「 お庭に咲いたプルメリア 」
絵の友 T.Iさん 撮影
今日はレッスン日で、さすがに全員が(10名、他に1名が長期休会中あり)参加で楽しくレッスンを受ける。
このレッスンもお願いしてからかなり久しい。我々のうち私も含めて何人かは、年齢のことを別にしても、
我流でこり固まりこれから進歩するのは一寸?という感じがある。しかし他の方達は、このレッスンのお陰と
それを基本にした練習と慣れによるのだろうか、ピンポンというより卓球という感じにいつの間にかなってきて
いる。例えば、球を押す、当てるだけという感じから、球をこすってスピンが掛かる打ち方に、
そして突っつきカット、バックなどを駆使するようになった。
大昔はこのピンポンというスポーツは、色白で可愛くて小柄で、おとなしいメガネをかけたお勉強の出来る、
しかも内向的で地味な暗い人のやるものというイメージだった。自分がやるものではないと思っていたものだ。
たまたま機会があって64才頃からピンポンを始めたのだが、これが何ともやればやるほど難しく
そして奥深いものなのにとても驚き当惑したのを覚えている。卓球などと馬鹿にし
、これは子供の遊びか温泉旅館での遊技だという位の認識だった自分に恥じ入るような気持ちでもあった。
何のスポーツでもそうなのだろうが、その本当の姿はやってみないと、分からないというものばかりなのだろう。
他の趣味でも何でもそうだろうけれど‥。
何事も全てやることは出来ないのだから、たまたま体験しているものを通してしか、他の事の実体やそれの
奥深い世界を推測するしかないだろう。
何事でも見た目では一見単純そうで簡単そうなものほど、いざやってみると難しく深いものだという。
スポーツを見るのも、自分ではやっていないか或いは全く知らないか又はほんの一寸だけの経験だけならば、
思い切りオダを挙げて選手を叱り、批判や罵倒をしたり、また時にはヒーローとして崇めたりして、勝ったの
負けたのと興奮して楽しむことが出来るものという。
このスタイルがスポーツ観戦の何と言っても一番の醍醐味だろう。大衆スポーツではこうしたフアンや観客が
多いほど隆盛なスポーツというわけだ。
例えば、このピンポンでも自分がやってさえいなければ、世界卓球選手権のTVをみていても、そのもの凄さ、
スピード、高度な技術や、気が遠くなるほどの難しいことをやっていることは当然ながら分からずに、
日本人が勝った、負けたと一喜一憂、そして何であんな球が取れないの、何で打てないのと文句を言っている
だけだったかも知れない。
しかし、これが一般フアンの普通の楽しみ方であり、昔の巨人が勝ったと喜び、負けたと言っては悔しがり
興奮していた、野球知らずの大衆フアンと同じパターンで、「見るだけスポーツ」の良さであり面白いところで
あるのだろう。
しかし今はその楽しみだけでなく、多少は分かって来ただけにそのあまりの壮絶さに、見ていても息をのみ
重苦しい緊張や思いがしてしまうのである。
これだとやったことのないサッカーとかバレーの試合あたりで、勝ったの負けたのと単純に喜んだり
悔しがったり、あんなボールが取れないのか等と文句を言っている方が余程楽しいのではあるまいか。
先生のレッスンのお陰で、青鳩も自画自賛になるが、上手になったと思う。
しかし全員に共通の最大の難点はサービスである。これは皆が全く出来ていない。対外試合などをするわけでは
ないから必要ないとも言えるけれど、ピンポンという一つのスポーツとして捉えるのなら、
サービスは絶対必要項目である。それもかなり重要なアイテムだろう。
これを知らなければピンポンをマスターとか理解したとは言える筈はない。
次回レッスンではこの事を先生に相談してみよう。