今日はレッスン日で、2~3ヶ月に1回位でめったないから祭日にも拘らず11人も出席した。これは現時点でのオールスターメンバーだ。全員が揃うなんてことは忘年会以来の珍しい事だ。このレッスンももっと増やすべきか(せめて月に1回とか)どうなのか迷うところである。増やす事には賛否両論これまではあった様だ。我々の先生は、まことに熱心で親切に明るくやってくれてとても教え上手だ。
リーズナブルな説明、適格なアドバイス、見事な実技のお手本とこれはもう何も言う事はない程だ。先生と打ってるといつも同じ所に必ず返ってくる勢なのか、結構こちらも返せて何だか上手になった様な気分になってすこぶる気持ちがいい。今日も先生のアドバイスですぐに見違える位、フォームといい球筋といい良くなった人がいて驚いた。先生もいろいろな所で教えておられて忙しく、毎月は日程の調整がつかないので、何となく其のままで最低の頻度でお願いして続いて居るわけである。
単に体を動かしたいだけ、わぁわぁ遊びたいだけ時間つぶしだけというなら、わざわざ先生に習う意味はあまりないだろう。先生に直され指摘されるのは今更嫌だ、億劫だ、窮屈だ。それより自由に遊びたい。我々だけでもプログラムを作って練習するなんてのも嫌だ、練習という言葉を使うのも嫌だという意見もあった。今更真面目にやってどうするの、たかがピンポンじゃないの、遊びじゃないか、ピンポンが上手になってどうするのといった声すらあった様だ。
さすがに今ではそんな声は聞かれない。それだけ我々がワンステップ、アップしたことの証しだろうか。ピンポンの本当の面白さが少しづつ見え始めて来たからだろうか。
どうせやるならスポーツでも何事でも、例え人によってその目的や動機は様々でも、少しはちゃんとやってみたい、少しは上手になりたいというのは本能だろう。スポーツならば正しいフォーム、セオリー、練習法があるのだから身に付けてみたい、少しでも面白く楽しくしたいと思うのは極く自然の気持ちだろう。
人間、例えそれが何事でもやるなら少しでも上達したい、正しいやり方を身に付けたいという本能的な気持ちや尽きぬ好奇心が無くなったら、誠に残念でもう何とも気の毒なことだ。
反面、適当に遊びで漫然とでもやっていれば上手になるよという声もある。それも経験的にも確かである。
しかしそれに甘んじて居るだけでは如何にも知恵がない。長い間、多くの人が練り上げ作り上げてきたセオリー、方法論、技術論や練習法があるわけでそれを利用しない手はない。ただやってるだけではそこそこ上達はしても、すぐに低い壁に当ってそれを超える事は出来ないという。理論的な技術の裏づけの無い悲しさというか、自己流の限界というやつだ。
今の我々はそんな意味でも、2~3ヶ月に1回でどうしても1人10分位しか時間が取れないから、なかなかその効果は目に見えない。
それでもレッスンのあった次の練習日では、やはり先生の影響が、フォームに球筋に自由な各々の練習内容にも感じられるから、これを続けてゆっくりと回数を重ねて行けばいいのだろうか。
あまりレッスン回数を多くしても、それこそ青鳩の当初の目的とは、試合に出るとか強くなることが目的ではないのだから、掛け離れてしまうだろう。
表現が難しいが、下手でも上手になって少しでも本当のピンポンをを知った方が遣り甲斐があるというものではなかろうか。
そして楽しく遊びながら長く皆で続けられ、体もそしてそれにもまして心も精神も健全に過ごせるならばもうそれ以上は贅沢な位だ。
リーズナブルな説明、適格なアドバイス、見事な実技のお手本とこれはもう何も言う事はない程だ。先生と打ってるといつも同じ所に必ず返ってくる勢なのか、結構こちらも返せて何だか上手になった様な気分になってすこぶる気持ちがいい。今日も先生のアドバイスですぐに見違える位、フォームといい球筋といい良くなった人がいて驚いた。先生もいろいろな所で教えておられて忙しく、毎月は日程の調整がつかないので、何となく其のままで最低の頻度でお願いして続いて居るわけである。
単に体を動かしたいだけ、わぁわぁ遊びたいだけ時間つぶしだけというなら、わざわざ先生に習う意味はあまりないだろう。先生に直され指摘されるのは今更嫌だ、億劫だ、窮屈だ。それより自由に遊びたい。我々だけでもプログラムを作って練習するなんてのも嫌だ、練習という言葉を使うのも嫌だという意見もあった。今更真面目にやってどうするの、たかがピンポンじゃないの、遊びじゃないか、ピンポンが上手になってどうするのといった声すらあった様だ。
さすがに今ではそんな声は聞かれない。それだけ我々がワンステップ、アップしたことの証しだろうか。ピンポンの本当の面白さが少しづつ見え始めて来たからだろうか。
どうせやるならスポーツでも何事でも、例え人によってその目的や動機は様々でも、少しはちゃんとやってみたい、少しは上手になりたいというのは本能だろう。スポーツならば正しいフォーム、セオリー、練習法があるのだから身に付けてみたい、少しでも面白く楽しくしたいと思うのは極く自然の気持ちだろう。
人間、例えそれが何事でもやるなら少しでも上達したい、正しいやり方を身に付けたいという本能的な気持ちや尽きぬ好奇心が無くなったら、誠に残念でもう何とも気の毒なことだ。
反面、適当に遊びで漫然とでもやっていれば上手になるよという声もある。それも経験的にも確かである。
しかしそれに甘んじて居るだけでは如何にも知恵がない。長い間、多くの人が練り上げ作り上げてきたセオリー、方法論、技術論や練習法があるわけでそれを利用しない手はない。ただやってるだけではそこそこ上達はしても、すぐに低い壁に当ってそれを超える事は出来ないという。理論的な技術の裏づけの無い悲しさというか、自己流の限界というやつだ。
今の我々はそんな意味でも、2~3ヶ月に1回でどうしても1人10分位しか時間が取れないから、なかなかその効果は目に見えない。
それでもレッスンのあった次の練習日では、やはり先生の影響が、フォームに球筋に自由な各々の練習内容にも感じられるから、これを続けてゆっくりと回数を重ねて行けばいいのだろうか。
あまりレッスン回数を多くしても、それこそ青鳩の当初の目的とは、試合に出るとか強くなることが目的ではないのだから、掛け離れてしまうだろう。
表現が難しいが、下手でも上手になって少しでも本当のピンポンをを知った方が遣り甲斐があるというものではなかろうか。
そして楽しく遊びながら長く皆で続けられ、体もそしてそれにもまして心も精神も健全に過ごせるならばもうそれ以上は贅沢な位だ。