memory of caprice

浮世離れしたTOKYO女子の浮世の覚書。
気まぐれ更新。

黒田辰秋と進々堂の長テーブル

2014-11-06 05:31:31 | 
2014年3月14日朝日の夕刊より

京都の老舗べ―カリ―進々堂は京大生の憩いの場として昔からその落ち着いた店内の様子で知られていた。
・・といいますか、現在スタバで見られるようなコーヒー傍らに静かに勉学にいそしむ京大生御用達カフェとして、京都在住だった高校生の当時、憧れをもってその場所を眺めていたわたくしにとって、なかなかに興味深い記事があり・・・。
ずっと取っておいたのですが、こちらに転載させていただくことにしました。

■「進々堂京大北門前」
075・701・4121
は、京阪や叡電出町柳駅から徒歩約15分。定休日は火曜日。隣接するパン屋で購入した品は、飲みものを注文すれば喫茶店で食べられる。ちなみにパンのチェーン店「進々堂」の創業者は同じだが、現在は別法人。
 黒田辰秋の「心の師」だった河井寛次郎の自宅兼工房は東山区五条坂鐘鋳町の「河井寛次郎記念館」075・561・3585として公開されている。同館の看板や、状差しなどは黒田の作品だ。(看板の文字は棟方志功)。
 「進々堂」とほぼ同じころ、祇園の老舗菓子店「鍵善良房」も、黒田に飾棚を依頼。現在も店頭で見ることができる。

■黒田辰秋
1904年、京都市の「塗師屋」職人の家に生まれた。父の仕事から漆や木工芸の技術を習得。その作風は拭漆(ふきうるし)の盆のような素朴なものから。螺鈿を施した菓子箱、大型座椅子など幅広く、志賀直哉や小林秀雄、黒澤明が愛用した。70年、人間国宝。82年、急性肺炎のため77歳で死去。


扉を押し開けて、店内に入ると、不思議と懐かしさを覚える。
 店の随所に陣取り本や教材に視線を落とす学生たちも、自室のようになじんでいる。静謐かつ親密な空気感こそ、80年以上、このカフェ「進々堂京大北門前」が京都の学生たちに愛され続けてきたゆえんなのだ。
 重厚な存在感を放っているのが、後に木工芸の人間国宝となる黒田辰秋が、若き日に手がけた8組のテーブル群だ。楢材を、木目の美しさを引き出す「拭漆」という手法で仕上げた。長さ役2メートル、幅74センチのテーブルに、同じ長さのイスが寄り添う。
 これらを黒田に依頼したのは、同店の創業者、故・続木斉(つづきひとし)さん。続木さんのひ孫で4代目店主の川口聡さん(52)は「初代がパンづくりを学びに渡仏した際、若者の街カルチェラタンのカフェで、議論を交わし読書をする若者たちの姿に衝撃を受けたそうです。こういう場所を日本にも、と開いたのがこの店です」。

 1930年にまずパン屋を開業。
 カフェも建設が進んでいたが、納得できるテーブルセットが見つからなかった。そこに、続木さんの友人の紹介で、当時26歳の黒田が訪れた。
 「学生の天国にしたい」という続木さんの理想を聞いた黒田は、一気に作り上げた。ふさわしい作品を得て、カフェは31年にオープンした。
 当時、黒田は転機に直面していた。名もなき作り手による日用品に見る「用の美」の重要性を唱えた民芸運動の旗手の一人、京都の陶芸家の河井寛次郎に心酔していた黒田は20歳過ぎに河井に作品を認められた。河井を通じ民芸運動の中心人物柳宗悦が発案した若手作家の共同体に参加。だが、人間関係のもつれなどで2年半で解散。進々堂からの依頼は、その直後のことだった。
 黒田の工房で数年間、作業の手伝いをしていた美術評論家の青木正弘さん(66)は、こう語る。「無名性を重んじた民芸の考えと、自分の作家性との間で悩んでいたようです。解散後は、後者に軸足を置いて存分に作ろう、と思えたのでは」
 カフェに注文の品を搬入する時、黒田は続木さんに胸を張ってこう宣言したそうだ。「200年は持つ。存分に使ってください」

 テーブルは、コーヒー一杯で何時間も過ごす学生たちとともにあった。常連には湯川秀樹や福井謙一ら、のちのノーベル賞受賞者も。京大出身の作家、森見登美彦さんは「自分には敷居が高かった」と回想するが、自作『夜は短し歩けよ乙女』の重要な場面でこのカフェを登場させている。「黒光りする長テーブルを挟んで人々が語り合う声、匙で珈琲をまぜる音、本のページをめくる音が充ちています」
 少なくともまだ120年、学生の「天国」は健在たりえるだろう。


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