いが待っているのだ。精霊と自分の環を強くするための。

 呪術の修行には時間がかかるのだ。

 小説の修行もそうであるが、しかしこれは妄想するのが面倒になってきたし、「内的対話」で身体が蝕まれていくようであるから、夢見の内容をそのまま写すという執筆スタイルで行くことにするわい(一石二鳥です)


 
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クリスマスプレゼント? ついに夢の中で手を見る。

   ついさっきの出来事である。かなり興奮している。ついに、意識的に夢の中で手を見た。それもまじまじと。

  仕事が終わり、かなり栄養のあるものを食べ、20代前半の頃をちょい反復して、22時前にとっとと寝た。

  何もなく、0時に起きて、マジカルパスをし、夢見の第一の門を突破するようカスタネダの呪文?を唱えながら寝た。

  なかなか寝付けなかったが、再び「夢見を意図する」ように意識したり、反復したりしているうちに眠った。

  すると、普通の夢を見たあとだと思うが、例の「震え」が来た(眠りが浅くなったのか)。★(エネルギー体)に意識させるうち、じわじわと立ち上がった、もうひとりの自分が動き出して、リアルな現場に立ったのである。

  そこは、田舎の田んぼ(稲が刈られた後)であった。実にリアルで、原色の配列は現実と全く同じであるが、やや薄い白色だったように思われる。ここはどこなのだ? と驚いたのであるが、すぐに「カスタネダの世界」であると認識し、吾輩は、さっと右手を見た(ますかけがあったが、かなり運命線がっきりしていたような)。そして「夢の中では何でもちらりと見るだけで全てを記憶できるということで、それをやり、再び手のひらを目の前に出した。

 おお、これは完璧だ、と思いながら、一方で、これでブログで報告できるぞ、とまでも意識していた。

 ★は光のように、ジェット機の移動ができるので、吾輩は田んぼのあぜ道から大胆にも飛んだのであるが…、

 目的地が鮮明でないのか、エネルギー不足(余計なことをしているうちにエネルギーが切れてしまった?)なのか、降下してしまったわい。

 とにかく、カスタネダの呪術の解説は絶対的に信頼していいと思われる。いかに潜在意識にすり込むか、それだけ。

 大感動! クリスマス・プレゼントに感謝します。
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記号はどうなった? ▽○☆

  仕事から帰ってポストを開けると、尾道市水道局から「滞納お知らせ通知」が来ていた(緑色の紙)。給水停止になるようで、2ヶ月分(4400円)払わないといけないわけであるが、毎度のことだから別に違和感はない。

  家賃とガスは引き落としになっているが、電気と水道は振込なので、吾輩の場合、「送電のお断り」「断水のお知らせ」が来てから支払うというパターンになっている。そういう性格なのである。

  税金とてしかり。電気や水道はなければ困るが、税金は源泉徴収でないなら、どうしても、ズルズル…、差押になってしまうのかもしれない。まったく、これも2ヶ月で差し押さえてくれたら、滞納金利が4万円もなかったろうに、と思ったりする。

  払わないのが悪いのであるが、何年もダルマにさせるというのは、何か取りはぐれのない高利貸しをやっているような(太らせて食べるってか)

  さて、最近、▽とか○とか記号がとんと表現されなくなったが、実は水面下で勝手にどんどんやっている。高橋容疑者も愛読したカスタネダ本であるが、あれは呪術が学問のごとく発展し、得体の知れない概念が頻発するのである。

  たとえば、「第2の注意力」。もちろん、「第1の注意力」「第3の注意力」まであり、さらには「夢見の注意力」まである。さらに、「エネルギー体」とか、いろいろ出てくるわけで、頭の馬力(エンジン)がそれほど高くない?吾輩には理解が難しい。

  『カスタネダ解釈教室』とか発売されていれば買うのだろうが、

  そんな魔法大学校の受験テキストのようなものは売られているはずがない。

  そこで吾輩は勝手に「エネルギー体=★」として、5文字を1文字に圧縮したり、「第2の注意力;B」「夢見の注意力;b」とか、「集合点=☆」、「集合点の移動=☆S(siftの略)」、「集合点の固定=☆F(fixedの略)」とか理論を演算?しているわけである。


     (例)夢から目覚めてもう一つ別の夢に入った時、夢見の第二の門に辿り着く。

       G2in;☆Fr(=○)→ ☆S→ ☆F1(=★)→ ☆S→ ☆F2(=★)

