「 お庭の柘榴を収穫 」
高橋カリン 11月に 写す
今日の自由練習は7人だった。この3日間は良い天気に恵まれた。
富士山がとてもきれいだった。一般開放からの岡崎さんと山本さんが
来てくれた。卓球部の兄妹は学校の論文提出やら試験の時期だという。
上手な人が来ると俄然楽しい。つい無理して打ち合ったりしてしまうので
疲れるけれど、いつもとは一寸異質の楽しさがある。
そして不思議に球の回転が違うのか、打った時の感触がいつもの我々の
とは違う様な気がするのである。
この球筋が、いわゆるドライブが掛かっている球の感触というやつなの
だろうか。この話を誰だったか、少なくても私よりは上手な人に話したら、
そんな感覚や違いが分かるようになっただけでも進歩しているということだ!
と言われた。成る程そんなものかもしれない。
さてところで、最近つくづく思うのだが、全くこの世は様々色んなタイプや
性癖や考えの人が居ると言うことである。
しかも私も含めてだが、人は皆が自分だけは常識的で特に優秀ではないが悪く
もない、まあ中庸というところのまずは平均的な善人であると思い込み、
そう固く信じているのだから始末が悪い。
しかしこの位なら案外謙虚で微笑ましく、そして冷静で客観的に自分をよく
見ている、身の程を知っているという好ましい人かも知れない。
しかし時には、自分は人より全てに優秀で自分が正義で、自分の思うことや
していることが常に正しく常に善で、全てのことを分かっているのだと
、芯からそう思い込んでいる、見ていると楽しい様でもあり、憎らしくもあり、
悲しい様でもあり哀れや気の毒にと感じさせられたりといった、一見さぞ自分
では幸せなのあろうと思うような、そんな面白くもお目出度い人も羨ましい様な
人も結構いるようだが…。
最も人間はそんな心情にかなり近い気持ちで自分を鼓舞したり、思い込んだり、
自分だけはと信じなければ生きていけないという、案外弱い存在なのかも知れない。
よく人間はその生まれ育ちの氏素性やその後に備わる品性、頭脳、教養、その上に
人間の性格形成に大きな影響を与えるという家庭や生活環境、そして社会環境と
いった内的外的な要因によって、様々な個別の人間性とか性格や趣向とか考え方等の
全てが形成されると言われる。
従って十人十色で1人として同じ人間はなく、だから様々な人間模様があって面白い
とも言えるのだが、善も悪も正も邪も、仏も鬼も、軽い人も重い人もいるという
わけである。唯物論者もいれば唯心論者もいるし、現実主義、拝金主義、権威主義が
いれば、一方には詩人がいてロマンチストや博愛主義者までいるのだろう。
しかしそんな様々な人間に唯一平等に例外もなく訪れるものが「老い」という奴で
(最近では栄養や環境が良くなった勢か、千人に1人位の割合で例外的な人も居る
らしいが)であるという現実がある。
どんな金持ちにも私の様な貧乏人にも、偉い人にも凡人にも善人にも悪人にも
全て等しくそれだけはやって来るところが、何とも心憎い自然の摂理であり
天の采配なのかも知れない。
老いはその肉体的な衰えは命ある生物としては必然のことだが、その肉体の一部でも
ある脳細胞の減少作用により、体と共に精神面での気力、意欲の減衰もこれも又、
仕方がないことと言われている。
この精神上の衰えは、人から明るさ、笑い、他人との会話、協調性、ユーモアも冗談も
(昔から大変無口な人とか、冗談軽口などは軽薄者のすることだと信じてきたような人は
別だが)、人の話を聞くという人間らしくて好もしい動作をいつの間にか奪い取って
しまう。これ等のことが老人が嫌われる諸現象の元になるのだという。
こうした現象や傾向や性癖は大なり小なり、人間皆が持ち合わせているものだが、
その様々な部分の内の、より強い大きな所が特化して年齢の影響を受けてしまう、
するとその所の性癖が強調されて顕在化してしまう。こうしてその特性がその人の
個人的な特徴として顕著なものになってくる。
それはあたかもその人が持って生まれた性格かのようにその人に住み着いて、
そんなタイプの嫌われる事が多い頑固で意地悪な立派な老人に変えてしまう。
だからそれぞれ程度の差はあっても、かなりの異常状態でもない限りは、生理現象だ位に
考えて気にしない方が良いらしい。ご本人も勿論だが周りの人もだそうだ。
互いに理解をして上げるのが思いやりだろうか。
気軽にのんびりと心を穏やかに、平穏な気持ちで毎日を過ごし、ピンポンで体を動かし、
何より人と話をして(自分が話すのも大切だが、それと同じ位に或いはそれ以上に人の話を
聞くことも理解するのも大事)、美味しいものを食べ大いに笑えれば、ウツ知らず、イライラ
知らず、ムッツリ知らずで、腹立ちも切れることも人を怒るのも知らずで、明るく楽しく
過ごせること請け合いだと、老人精神衛生学の教科書には必ず出ている。
しかしなかなかそれを実践できないのが、我々わがままな後期高齢者なのである。