百姓ふぉーく ヒューマンファーマーズの活動を開始して来年で満20年になる。「食と農を守れ」、「野良の話題から世界の平和まで」などと唱えながら、ほぼ同時期に沸き起こってきた農民運動や食健連運動などにも呼応して、最初は多忙な仕事や活動の合間をぬって、やれる範囲で気ままな演奏活動をしてきた。
こんなチームでも長くしぶとく続けてくる事が出来たりゆうとしては、ただ純粋にフォークソングがすきであったということや、創作表現することが生きがいであったと言う事もあるだろう。自分たちの歌とメッセージに強い信念を持ち、演奏で共感しあうことを生きる力ともしてきたこともあるだろう。いい加減なようでけっこう執念深いのである。偶然の出会いや運にも恵まれた。また一部だが、物好きにも熱烈な支援をしていただいた皆さんがいる。これには深く感謝している。
メンバーは北嶋誠、佐藤せいごう、武田秀明で始まり、やがて亀井秀明、久保田秀幸、渡辺三智夫が加わった。もとより私と佐藤せいごうのコンビが骨格であり基本形だったが、他のめんばーの個性や持ち味が加わってヒューマンふぁーまーずのこれまでのスタイルが形成されてきた。したがって、一人ひとりが重要な存在であり、二人以上ならどのようなメンバー編成でも、ヒューマンファーマーズとしての誇りと威信?にかけてその責務を果たしていただくことになっている。これは決して虐待ではない。ふぁーまーずはあくまで任意参加なので、現存のメンバーにとってはむしろこれは快楽であると勝手に解釈している。要するに始めるのも始める方ならつき合うのもつき合うほうなのである。
持ち歌は、仕事や生活の中で少しずつ作りためたオリジナルと替え歌の類であった。初期に多く歌った歌は、「テーマソング」、「稲刈りの唄」、「署名の歌」、「れんげの花咲く田んぼに出かけよう」、「歩みをとめずに」、君が代を風刺した「日本国酷歌」、輸入食品と横浜港を題材にした替え歌メドレー「未完成組曲危ない横浜」etc。これでは、一般的にはまともなバンドには見えなかったであろう。だが、農業、食料、環境、平和、にんげんなどをテーマにして私たち自身が望む歌、フォークソングを歌っていく以外に路はなかったのである。笠木透氏と出会ってか
らは、これが改善されるどころか、その特異、偏屈、過激?謙虚?で独自のフォークソング路線にさらに拍車がかかってしまったように思う。
もっと練習やこんさーと活動をしたい。歌の創作やcdづくりもしたい。などと思いながらも、実行に移す余裕もないまま、1998年5月のれんげ祭りの頃までの約10年間はこういうペースで過ぎていった。
そして1998年は、わたしの病気失明という、自分ではなんとも表現しがたい出来事があり、私と家族、私の周囲の仲間たち、そしてヒューマン・ファーマーズの運命も大きく揺れ動いていくことになってしまった。ここがひゅーまんふぁーまーずにとって一つの転換点となったのである。
こんなチームでも長くしぶとく続けてくる事が出来たりゆうとしては、ただ純粋にフォークソングがすきであったということや、創作表現することが生きがいであったと言う事もあるだろう。自分たちの歌とメッセージに強い信念を持ち、演奏で共感しあうことを生きる力ともしてきたこともあるだろう。いい加減なようでけっこう執念深いのである。偶然の出会いや運にも恵まれた。また一部だが、物好きにも熱烈な支援をしていただいた皆さんがいる。これには深く感謝している。
メンバーは北嶋誠、佐藤せいごう、武田秀明で始まり、やがて亀井秀明、久保田秀幸、渡辺三智夫が加わった。もとより私と佐藤せいごうのコンビが骨格であり基本形だったが、他のめんばーの個性や持ち味が加わってヒューマンふぁーまーずのこれまでのスタイルが形成されてきた。したがって、一人ひとりが重要な存在であり、二人以上ならどのようなメンバー編成でも、ヒューマンファーマーズとしての誇りと威信?にかけてその責務を果たしていただくことになっている。これは決して虐待ではない。ふぁーまーずはあくまで任意参加なので、現存のメンバーにとってはむしろこれは快楽であると勝手に解釈している。要するに始めるのも始める方ならつき合うのもつき合うほうなのである。
持ち歌は、仕事や生活の中で少しずつ作りためたオリジナルと替え歌の類であった。初期に多く歌った歌は、「テーマソング」、「稲刈りの唄」、「署名の歌」、「れんげの花咲く田んぼに出かけよう」、「歩みをとめずに」、君が代を風刺した「日本国酷歌」、輸入食品と横浜港を題材にした替え歌メドレー「未完成組曲危ない横浜」etc。これでは、一般的にはまともなバンドには見えなかったであろう。だが、農業、食料、環境、平和、にんげんなどをテーマにして私たち自身が望む歌、フォークソングを歌っていく以外に路はなかったのである。笠木透氏と出会ってか
らは、これが改善されるどころか、その特異、偏屈、過激?謙虚?で独自のフォークソング路線にさらに拍車がかかってしまったように思う。
もっと練習やこんさーと活動をしたい。歌の創作やcdづくりもしたい。などと思いながらも、実行に移す余裕もないまま、1998年5月のれんげ祭りの頃までの約10年間はこういうペースで過ぎていった。
そして1998年は、わたしの病気失明という、自分ではなんとも表現しがたい出来事があり、私と家族、私の周囲の仲間たち、そしてヒューマン・ファーマーズの運命も大きく揺れ動いていくことになってしまった。ここがひゅーまんふぁーまーずにとって一つの転換点となったのである。