 
   …と、まあ、こんな感じである(Gate2に入る;現実=集合点がリアルの位置に固定した状態…)

  どんどん追求していくと、★を鍛えるということは、Bやbを鮮明になるよう訓練することだから、B⊇b≒★ということであり、

  同じ概念を言葉を変えて表現しているだけなのではということか(本来表現できないものを無理やり、か)

  下手な小説を書くより、こっちのほうが採用率が高いかもしれんわい(マニア向けか)

  理論より、実践した結果を書くことのほうが重要ですね(何かしでかして容疑者にならないようにして下さい)

 
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吾輩の夢見

  寒い。10.5度、かなり腰痛を感じる。

 さて、このブログはカスタネダの検索からやってきた方が多いので、本日もそれについて、昨夜の体験談でも書こうかと思う。

 古代メキシコの呪術とかあるが、一見過ぎるわけであるが、本来ナワールがいなければ体験できないような別の世界を夢見したことがある人は、もう確実な信奉者となるわけである。

 昨夜は昔懐かしの音楽やらカスタネダの『夢見の技法』などに接して一度寝て、再び起きて、また寝た時に生じた。あの頭がボーッとした時がいいのか。全身がピリピリし、寝ていた吾輩は、空中をムーンサルトして着地した。そこはやはり田舎の生家であった。

 やはりスタートラインはここかと思いながら、夜空をの星を見つめつつ、吾輩は寂しい道をとぼとぼ歩いた。途中、吾輩は体外離脱しているのだから自由にどこへでも行けるのではないか、と思って、移動を意図すると、一気に、光のように、大都会へ飛んだ。

 面白くないので、人が多いところがいいと思ったのだろうか。商品が沢山並んでいる薬局の様なところに入り、太った人とか色々眺めたり、実験してみた。

 そのうちエネルギーが衰えたのか、吾輩は現場から消えてしまった。半分意識が消えていた(眠っていた?)状態で、面白かったのでもう一度行きたいと思ったところ、全身が震え、再びムーンサルトした。

 二度目は、カスタネダの言葉が過ぎり、「凝集力・均一性」なるものを意識し、夢の画面を鮮明にしようと思ったせいか、一度目よりもリアルになった。が、冴えない現場で、暗い男たちが群がっていた牢屋のような場所だった。受付の事務の女性がマスクをして、薬を調合していたのを覚えている。面白くない、逃げ出したいと思ったのか、吾輩は夢から覚めた(しばらく動けなかった)。

 夢見の注意力をもっとまともなところに使うべきだったと思う。次は、夢の中で視点を保つのをもっと意識すべきか(自分の手を見るのは忘れていた)。

 それにしても、非常に面白いのであるが、こんなことをして本当に大丈夫なのかと思ったりする。『夢見の技法』には「呪術師の道にあるものはすべて生か死かという問題に直結しているが、夢見の道ではこれが百倍にも大きくなっているんだ」(p136)とあるように、非有機的存在という化け物の餌食になってしまう恐れがある。

 カスタネダの本がなければサメがそこらじゅうにいる海の中に裸で飛び込むようなもので(いや、そもそも夢見をしないか)、何をどうしたらよいかわからず、パニックになって自滅してしまうに違いない。いや、古代の呪術師のようにサメの腹の中で生きるか、逆にサメになるかして生きるのかもしれないが、吾輩もドン・ファンたちのように自由を求めたいものだ(現代の呪術師)。

 しかしながら、本を読んで、吾輩もカスタネダ同様、非常に古代の呪術師に近いような気がして、同じような罠にはまっていくような気もする。「弟子を非有機的存在への贈り物にするのは、古代の呪術師がよくやっていたことだ」とかあり、吾輩も何となく生贄にならなければならないような強迫観念に取りつかれることもあり(昔はそんな物語を書いていた…)、もっと自由を求めることを意識しなければならない。

 その現代の呪術師が求める自由は、たぶん『沈黙の力』に描写されてあり、無限なるものと、自分との輪を強くする(生き返らせる)という感じか。現在の生活環境ではなかなかそこまで気が回らないかもしれないが、とりあえず、これまで生きてきた39年間を事細かに「反復」してみようと思う。

 自尊心に使うエネルギーは減ったが、まだ執着心に使うエネルギーが残っていたり。この辺か。

 
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